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2017年10月22日 (日)

マニュアルは作ることに意味がある?

 哲学書というのは、哲学者がこれまで考えられていなかったことを問い、その問いというのは従来の言葉にはないことであることがおおい。そこでは言葉にならないような形になっていないことを、言葉をつくりながら問いにしていくプロセスで生まれるものであることが多い。だから、哲学書を読むということは、たんにそこに書かれていることを読解するというのではなくて、そこをスタートラインにして自分で考えてみるということがあってはじめて理解が始まる。
 だから、単に書物を適当に読み流すとか、原本に当たらず解説書や入門書だけに頼って理解したような気になるということをすると、その書物が一般にどのように受け容れられているのかという程度の理解の限界を越えることはできない。それにもかかわらず、そういう読み方をした人は書物を理解したと考えてしまう。そう考えることによって、哲学書の内容を明らかにしたのではなく、むしろ隠蔽してしまうことになる。そこで哲学書は矮小化され、縮小再生産されていく。
 これは何も哲学書にかぎったことではなく、本というものには、そういうところがある。それだけではない。企業等の業務マニュアルにも、そういうところがあると思う。マニュアルというのは、単に書かれている文字を読んで、形式的に、その通りに作業をするものにとどまるものではない。それだけでは、縮小再生産に陥る。具体的には、作業を形式的に行うだけで、この行動の意味とか理由といったことなどが消失してしまい、形式化した前例となってしまう。それを防ぐには、マニュアルを読むだけでなく、マニュアルを作った人の作成したことを自分なりに考えて追体験することが必要ではないかと思う。マニュアルというのは、作ってある通りに作業するものではなくて、作業をしている人が自分で作るものではないかということだ。

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