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2017年11月

2017年11月30日 (木)

ベルギー奇想の系譜(4)~Ⅱ.19世紀末から20世紀初頭のベルギー象徴派、表現主義(2)

Belgfantadel_2 Oyamadaharituke  ジャン・デルヴィルの「赤死病の仮面」という紙に木炭とパステルで描かれた作品です。この人も、以前にベルギー象徴派展でも見ましたが、ロップスと同じで、奇想という衒いで勝負している。言ってみれば素直な変態で、いかにもいう類型的になりそうなデザインで画面を作っています。この作品、木炭で真っ黒になるほど塗りこんで、時にパステルの色が入って、ダークな妖しさを演出しています。死神の姿は、暗い中で顔がぼうっと浮かび上がるようにぼんやりと描かれて、木炭の粗い描線の効果を生かしています。その顔は不気味な感じが募るようにデフォルメされています。この顔の形は小山田二郎の宗教的な作品と外形的に似ている感じがしました。しかし、小山田の作品にある重苦しさとか切迫感は感じられず、その代わりに妖しい美しさといった方向性なのではないかと思いました。
 「ステュムパーリデスの鳥」という紙にチョークで描いた作品。ギリシャ神話の人間を襲うこともある不吉な鳥ということですが、黒い鳥の群れが男の死体にたかっている光景が、不気味な感じです。スプラッター・ホラーの映像を芸術絵画として見ることができるように、美しく仕立てて作品とした感じです。たしかに、奇想で見る人に不気味な印象を抱かせるBelgfantadel2 ために、これでもかというほどの描き方をしています。このストレートさ執拗さ、くどさは、ボスやブリューゲルから一貫しているかもしれません。しかし、デルヴィルは、ボスやブリューゲルに比べて細部への緻密な描きこみや部分的リアルさの追求ではついていけていないので、中途半端な感じがしました。もっと、突き抜けてほしかったというもの足りなさが残りました。
 ベルギー象徴派というとクノップフを筆頭に、ここで見たロップスとかデルヴィルなどが知られているようですが、むしろ強く印象に残ったのは、これから紹介する3人でした。それぞれ静謐な画面なのですが、そのなかに普通じゃない異様なものがあるという作品です。
Belgfantanunk ウィリアム・ドグーヴ・ヌンクの「黒鳥」という作品です。山奥に深く刻まれた渓谷で急流のあとに突然あらわれる静かな凪のような場所の流れでみられるような水面の透明で深いグリーンが、画面全体を覆っていて、夜の森の中の湖の光景なのでしょうが、まるでそういう水の中にいるようなイメージを受けます。このようなグリーンがとても印象的です。画面は暗いのですが、透明さがあって、そこに何があるかは明確に見えるのです。暗くて何も見えないはずの夜の闇なのに、そこにある事物の形が明確に見える。しかも、黒鳥という暗闇に紛れて見えないはずものが、はっきり見える。それとは、分かりませんが、いったんおかしいと気付いたら、それは現実にはありえない、ある種の奇想ということになります。それは、前のところのボスやブリューゲルらの過剰ともいえる賑やかさの対極とも言える静謐で透明な空気感が奇想を作っているのです。この作品の静謐さは、独特の透明なグリーンという色遣いと、さらに幾何学的に整理整頓されているような画面構成によって、余計な情報が切り捨てられていることも原因していると思います。黒鳥の泳いでいる水面と背後の地面との境界は画面に水平な直線で、後景の地平線が奥で、それに平行な水平の線です。これに対して森の樹木は垂直に立っています。画面では水平な線と垂直な線のみで斜線や曲線は見られない、単純化された構成です。この作品では、そこに黒鳥という異分子が入ってきます。これBelgfantanunk2 に対して、同じ作者の「運河」という作品は、水平な線が運河の岸なのでしょう。手前に並木の垂直な線が等間隔で並び、向こう岸には倉庫なのか煉瓦色の建物が長方形で画面を埋めています。その単純な構成が、暗い画面のないで、ひっそりと、くっきり見えています。見る者は、画面が暗いので、自然と目を凝らして見ようとすると、透明感があって、並木も建物もはっきりと見える。どうしても、この作品の前では、目を凝らすので、口数が減って静かになってしまう、というわけではありませんが、画面には静寂感が強いです。
Belgfantathird  ヴァレリウス・ド・サードレールの「フランドルの雪景色」という作品です。ブリューゲルを意識して描かれた作品だそうですが、正反対の印象を与える結果となっているのが面白い。例えば、視線です。ブリューゲルは鳥瞰的な視点で地面にはいつくばるような人々の姿を見下ろすように描いていますが、この作品の視点は低く、むしろ見上げるような視点です。それゆえ、画面の上半分を暗い重厚な空がしめて、地面にのしかかってくるような感じがして、地平線にかすかな太陽の光が明るくなっていて、それで地面の一面の雪の白さが照らし出される。その白と黒の対照が際立ちます。この白と黒の図式的ともいえる対照はマグリットの類型化した画面に通じるところがあるかもしれません。そしてさらに、ブリューゲルとの違いは人影がまったく見られないことです。重くのしかかってくる暗い空と、対照的な白い雪面の冷たい風景には人の姿はなくて、寒々した寂しさを生んでいます。そこは、喜びも悲しみも、笑顔も恐怖も存在しない時間の止まった世界とでもいいましょうか。風景を写生したような、この仮面は現実にありえない世界を作り出しています。
Belgfantaspile  レオン・スピリアールトの「堤防と砂浜」という作品です。墨と水彩による、といってもほとんど色彩感がなく、墨絵のようなモノクロームな夜の海岸で、堤防の直線的な黒い影を境にして、画面上部はどんよりとした雲がたれこめたグレーな世界、下半分は海岸と砂浜なのだろうが。影になって漆黒のなか、ちょうど、月が水平線上にあって(画面上でも上下の境目)、一筋の月光が海面に直線の光線をつくっている。月の光の冷たく冴えたさまが海面上の一筋の直線の光線が走っています。ウィリアム・ドグーヴ・ヌンクの図式的な画面をさらに推し進めて、その上に色彩のいろどりを取り払ってしまったような作品ですが、静謐さとヒンヤリするような冷たい感触、そこに漂う孤独感とか不安さのような雰囲気は、ボスやブリューゲルと対照的な極北といえると思います。スピリアールトの作品が一点しかないのが、本当に残念でした。
 このあと、アンソールの展示が充実していたようですが、私は素通りです。

