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2017年10月 8日 (日)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(19)

2.ストローソンとデネット

ストローソンの「自由と怒り」について、雪や金魚や文房具などに対してわれわれは反応的態度をとらず、客体への態度─処置や管理や回避といった─をとります。たとえそれらの事物によって何らかの害を受けたとしても、他者に害されたときのような怒りを抱くことはありません。誰かがあなたを突き飛ばしたとして、あなたが反応的態度をとらず─怒りを感じず─客体への態度をとることがある。あなたを突き飛ばした人物が幼児やある種の精神薄弱であるようなとき、あなたはその人物に対して客体への態度をとることがあるでしょう。彼らを遠ざけたり、訓練したりすることはできるけれど、それは機械の不具合に対処するようなものであり自由な主への態度ではありません。また、誰かが転倒しそうになってあなたを突き飛ばしたような場合にも、あなたは客体に対する態度をとることがあります。

しかし、すべての人間対して客体への態度のみをとることはできないでしょう。われわれが客体への態度をとるのは、上述の二種類の場合であり、その場合において用いられている基準は、決定論の正否と関わりがないからと言えます。たとえば、幼児と成人との区別は、一般的な知的能力の差によっているのであって、決定論とは関係ありません。

ここで興味深いのは決定論のなかで峻別することが可能な「できる」「できない」の違いがあるということです。例えば、デネットによるコンピュータによるチェス対局の議論です。このプログラムは、決定論的メカニズムに従っています。同じ状況では、必ず同じ手を指すということです。そこで、二つのチェス・プログラム、AとBを繰り返し対局させるとします。擬似乱数や学習機能を利用することで、AとBは毎回異なる内容のチェスを指すことができますが、積み重ねられた対局の内容全体は法則的に決定されています。それぞれのプログラムの優劣により、AとBの対戦成績に大きな差が生じるというとき、AがBより強い理由として、それが法則的決定論に従っていたていたというのは、デネットは馬鹿げていると言います。AがBより強いのは、Bよりも優れた何らかの特性を備えているからです。例えば、定跡の膨大なデータベースであったり、局面の優劣を数値化する採点システムであったりといったものです。その意味でAはBと異なり、多彩な城跡を駆使し、形成を的確に判断することもできるわけです。たとえ法則的決定論の内部においても、AにはBにできないことが「できる」と述べることは意味を持つわけです。

決定論的世界では、幼児や精神薄弱者だけでなくあらゆる人間は、定められたことしかではない前提です。しかしそのような世界でも、幼児や精神薄弱者にはできないことを通常の成人はできる、というような「できる」ということに意味があるのは確実です。人は、まさにその事実によって、ある人物に反応的態度をとめか客体への態度をとるかを日々判断しています。

将棋やチェスの棋譜においては、分岐問題すべてかき消されています。棋譜はその本性上、可能性の時間分岐点を記述しません。例えば、将棋の初期局面から先手は三十数種類の手のうちのひとつを指し、後手もまたそれらの手に対して、それぞれ三十種類の手のうちの手を指すことができます。棋譜ではこのプロセスが「▲7六歩 △8四歩」といったように記されます。ここには▲7六歩と△8四歩の間の分岐点や、そこでの選択については記されていません。つまり何が決定的な選択要因であったかについて棋譜が教えてくれるものはありません。

「▲7六歩 △8四歩」という棋譜は,30×30通りの指し手の中から、ただ一通りだけ選ばれたものと言えます。表面上、ここには「▲7六歩 △8四歩」という情報しか表れていませんが、そこには残りの指し手の可能性が背景情報として含まれています。棋譜は、そこに書かれた現実だけでなく、書かれていない他の可能性にも言及したものとして読まれていると言えます。このような背景の可能性を網羅できるか否かに、将棋と人生の違いがあると著者は言います。人生においては、実行された選択のほかにどのような選択が可能であったかを、将棋のように網羅的にすることはできません。

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