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2017年10月10日 (火)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(21)

4.なぜ道徳的であるべきか

一般に倫理は一人称的観点から基礎付けられている。この私が倫理的でなければならない理由の探求から、すべての人々が倫理的であるべき理由を得ようとしている。現実問題として、私以外のすべての人々が倫理的であってほしい理由は、第一にほかならぬ私が害されないためだろう。そして、私的な反応的態度としての怒りを公的な道徳的態度に結びつけることで、私を害した人物を他の多くの人々ともに糾弾できる状況を得ることができる。しかし、これは利己主義そのものだろう。そこで倫理的な基礎付けでは見えなくされる

なぜ道徳的でなければならないか、という問いに対しては、人間一般が道徳性を持つことが、人間一般にとって高利性を持つという議論がある。しかし、これでは人間一般ではなく、私が道徳的でなければならない理由にはなりません。これに対して、著者は二つの答えを提示します。道徳的になるか否かを自由に選択できる私は、すでに二人称化された私であり、他者から見た他者なのであるから、人間一般が道徳的であるべき理由と同じ理由のもとで、道徳的であるべきだ、というものです。この答えは、私もまた社会的存在であるから他者のことを考慮すべきだ、といった答えとは微妙に異なります。私が私を自由と見なす以上、私が他者から道徳性を求められる主体(他者から見た他者)であることを、私はすでに知っており、だからこそ私は私を自由と見なしえた、という点こそが重要です。この点をおさえた後でなら、「私が道徳的であるべきことは知っているが、しかし、道徳的判断を他の価値判断よりつねに優先すべき理由はない」と考えることはできるし、そのようなことは私以外の他者にもできる。

そして、もう一つの答えは、複雑なものとなります。「なぜ私は道徳的でなければならないか」という表現で問われているのは、この、内側のない、まったく一般性を持たない存在である私がなぜ道徳的であるべきか、ということです。したがって、人間一般が道徳的でなければならない理由は答えにはなりません。そこで、私たちは、次のようにして分岐問題と再び向き合うことになります。

内側のないものとしての私は、ある時間のある場所の身体を中心に、すべてをあからさまにして「立ち現れ」ています。心の隠された面などは、そこにはありません。「私の心のすべてを私が知っているわけではない」と答えるのは、私を二人称化し、私の言動・思考の系列に合理的な解釈を与えようとするときです。すなわち、自由な私がなぜあんなことをしたのかが私には分からず、その理由は私にも隠された私の内面にあると答えたときのように。しかし、わたしのそのような二人称化を経ることなく、「立ち現れ」るものをただ眺めるかぎり、すべてはありのままにある。

このような私の内側のなさは、現実性、そして現在性、つまり今であること、と重なります。現実における現在はすべてありのままにあり、その背後には何もありません。分岐問題をやり過ごすために選択の起点を隠す場所はありません。これは時間分岐図での主体の定位と現実の現在の形而上学的な定位の違いを読み取ることができます。他者=主体=自由が時間の影響であるとかれば、私=現実=現在は時間の核です。前者は後者によって開かれた時間分岐図への寄生物ですが、その寄生物の力がなければ、私は自由な主体にかれません。

内側のない私が、可能性の時間分岐において特定の方向に進むべき理由があるのだろうか。現実における現在をその私と重ね見るとき、道徳的理由であれ他の理由であれ、未来選択の理由はありません。「なぜ私は道徳的でなければならないか」という問いが、内側のない私の次元にて受け止められたとき、その意味での私は無自由であって、選択肢を自分で「選ぶ」ことはありません。この現実の歴史における私が道徳的な人間であったなら私は道徳的であろうし、不道徳な人間であったなら私は不道徳ということになるでしょう。

まったく当然のことながら、この次元における私が道徳的であるべき理由は存在しません。その私はもう主体ではなく、自由と不自由の埒外にいます。それは、道徳への自由も不道徳への自由ももたず、より正確に言えば、道徳への不自由や不道徳への不自由も持ちません。内側がないとはそういうことで、自由とは他者のことであねとは、ここでの叙述の反転したものです。

もし子どもが「なぜ悪いことをしてはならないか」を聞いてきたら、その子どもが、自分は悪いことをすることもしないこともできると考えて、その意味で当人を自由と見なしているのであれば、もはや、このような問いを実践的に問わないはずです。実践的な問いとなりうるのは、ある特定の行為が悪いか否かであり、そして、ある観点における悪と別の観点における悪(例えば公共的な損害と私的な損害)のどちらを避けるべきかというようなものです。この領域を超えて「なぜ悪いことをしてはならないか」と問うのは、なぜ私を自由と見なさなければならないのかを問うことであり、そこに答えるべき答えはありません。

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