2017年11月29日 (水)

ベルギー奇想の系譜(3)~Ⅱ.19世紀末から20世紀初頭のベルギー象徴派、表現主義(1)

Belgfantaanto4  次のコーナーで時代が飛躍します。中世の残滓をもっていたボスやブリューゲルから一気に19世紀末のベルギー象徴派に飛びます。系譜であれば、この間は空白ではないと思います。何かあるんじゃなかろうか?
 で、ベルギー象徴派の先駆者フェリシアン・ロップスです。ボスやブリューゲルのような中世のカトリック信仰にドップリと浸かった中での作品に対して世紀末のデカダンスと大衆受けのセンセーショナリズムの中での作品です。
 ベルギー象徴主義のフェリシアン・ロップスによる「誘惑」は現実世界を退廃的に語っているといえます。ロップスはこういった男を誘惑する「女の魔性」というようなモチーフを自信のテーマとして中心に据えていたようです。たとえば「聖アントニウスの誘惑」について、同じ展覧会で同タイトルの作品が他にもあるので比べながら見てみましょう。この作品の主役は誘惑される聖アントニウスではなく、キリストに取って代わって十字架で扇情的なポーズをとる女性の姿です。その背後には悪魔がいて足元には貪欲さの象徴の豚がいます。その手前で両手で頭を抱えて身悶えしている老人が聖アントニウスでしょう。これは、もはや誘惑に耐える聖人の姿を描いたのではなく、聖人を描くという大義名分を利用して、エロチックな裸婦を描いたといった方がいいのかもしれません。そこには、立派な聖人なんぞより裸婦の方を見たいんでしょ、と見る者を嘲笑うかのような作者の視線が見えてくるかのようです。
Belgfantaanto3  16世紀フランドルの画家による「聖アントニウスの誘惑」では、右手前に座った聖アントニウスに対して、中央に裸婦がいて誘惑している場面です。彼女の隣には異形の者が並んで、順番に聖アントニウスを誘惑したり脅したりしようとしているということでしょう。ここでは裸婦は、そういう列の一人です。これらに対して聖アントニウスは端然とした姿勢を崩していません。ここでは、左右で異形の誘惑者と聖アントニウスが向き合うように配置され、誘惑する者たちが異形であるのと聖アントニウスが対照になっているので、異形が異様であるほど、聖アントニウスの自制心の強さが強調される構成になっています。
 Belgfantaanto1 ヤン・マンデインの「パノラマ風景の中の聖アントニウスの誘惑」では、それほど図式的ではないですが、聖アントニオを誘惑する面々は横に並んでいます。この画面には裸婦はなく、異形の姿の者たちばかりです。真ん中の赤い衣装を着ているのが聖アントニウスで、彼に向けて列を作って並んでいる者たちの姿は、異形で何らかのシンボルなのでしょうが、ユーモラスな格好のコスプレのように見えてしまいます。ブリューゲルの版画作品では、誘惑者が異形の姿で並んでいるのを描くことに重点が移っていますが、聖アントニオとの対照という姿勢は崩れていないでしょう。
Belgfantaanto2  ロップスの作品は印刷されて大量に出回ったということで、ペンによる線描に絵の具で彩色をしたもので、現代のマンガとくに70年代エロ劇画に近いテイストを感じます。多分、彼の生きた時代はタブーがたくさんあった時代で、彼としては、あえてエロに走らざるを得なかったかもしれません。現代では陳腐となってしまったような、通俗心理学のネタとなりそうな類型的なエロ幻想をペン画でサッと描いたという作品がありました。発表当時はタブーへの挑戦だったかもしれませんが。丁寧に作品を仕上げるというよりも、制作し、それを即座に発表するというスピード感のほうを優先するようなところ。そして、仕上げを敢えて雑にして、きれいに仕上げないことで、伝統的なきれいな絵画へのアンチテーゼや猥雑な雰囲気を感じさせていると思います。
Belgfantadeath  「舞踏会の死神」という作品は、黒いぼんやりとした闇の中から、衣装の白いものは見えますが、骸骨の頭部や背後に人影らしきものがあるようなのですが、ぼんやりと霞んでよく分かりません。それが、死神という実在が定かでない影のような存在が、暗闇からこちらを見ている不気味さを感じられると思います。頭は骸骨ですから当然なのでしょうが、その表情をうかがい知ることもできないので、何をしてくるのか予想もつかないわけです。
 そして、ベルギー象徴派といえばクノップフです。私には、ボスやブリューゲルよりクノップフの方が見たいのです。とはいうものの、展示されていた作品はパステルや彩色写真(こういうの初めてでした。要は写真で写したのに彩色したものらしいです)ばかりで、もの足りない。2005年に同じ美術館でベルギー象徴派展をやっていたときにも、今回と同様に肩透かしをくったようでした。どこか掴みどころのない画家で、なかなか正体を明かしてくれない印象です。「アラム百合」という彩色写真ということですが、もともとは画家の妹の肖像画をちゃんと描いていて、それを写真にとったものでしょう。そういう迂回のようなことを敢えて行って、作品として呈示するところ、このようなフィルターを掛けるようなことをすると存在感が稀薄になっていくところがクノップフらしいとでもいいましょうか。ここに展示されている作品は、奇想と言えるか。とくに、彼の作風は静かさがあるようなところで、ロップスやデルヴィルといった人たちに変態度で負けてしまって、埋もれ気味でした。Belgfantaknop

