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2017年10月11日 (水)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(22)

5.擬人化される脳

この幼児を不自由と見なしうるのは、幼児からすれば超越的な位置にいる自由の担い手、すなわち大人です。幼児を客体と見なす主な理由はその知的能力の低さということなるでしょうが、かといって、幼児は知的能力の低さのみによって不自由なのではないし、幼児と対比された大人も、幼児にはない知的能力をもっていることによって自由なのではありません。幼児と大人を対比するとき、私たちは自らを大人の側に重ねて事情を理解する。そのとき大人の側には知的能力だけでなく、われわれの自由が与えられていて、この付与が幼児にできないことができる大人を、幼児にはない自由を持った大人として理解させるとともに、その自由との対比のもとで、幼児を不自由と見なすことを可能にします。

このとき、私たちはこの大人を擬人化しているということがてきます。これは、通常の意味での擬人化、つまり、人間が持っているある具体的能力を、人間以外の対象に与える擬人化、ではありません。火星人やプログラムを儀人化するとき、われわれは自由とは何かを理解したうえでのその能力をそれらに与えるのではなく、、自由とは何かが分からないままに火星人やプログラムに自由を与える。重要なのは、この意味付与をする視点の位置で、火星人の事例では、その視点は火星人の内部に、プログラムの事例ではプログラムの世界の外部にあります。火星人の事例が超越論敵なのは、視点のこの位置によるものです。われわれ人間は火星人の自由に支配されることによって「本当は不自由」なものとなりますが、しかし火星人の超越的な自由とは何なのかは決して説明されず、われわれはただ、われわれの自由を火星人に譲り渡すことでも超越論的に不自由な存在となるわけです。

これは、日々の生活に直結してきています。というのも、今日の脳科学の発展は、とうにんではなく「脳がさせている」という種類の認識が、あらゆる人間の様々な行為についてあてはまるということなってきています。脳が火星人のような「させる」側のものとして、すなわち操作の主体として擬人化されることで、その支配下にあるすべての人間は「本当は不自由な存在」とみなされるというわけです。重要なのは、そのような脳-人間関係の理解が、火星人やプログラムの事例と同じように─自由とは何なのかの解明を保留したまま進行する点です。脳は、我々を不自由にさせる主体としてのみ、擬人的に自由の側に位置できます。つまり、人間は自らの自由をそれが何なのか不明確なままに脳に比喩的に譲渡するすることにより「不自由」な存在となりますが、この構図はどこまでも、我々人間の側から意味を与えられたのです。脳がわれわれに何かを「させる」ことができるのは、脳を自由の主体として擬人化しうる限りにおいてのことです。その擬人化が終わるとき「させる/される」という観点もまた消えることになります。人間が自ら完全に不自由と見なし、脳に比喩的に譲渡しうる自由がその概念的源泉において枯渇した際には、もはや脳が「させる」側にあることの意味を理解することもなくなるでしょう。

 

6.フランクファート・ケース再考

7.自由とは何だったのか

自由という概念をアマルガム(合金)として、自由のさまざまな成分には人称性が伴い、そのひとつに目を向けると、自由と似ても似つかないものに見えると著者は言います。

著者はアマルガムとしての自由の図式化を試みますが、三種類の人称(一人称、二人称、三人称)を頂点とする三角形です。われわれが自由と呼ぶものは、このそれぞれの頂点から提供された頂点のアマルガムであって、そのうちの単一の頂点からのみ捉えられる者ではないといいます。ここに自由の豊潤さがある反面、不安定な合金としての脆さがある。というのも、各人称の純粋な中間点に我々は立ちことができない、それゆえに我々は随時この三角形のどこか一点を自由としてとりだすほかはないからだ。つまり、われわれは、一人称かニ人称か三人称かのいずれかの場合でしか在ることはないということです。それらから独立した純粋に存在することはないということです。

その詳しい説明を著者は進めていきますが、全体として、自由は、各部分の成分が不均一なアマルガムの総体出合って、自由の成分比率として唯一正しいものはないと言います。そして、その総体としての自由は、不自由と相反するものではなく、(むしろ不自由はその一部である無自由と反する)世界が自由であることは、アマルガム全体の無化を意味する。つまり、われわれが自由であるとは、三角形全体の内部を動き続けることであり、そのどこか特定の一点を、自由として固守することではありません。

人間の経験がいずれかの人称的観点らみに固定されていたら、自由意志論は難問とはならず、そもそもそれほどの形而上学的概念にすることもなかったといいます。しかし、人間の経験は、三つの人称的世界を出入りする形態をとっており、そうした出入りを続ける人間が正常な人間であり、それは反応的態度の実践者でもあるのです。この正常な人間というのは自由な人間ということになります。これは、このような人々の知的能力の高さが自由をもたらすということではなく、このような正常な人間に共通している知的限界である特定の人称的観点のみを徹底することができないことが、無自由ではない、自由の世界の住人にしている、と著者は言います。

 

8.悟りと欺き

ここで述べられていることを知るとは、いったいどういうことだろうか、と著者は最後に問いかけます。それを知ることで、生活に何か変化はあるというのでしょぅか。すなわち、自分が無自由な世界の住人であると知ることによって。

ここで述べられてきたのは、運命の受容の勧めではないし、自由意志を持たない存在としての無我の境地に至ることでもない。そのような悟りへの意図は、無自由な世界に生きる無自由な私にとって無縁のものであり、ここでの議論の精神をその根底において裏切るものだといいます。なぜならそこでは、私は自由ではないと知ることで何らかの救いを得ようとする自由が、まさに私の自由として用いられているからです。

 

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