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2017年10月 3日 (火)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(14)

第3章 実現可能性

1.時間と様相

時間と様相(可能性様相)について、分岐問題の直観と対応して考えていきます。可能世界意味論は量的かつ静的(無時間的)に様相を扱う、と著者はいいます。静的に並んだ可能世界のうち、一つ以上で成り立つならば可能、すべて成り立つなら必然といった数量的把握に対して、可能性とは、未来へと世界が変化していく中で選ばれていくものではないかか、と問いかけます。

可能世界意味論では、ある世界から別の世界への到達可能性が話題にされます。しかし、現実主義において、別々であれば全体が別の全体になることはありえないことです。著者は、全体としてのある世界が別様の世界でありえたかどうかは、その世界内のある個体が別様でありえたかどうかにも関わります。例えば、眼の前の飼い猫について、この猫が我が家の飼い猫でなかった可能性はどうでしょうか。今現在の日時において、この猫が、我が家の猫でない可能性を認めるためには、そのような可能世界がたんに存在するだけでは足りず、さらに、この現実世界がその可能世界でありえたのでなければなりません。というのも、考慮されているのは、この特定の猫の可能性だからです。この猫の対応者がどこかの世界にいるだけでは足りないし、この猫の反事実的可能性の表象─それは猫でない─が現実世界内にあるだけでも足りないのです。そうてはなく、この猫があの猫(我が家の猫でない可能性としての猫)でありえたが問題なのあって、この猫があの猫になりえたか、すなわち、この世界があの世界になりえたかが問題になるのです。

この場合、この世界が別の世界でありえたことを静的に掴むことはできるのだろうか。ある全体が別の全体でもありえたことを、あくまで静的に捉えようとすれば、二つの全体はトークン的に断絶してしまいます。

ルイスは現実を指標詞とみなしました。指標詞とは全体としての世界を現象的に制限します。「今」だけ、「ここ」だけ、「私」だけがすべて、と言った形です。客観的な全体を見るなら当然こんなことはいえません。にもかかわらず、今、ここ、私において現実に世界が開かれているとして、この制限された世界こそが全体と言いたくなる現象論の引かれることも事実です。

しかし、このような指標詞のなかで、「今」だけは動的で違うと著者はいいます。ある全体が別の全体でありうることは、ある全体が別の全体になりうることと独立に理解できません。この直観は、形而上学と認識論をつなげます。というのも、何らかの指標的制限において全体としての世界が与えられているとき、その全体以外に他の全体があることをわれわれは決して認識できないはずですが、時間の流れの認識はその特別な例外に見えるからです。

 

2.スコトゥスとアリストテレス

他の可能世界を実際に見ることはできません。この現実世界も含めて、諸可能世界は、どれもそれ自体として全体であって、私は一度にひとつの全体しか見ることができません。私が、この世界にいるかぎり、この世界が全体なのであり、この世界から他の全体を見ることはできません。もし仮に、あちらの全体が見えたのなら、そのときは、こちらの全体が見えない。というよりは、あちらの全体が、こちらの全体になっているということなのです。

他の可能世界の認識不可能性は、ある全体から他の全体を見ることができないということです。しかし、そうであるにもかかわらず、どうして私たちは、可能性について様々な認識(諸可能世界)を語ることができるのでしょうか。それには、何らかの手段で他の全体を見ているからに他なりません。その手段として考えられるのは時間認識以外にないというのが著者の主張です。概念的分析を行うなら、まず「ありうる」があって、そこに「なる(時間的推移)」が加わることによって「なりうる」が理解される。そこで様相は時間に先立つということになります。ここで全体としての世界について「ありうる」を理解するためには、「なりうる」の認識が不可欠です。その「なりうる」から「なる」を引くことで、「ありうる」を得ることができる。そのプロセスは、時間が様相に先立つことを示している、と著者はいいます。一般には、様相は時間的推移と切り離された概念であって、無時間的ということは論理的なものです。しかし、これは言語によって時間的な全体の推移を、無時間的な全体の推移(=論理可能性)に作り変えられているからだ、と著者はいいます。これは哲学史を遡れば、中世のドゥンス・スコトゥス以降、必然性・偶然性といった様相概念を時間の流れから切り離し(時間的に継起する因果関係に依拠したものでない)、ある瞬間において成立する様相概念をうちたてた、と著者はいいます。それが可能世界の先駆になった。

アリストテレスは、ある時点で何か、たとえばAが実現した場合、A以外の可能性はその時点で消滅する、と考えていた。つまりそれまではいくつかの可能性があったとしても、現実がその一つとして実現したとき、他の可能性はすべてつぶれている。

原因の一瞬のはたらきのうちで偶然か必然かが区別できるためには、言い換えると、結果を待たずにその区別ができるとすれば、原因自体において、両者が区別できなければならない。つまり、原因がはたらいた時点において、それが偶然であるか、必然であるかが見分けられなければならない。それゆえスコトゥスは、偶然の特徴を「同じ瞬間にAであると同時に非Aでありうる事象」と規定した。他方、この特徴をもたない事象は必然的な事象である、

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