2017年11月28日 (火)

佐藤友亮「身体知性─医師が見つけた身体と感情の深いつながり」

佐藤友亮「身体知性─医師が見つけた身体と感情の深いつながり」を読んだ。

医学部での医者になるための第一歩、解剖学の実習ではスケッチが必修ということで、その最初の頃の学生たちは「見たまま」を写生するのだが、絵の巧拙は別にして、不定形なぐしゃぐしゃの絵画を描いていたのだが、実習が進むと器官の機能や相互のつながりを把握していくと、人体の構造が反映されるような図を描くようになるという。学生たちは、「見たまま」を見たのではなく、「そういうものが見えるはずだと信じているもの」を見ていた。解剖学的な知識が身についてくると人間の身体を解剖学的に、つまり医学的に把握する。それが医師の認識の第一歩。そして、数年間、知識をたっぷり蓄積して、現場の医師として患者の前に立つとき、知識の隙間、つまり患者の症状は医学の知識の分類に当てはまらないので原因を特定できない、さらに予測が出来ない、という場面に遭遇することになる。その時に、医学部では習わなかった現場の医師の経験、つまり医師の身体感覚を身につけなければならなくなる。

近代の自然科学の中心である医学の体現者である医師の現場では、近代思想の基本である心身二元論が成り立たないところであったということ。この現場では知性は身体感覚と切り離すことはできないものとして成立している。それを著者は身体知性と呼ぶが、身体と切り離せない以上、感情とも切り離せない。そこでは、感情に左右されない分離独立した知来ということが医師の現実では機能しないことになる。

著者は、このようなところから知性のあり方を考え直し、模索しようとする。

このあと、著者は東洋的な思考の再評価をしようとしているが、医学部の知識を作っていることばやロジックで、それをしようとしているようで、接ぎ木のような発想なのか、それはちぐはぐな二兎を追う者は一兎も得ず、ということになりかねない気がした。

