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2017年10月 7日 (土)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(18)

第4章 無自由世界

1.他我問題の反転

心理学と神経科学の側面から、人間の意思決定においては、自覚的な決断の意識に先立ち、潜在的心理過程や脳神経活動が生じており、それらが実際の選択をひき起こしていること。自覚的意識はそうした諸原因を取り逃がしており、むしろ、選択が実際になされたあとから事後遡及的に不正確な理由が作られる。つまり、諸可能性のひとつを現実化する心理的決断などもともと存在しないという説です。しかし、これまでの議論から、たとえ心理的な決断が存在しないとしても、分岐問題は生じているわけです。

分岐問題への回答を多寡占的決定論に求めるとき、諸可能性の分岐は消失し、「未来の諸可能性のひとつを自由に選び取る主体」も「未来の可能性の一つを不自由に押し付けられる客体」も姿を消してしまいます。このとき人間は、決定するもの/決定されるものとしての、自由/不自由の対の外部におり、言わば、無自由な世界の住人となっています。すべての出来事は起こるままに起こるし、とくに、時間非対称な決定/被決定関係は維持し得ないでしょう。このような世界の描像は、一般的な意味での決定論を超えたものです。

他方で、分岐問題の回答を偶然(=分岐)の存在に求めるとき、可能性の現実化には常に、無根拠な偶然が介在することになります。あなたはいま手を上げることも上げないこともできたのだとすれば、そのどちらかが現実的であることには、一回性をもった偶然が関わることになります。そこに選択の主体はおらず、誰かの選択を押し付けられる客体も存在しません。心理的・神経科学的要因を持ち出しても、このことに影響はない。このような世界の描像は、諸可能性の分岐が存在する点で単線的決定論と異なるものの、すべての出来事はやはり起こるままに起こるということです。この場合でも、人間は、決定/被決定関係としての自由/不自由の埒外にあるという点で、無自由な世界の住人であると言えます。

これは、自由意志が偶然の一種でありうるということを否定するものではありません。この場合、自由意志と偶然は何か同じものの二つの側面でありうるということです。

三人称的観点における一回性を持った無根拠な偶然は、他の成分と協働しなければ、自由意志は見なせない。それを考えていくのが本章です。

最初の心理学、神経科学の知見を他我問題との関連で分岐問題に結び付けて考えていきます。そもそも、他我問題は、二人称的な他我の不可視性に由来するといいます。この場合の二人称は、目の前の他者それ自体を意味していて、これに対して一人称は私自身を意味しています。ある一人称主体としての「私」は、他者の意識がどのようなものかを知りません。他者がどれほど痛そうにしても、その痛みを私が感じることはできません。他者がどれほど痛そうにしても、その痛みを私が感じることはできず、私に分かるのはその他者が痛みに関して私と同じ振る舞いをすることだけです。視覚についても、聴覚についても、主観的経験は文字通り主観の中だけで限られます。その意味で、私は他者の存在を真に知ることはできません。

ここで注目すべきことは、自由意志と意識がその可視性について、人称的に逆転しているということです。この場合、自由意志についての可視性とは、その非存在についての可視性です。自分自身において自由意志の存在は疑わしい。これは第2章での議論ですが、内面観察をすればするほど、身体運動の感覚や姿勢変化の予期を超えた、自由意志の内観とは何かが分からなくなっていきました。自己内省によって捉えた自由感については無知ゆえの錯覚である可能性が否定できず、より深刻な問題として、分岐問題と直面したのです。すなわち、諸可能性選択の起点を時間分岐図に定位できないということです。結局のところ、行為者の一人称的な意識の内部に、自由意志の存在根拠を見出すことは難しいということです。もしも、他者の意識が見えたとしたら、一人称の場合と同じ結論となったでしょぅ。しかし、二人称の不可視性を確認したばかりです。他者の意識は見えません。ここで、他者の意識が見えないからこそ他者の身体運動の背後に自由意志のはたらきを想定すると考える余裕が生まれる余地があることになります。

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