ベルギー奇想の系譜(2)~Ⅰ.15~17世紀のフランドル美術

 Belgfantaboss ヒエロニムス・ボス本人の作品はなくて、工房の人が倣って描いたものなのでしょうが、そのお手本としてボスを考えてみると、同時代のイタリアのルネサンスを経た画家たちの神や聖人を賛美するような壮麗な作品を描く能力では勝てなかったのではないかと思います。おそらく当時の先進国であるイタリアの画家の作品をフランドルの王や貴族たちも競って購入したのだろうときに、ボスがそれに対抗しても勝てないということを、本人も分かっていたのではないか。そもそも、描くということとか、その基本的なスタンスとか、どのように描くかという基礎が、イタリアの画家たちとは違ったベースを持っていたと思います。それは、同じフランドルでも後世のルーベンスの描く豊麗な人体と比べると、ボスの描く人体は細かいけれど身体のプロポーションが異質としか言いようがなく、人体の見え方が根本的に違っていたのではなBelgfantakamogawa いかと思わせるところがあります。ルネサンスのリアリズムで自然科学的な視点で描く人間の理想的な姿という基準では、ボスの人体は美しいと言えるものではありません。そこで、同じ土俵で描いていては注文をイタリアの画家たちに奪われてしまう。そう考えたか、そこで差別化が必要になり、聖書の物語の裏読みという、イタリアの画家たちがやりそうもないことをやった。多分、フランドル地方のローカルな絵画の伝統を取り入れたのだろうけれど。それで、悪魔が聖アントニウスの修業を妨害するために試みた誘惑にスポットを当ててみたり、聖人が妄想してしまったよからぬこととか、神や聖人のありがたさを正面から描くのではないことを始めたという、そんな想像をして眺めていました。それは、滑稽でユーモラスなので、見ていると、バカだなあと笑ってしまう、そこに、すこしだけありがたい説教なんかが付け足されると、多少ひねくれた人でも、ありがたく聞いてしまう、そういう効果がありそうな作品です。たくさんのことが細かく、画面に隙間のないほど詰め込まれていますが、その詰め込みが作品の迫力とか滑稽さを強調するものにしていると思います。ただし、その個々の描写はルーベンスの人物等と比べると細かいけれど貧弱であることは否めません。
Belgfantajustice  ブリューゲルになると、詰め込みはよりエスカレートしていきます。全体として、画面の中に描かれる人々の数が飛躍的に増大し、それだけで小さな画面から溢れそうです。しかし、ブリューゲルも細かく描いていますが、一人一人の人間に実在感はなくて、その他大勢なのです。まあ、その他大勢が集まった迫力で圧倒的な画面をつくってしまうところが、この画家たちの魅力なのではないかと思います。
 彼等の詰め込んだ画面のごちゃごちゃした感じは、1970年代後半に活躍したギャグマンガ「マカロニほうれん荘」で鴨川つばめがよく描いたキャラクターが入り混じったカオス状態のような見開きのコマによく似ていると思うのです。この画像を見ると、この中のひとつひとつの部分は普通の場面なのですが、それが多数、一つの画面にごった煮のように詰め込まれると俄然、普通さがなくなって、異常に見えてくるのです。これは、日本の中世の洛中洛外図屏風などもそうですが、細かく描かれている個々の人物の描写は下手なのですが、それがたくさん集まって京都の町全体としてひしめき合うと、全体として存在感とか迫力が生まれている。ボスやブリューゲルにある奇想とは、そういう性格のものではないかと思います。ここで展示されている作品の細部を個々に眺めていると、貧弱さを、どうしても感じてしまうのです。
Belgfantarube  そんな中で、ルーベンスの版画作品は、ボスやブリューゲルのその他大勢のパワーであるとすると、その他ではなくヒーローがそれとして画面に存在している作品になっています。これらの版画は、油絵の具で彩色して大画面の作品で見たくなる作品でした。ひとりの個人としての人物を立派に描くという点では、ルーベンスはフランドルの画家たちとは異質な感じがします。たぶん、ボスやブリューゲルの詰め込みの画面の個々の人物をヒーローのように立派に描くことができることをして、その画面で神や聖人を正面から壮麗に描いたところにルーベンスという画家の凄いところがあるということが、今回の展覧会を見ていて、そんな気がしました。

2017年11月27日 (月)

ベルギー奇想の系譜(1)

2017年7月 Bunkamuraザ・ミュージアム
 Belgfantapos この時期は、法務関係者向けのセミナーが急に増え出す。それは定時株主総会が終わって、繁忙期が終わったころであり、また通常国会が終わって法改正が出揃ったことでその関係の情報が出てくるのを各企業の担当者が集め始めるからだ。この日もその関係で、あるセミナーに出かけた。テーマは民法改正に関するもので、終わったのが4時半過ぎ、その場所から手近なところであれば、ちょっとだけ寄れると、見つけたのがこの展覧会。Bunkamuraザ・ミュージアムは立地が好きでなく、渋谷駅の喧騒、とくにスクランブル交差点は観光名所のようで外国人観光客がたむろしているような奇妙な場所になっていて、道玄坂あたりまでは、通るだけで疲れてしまって、絵を見に行くような落ち着いた気分にはなれない。
 会場は17時過ぎに入場して、閉館まで1時間もなくて、ゆっくりと鑑賞する時間はなかったけれど、もともと広い美術館ではなく、それほど混雑していたわけではなかったので、時間が足りないまでは行かなかった。それよりも、館内の冷房が強くて、上着をもっていたからよかったものの、それでも肌寒く感じるほど、受付ではショールを希望者に配っていたが、寒いほどだった。
 この展覧会は、一人の画家の回顧展のようなものでなくて、ある意図のもとに作品を集めた企画による展覧会なので、その趣旨がとのようなものかについて、展覧会パンフレットから引用します。
 現在のベルギーとその周辺地域では、中世末期からの写実主義の伝統の上に、空想でしかありえない事物を視覚化した絵画が発展しました。しかし18世紀、自然科学の発達と啓蒙思想がヨーロッパを席巻するなか、不可解なものは解明されてゆき、心の闇に光が当たられるようになります。かつての幻想美術の伝統が引き継がれるのは、産業革命後の19世紀、人間疎外、逃避願望を背景とした象徴主義においてでした。画家たちは夢や無意識の世界にも価値を見出し、今日もこの地域の芸術に強い個性と独自性を与えつづけています。本展では、この地域において幻想的な作品を作り出した一連の流れを、ボス派やブリューゲルなどの15・6世紀のフランドル絵画に始まり、象徴派のクノップフ、アンソール、シュルレアリスムのマグリット、デルヴォー、そして現代のヤン・ファーブルまで総勢30名の作家による、およそ500年にわたる「奇想」ともいえる系譜を。約120点の国内外の優れたコレクションです。
 奇想というのは、普通でない見方ということになるでしょうか、現実を正面から直視するのではなくて、視点をずらして少し斜に構えると同じ現実が違って見えてくる、それは皮肉だったり風刺だったり。ボスやブリューゲルは、そういった印象があります。そういう傾向は19世紀のロップスからマグリット、そしてファーブルなんかも入るかもしれません。しかし、そこに不可解な心に闇を見つめた作品であるのか、疑問に思われるところがありました。むしろ、そういう傾向のクノップフやスピリアールト、デルヴォーの作品が浮いてしまっている印象でした。また、このようなアイディアで企画して作品を集めるのが大変だったことはわかりますが、15~7世紀のボス派やブリューゲルは本人の絵画作品がほとんどなく、版画や工房の作品ばかりというのは寂しいし、19世紀のベルギー象徴派はクノップフの絵画作品はなくて、デルヴィルが数点とアンソール、あとは単発というのはもの足りないと感じました。私には、展覧会の全体として奇想の系譜を見たのではなくて、その企画の趣旨からは離れて、個別に数点の作品を見てきたという展覧会でした。

2017年11月26日 (日)

最近の大相撲の暴力騒ぎの空疎さ

相撲の力士が競う場である土俵は、字のとおり米を収穫した俵を敷き詰めたもの。田んぼに高く土をも盛り上げて俵で固めたもの。また、力士が登場する花道は、田んぼの畔をとおって力士が登場するところに花を飾ったのが始まりときく(芝居の花道も同じ語源で、芝居というのも畑の芝の草原に座って見たものだから芝居)。この土俵の真ん中の地中には神様が埋められている。それは、相撲というのが豊作の感謝と祈りを神に奉納するもの。その意味で相撲に何事かあれば、ファンよりも神様をまず第一に考えるのが本分のはずで、それによって飢饉になったり不作になってしまうことを、第一に心配すべきが相撲の本分であるはずと思う。

一方、力士というのは異形、荒ぶるもので、それだからこそ神に対して力を奉納できる。賤であることが聖になるもので、その荒ぶる存在である力士に品格などというものを求めるのは、何か変ではないかと思う。国技などということになってしまって、見かけ上の体裁をとりつくっていて筋が通っていないとも思う。(もともと、相撲が国技であることに制度的な根拠はないと言われていて、明治時代につくった常設の場所を国技館と名づけたのが根拠だと言われている)

だから、最近の暴行騒ぎ(現時点では疑いというだけで事実として何も確かめられていないので、それに無責任なコメントを公表すること自体はフェイクニュースと、どこが違うのか)については、相撲ということが何であるかというのが曖昧なゆえに、空騒ぎしているように見える。

芸能人や政治家のスキャンダル暴露競争にみんなが加担して、道徳家めいたもっともらしいコメントを加えて形式的な品行方正を求めて、留飲を下げるバッシングと同じような気がする。

ちなみに、大相撲はスポーツではないのは明白だと思う。スポーツで必要なフェアプレーに反する制度がいくつもあるからだ。

2017年11月25日 (土)

「新しい」ということが成り立つには・・・

「新しい」という価値、例えば新発見というのは、それまでになかったもの、あるいは知りえなかったことを、「新たに」情報として、従来の情報に追加するということだ。そのためには、従来の情報と未知の情報が峻別されていて、それが人々に厳密に共有されているということだ。そのためには、全体ではなくて、限定された部分(限定の仕方といった視点も含めて)の情報を誰もが全く同じに、つまり個人によって解釈が分かれないほどに、共通に持たれているということだ。それを分析という。あるいはまた、個人による解釈の相違を許さないということから、客観的ということになる。これに対して普遍とか永遠というような全体、すべてを包摂した認識ということになるので、論理的に未知とか情報が追加されるということはあり得ない。この場合、情報が追加されることはない、もし、今までにない知識ということがありうるとすれば、曖昧だったことが明確になったとか、つまり、新発見という場合には、新発見の情報はデータの挿入モードと言える。これに対して普遍という場合にはデータの上書きモードで、それぞれデータが更新される。単純化した二分法だけれど。

新発見で部分が追加されてきたのが、既知の情報ということであれば、積み上がったものは疑い得ない確かなものかもしれないが、それ以外のところは分からない。しかし、人は、その分からないところでも存在している。具体的には、医学の分野で病気や身体の不調について、分からないことが沢山ある。実際に原因不明の腰痛などは日常茶飯事だ。しかし、分からないとはいっても、結果的に解決してしまったりしている。

2017年11月23日 (木)

「新しい」ということを考えてみた

「新しい」ということに価値があるということは新しいことだ。近代以降の科学での新発見、資本主義経済での新製品、大衆消費社会での新しい流行といったものが典型的かもしれない。しかし、中世のキリスト教の神という絶対的価値は永遠のもの。つまり、時間を超越しているわけだから新しいも古いもない。真実は過去も現在も将来も正しい。それに対して、新しいというのは、ある時点から新しい。その前の時点では、それがなかったから新しいということになる。さらに、新しいは、より新しいが現れた場合には新しさは消失してしまう。永遠ではなく、ある時点の相対的な期間に限定される。

価値というものさしでみると、「新しい」の反対は「古い」ではない。古いは新しいに対しても古いが、新しいが出現していない時点ですでに古い。だから、新しいは古いの中に含まれてしまう。同等ではないのだ。むしろ、古いは永遠に近い。

しかし、科学は新発見があったからこそ発展する芽を持てた。永遠というのは、ずっと変わらないということで、変わらないということは、進歩がないということも含む。

2017年11月21日 (火)

アウグスティヌス――「心」の哲学者

「アウグスティヌス――「心」の哲学者」を読んだ。

アウグスティヌスは、ヨーロッパの思想史では古代と中世の狭間にいて、その橋渡し、あるいは画す存在という評判ではないか。彼の伝記を心の哲学者という視点で記述していく。この人の「告白」のエピソード、例えば梨を盗んだことを殊更に告白したり、マスターベーションに耽ったことを露悪的に暴露したりして、ある意味で道徳オタクみたいな病気の入ったところがある。それを心の哲学というのは、ありだとは思うが、アウグスティヌスが狂信的なほど倫理にのめり込んでいったのには、その思想か人となりに何らかの理由があったのではないか、そういうのを期待していたのだが、それはデフォルトとして、つまり、真摯な善の追究者としてスタートしていた。かつて下村寅太郎がアッシジの聖フランチェスコを「小さき花」の純真な子供のような人というイメージと裏腹になっている峻厳な修行者である側面を焙り出して見せたようなものを期待していたのだが、まあ、そのようなことを求める私自身の性格の捻じ曲がったところあるからかもしれない。

2017年11月20日 (月)

「エドワード・ヤン 再考/再見」

「エドワード・ヤン 再考/再見」を読んだ。

池袋のビルの地下の30~40人くらいしか入らない小さな映画館で「牯嶺街少年殺人事件」を見たのは何十年前だったろうか、3時間の大作を窮屈な姿勢で一気に見たときは体力的にも疲れた、それよりも目の前で何が起こったのかよく分からなかった。ほとんどが夜の暗い画面で光と人のアクションで、ハイテンションが最初から最後まで途切れることがなかったことだけを覚えている。私には、この人の作品は1度見ただけでは分からず(何しろ説明描写が皆無という不親切極まりないのだ)、そもそも、出てくる人物がみんな存在感があって、誰が主役か分からないほど。しかし、誰をとっても力的でもっと見たくなってしまう。それで、2度目で「ああ!」とため息をもらし、それ以後病み付きになってしまう。例えば「恋愛時代」ではエレベータの扉が開閉するだけなのに涙を抑えきれない感動を引き出してしまうのだから。

この人は共に台湾ニューウェーブを担った侯孝賢が様式美といえるほど明確なスタイルを確立していったのに対して、制作した作品ごとにスタイルが異なる。それを当人は、高級フレンチレストランの完璧な技術をもって行き届いた模範的な接待をするギャルソンと、田舎の年老いたおばあちゃんの落ち度はあるかもしれないで接待などとは言えないが朴訥で肌触りの感じられる振る舞いとの違いと比喩的に言う。当人は形式化以前の素朴な真心、つまり初心のところでとどまっていると言う。それは、映画の画面で完結させることをあえて追求しないという姿勢で、そのために、いかに緻密にショットを考えているかといったことは、何となくそんな感じはしていた。

もし、エドワード・ヤンという映画作家に興味を覚えたら、試しに『ヤンヤン夏の想い出』でも見てほしい。この中のイッセー尾形に驚くとともに、魅せられてしまうから。

2017年11月17日 (金)

生誕140年 吉田博展 山と水の風景(7)

第6章 戦中と戦後:1938~1950

Yoshidafighter このコーナーは、画家の回顧展で生涯を示すので、作品も残っているので、展示しているということでしょうか。明らかに、山岳でも建築物でもないという題材のためなのか、年齢的な限界によって制作意欲が衰えたからなのか、あきらかに、画家本人の愛がない作品として、今までの作品をみてきた身としては、残念な作品が並んでいました。

例えば「空中戦闘」という作品。吉田には珍しい油彩の大作です。しかし、動くものを描くのは得意でないとはいえ、正面の飛行機の主翼が左右でチグハグなのは、形をうつすことに没頭してきた画家としては信じられないようなプロポーションの歪みです。他の飛行機の描き方についても、飛行機になっていません。形の意味が不可解で不器用に形をなぞっていて、彼にしては無様として言えません。

「精錬」という作品では、手前の人物が生きていないのは、いつものことですが、奥の炉から溶けた鉄が流れてくる炉や製鉄所の設備の描き方が、構築物の形として歪みがあります。そこに、出来栄えに妥協したのか、建築物のようなパターンを外れたものをもはや描く腕が落ちてしまったのか分かりません。

吉田の真骨頂としては第3章と第4章の風景の形をかっちりと描いた作品にあるのではないかと思います。

 

2017年11月16日 (木)

生誕140年 吉田博展 山と水の風景(6)

第5章 新たな画題を求めて:1930~1937

Yoshidataji ここで展示されている作品を見ると、第4章のコーナーの延長で、基本的には描いていることには変化はなく、描く対照の目先を替えているという程度ではないかと思います。吉田博という人は、私には、技量は向上して行ったかもしれませんが、彼の絵画観とか、絵画に対する姿勢といったことは若い初心のころから変わることがなかった、変えることができなかった人ではないかと思います。ある意味、才能が限られた、不器用な画家という印象を強く受けました。

Chiricobec それは、新たな題材としてインドに向かったということですが、そこで吉田が描いたのは、タージ・マハルのような著名な建築物とヒマラヤの山岳風景に限られます。それは、日本やヨーロッパの観光パンフレットのような風景画と視点は同じです。「タージ・マハル」を描いた作品は、構図は絵葉書です。しかし、ここでタージ・マハルの手前に佇む人影は人間というよりは人の彫像のようで、意外なことにベックリンの「死の島」と構図が似ている感じがします。吉田はベックリンなど見たこともないかもしれませんが、動きとか生命感を全く感じさせない画面は、そうな受け取られ方のできる可能性はあると思います。

Yoshidaudy 「ウダイプールの城」という作品でも、手前の二人の人物は添え物で、主役は前景の柱と遠望する城の建築風景です。「タージ・マハル」の場合のように連想する作品は思い至りませんが、これらの風景画は絵葉書とか観光パンフレットなどと辱めるような形容をしていますが、そこでは見る人にとってはエキゾチックな風景を分かり易く親しめるものになっています。その一方で、人物が彫像のようだったりと、近代西欧の風景画のような見る者が感情移入するような要素や、物語的な要素は全くありません。そこに、画家の感情とか理念のようなものが入り込む余地がない、と言えます。あくまでも風景の、表層の外形を画面にうつすことのみを行っています。これは余計な詮索かもしれませんが、当時の日本という国家の方向性がアジアへの進出を志向するような動きを始めているという環境にあると思います。吉田がインドや東南アジア、中国や朝鮮を題材としたのは、絵画の購買者である消費者の関心が欧米からアジアへと広がったか、換わった背景として、そういう全体の動きとは無縁ではないと思います。人々の関心の視野にアジアが入ってきた背景ということですが、吉田はそれに応えるということがあったと思います。そのような時代状況において、しかし、吉田の制作態度は、対象としては時代のニーズを掴んではいたとしても、吉田の関心は形に限られていたのではないかと思います。そこに感情移入ができないということは、吉田は先入観をあまり持たずに、ただ形を見るだけだった。時代状況のなかで、その状況に対してイノセントに形を描くことだけに没頭していた、という印象を持ちました。それは、「大同門」という朝鮮の風景や「北陵」という満州の風景を、それまでと同じように、余計なことを考えずに形を捉えることに没頭しているような作品を残していることからも窺えると思います。

Yoshidadaido あるいは、このような作品の制作を対象の目先を替えて制作していて、(周囲がどう見ているかは別にして)マンネリに陥ることなく、制作を続けているということは、ある意味では鈍感であるし、この後に、戦時には戦争画を描いたり、その戦争が終わった後は外国人に受けしてしまうという節操のない軽薄なところは、形を写す以外には、イノセントであるということが吉田という人物の特徴であったのかもしれないと思います。

そしてまた、彼の節操のなさは、「弘前城」や「陽明門」といった、精緻ではあるけれど、浮世絵版画と間違えられてもおかしくない作品を堂々と制作してしまう臆面のなさにも現れていると思います。Yoshidanorth

シンゴジラを見た

シンゴジラをテレビで見た。怪獣映画としてのカタルシスのない怪獣映画というのが第一印象。印象的だったのが、映画の後半、最終形態になったゴジラが神奈川沖の海から上陸して、都心に向かって歩行するシーン。団地のような規則的に建物がずっと並んでひろがっているゴジラをはるか上空から見ていて、ゴジラが豆粒のように小さい。そこには、怖ろしい破壊者とか、畏怖すべき荒ぶるものといったものではないゴジラの姿が映っていた。怪獣らしくなかった。

Img_2_m 全編の中で、ゴジラが暴れるシーンは少ないし、このゴジラは自発的に破壊をしない。というより、自発的な行動をしない。だから、そこにいる理由がない。それで、似ているとおもったのが、ウルトラマンに出てきたガバドンという怪獣。子供の落書きが実体となってしまったという怪獣で、ただ現われただけという存在。ガバドンはじっとしているが、ゴジラは動くし、攻撃を受ければ防御はする。しかし、それ以上はしない。その代わりに映画の多くのシーンは主要な登場人物が早口で議論しているところで、怪獣映画というより、議論の映画と言った方が似つかわしいくらい。そこで話されているのは、もっぱらゴジラとは何か、いかに記述すべきかという議論。ゴジラ自身にそこにいる理由がないのを、登場人物たちが侃々諤々の議論をしている。そういうストーリーのように見えた。

例えばこういうこと、映画作品そのものからは離れてしまうかもしれないが、最初に現われたゴジラは、いったん海に消えてしまう。その後、二度目に神奈川沖から出現したゴジラは、最初の現われたゴジラとは大きさもかたちも変化していた。それは別物のようで、最初に現われたゴジラと二度目に現われたゴジラを同じゴジラなのだろうか。映画では、お約束だから話は進む。しかし、まるっきり違うのが、日を置かず現われたのであれば、別の個体あるいは別の生物の可能性はある。だからゴジラという言葉が指すのは何か、この時点でははっきりしていない。言葉が真であるのは、言葉と、その指すものが一致していることだ。しかし、その指すものが同定できない。この場合ゴジラは、その現われたのであるかもしれないという可能性でしかない。この場合、ゴジラは存在しているとは言えない。それは、ゴジラが存在していないと同じことだ。

それで、物語は牧という学者のデータを解析する。それは、ゴジラという概念の確定に他ならない。一方でゴジラの細胞の破片の分析によって、データとの一致を検証したことによって、ゴジラという概念と実在が一致したというわけだ。つまり、ゴジラは存在する。

それは、こじつけの屁理屈かもしれないが、言語論的展開による存在論がそのまま実践されている。

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2017年11月15日 (水)

生誕140年 吉田博展 山と水の風景(5)

第4章 木版画という新世界:1921~1929

Yoshidahodaka3 おそらく、このコーナーが核心部ということになると思います。吉田が木版画を始めたのは世話になった渡邊庄三郎から求められてことが理由と説明されています。しかし、吉田の絵画を見ていると、事物の輪郭の外形をとらえるのが巧みであるのに、それがキャンバスに描かれると、空間とか奥行きとか立体感のないペッタンコになってしまうように見えるのです。そのひとつの画面上のあらわれが、彩色が、塗り絵のように見えてしまって、事物の面の質感とか、光が当たってできる陰影で立体感をだすとか、空気が遠くは霞んで遠い感じがするといったようなことが色彩で十分に表現されていない。というよりは、彼には、その方向の視野が欠けているのではないかと思われるほど足りないように見えてしまうところです。それを木版画という、絵画に比べて表現上の制限があるところでは、そのような吉田のもの足りないところが、木版画の制約とかなり重複しているところがあって、彼の輪郭を描く特徴を、絵画よりも活かせる可能性があると思えるのです。ですから、吉田自身も、何らかの必然性を感じたのではないかと思います。

Yoshidahodaka4 「穂高山」という大正10年の作品です。渡邊庄三郎の求めに応じて下絵を描いたのを、渡邊のところで木版画にしたものでしょう。風景の木版画といえば、北斎や広重の浮世絵版画の伝統があるでしょうが、木版画という制約の上で出来てきた様式のようなものがあると思いますが、前景の木や水面の処理、水面に映った森などは、その様式に乗っていて、平面的なのでしょうが、むしろ、それを利点として樹木の形を精確に描写していて、その形だけでリアリティを感じさせられてしまいます。そして遠景の山岳の、岩稜の形の面白さはリアルであるだけに、なおさら興味深いものです。前のコーナーで穂高岳を油絵で描いた作品がありましたが、あの作品の山岳の形の面白さだけを抜き出したもので、油絵で感じられた存在感の不足といったことが気にならないので、ずっと興味深いものになっていると思いました。

Yoshidaturugi 吉田本人も、何か手応えを感じたのではないでしょうか。5年後に、同じ題材で制作し直しています。木版画の経験を積んで、吉田は独自の木版画の制作方法を考案したと説明されていますが、ずっと洗練された画面になっています。例えば、山岳の表現が大胆な省略が為されていて特徴的な形が強調されるようになっています。色の使い方も、グラデーションっぽい使い方から対照によって各々の色が際立つようにして、全体のメリハリがはっきりしています。これは、山岳や樹木といったものの輪郭の形リアルなのでしょうが、それを際立たせるように演出するような画面構成をしています。それによって、山岳の地形的な形の意味、具体的には、穂高連峰の中でも、山岳を知らない人には、前穂高岳と奥穂高岳の違いが分からない。その違いを吉田は理解して描いていても、もともとの違いが分からないので、描かれた違いの意味を理解できない。それを理解できるように画面上で演出をするようになっていると思えるのです。山岳は単なる岩の塊ではなくて、その形に意味を人は感じることができるのです。ただし、それはすべての人とは限らない。登山をする人やその関係の人以外には、なかなか分かり難い。穂高岳や剣岳を単なる岩の塊と見分けて、そこに個性を見出し、険しいとか崇高だとか評Yoshidaturugi2 するには、その理解がどうしても必要です。しかし、登山をしない普通の人には、その理解ができない。吉田も山岳風景を描いても、そういうことの理解がベースになければ、なかなか本質的なところを味わいきれない。それを大正15年の版画は、ベースのところを普通の人にも理解し易いように考えて画面を演出しています。これは、木版画ではじめてできたことではないかと思います。そこには吉田が手法を開発したことも寄与しているわけですが。

この大正15年の作品は「日本アルプス十二題」というシリーズのひとつですが、この他にも「剱山の朝」という作品は、おそらく、黒部川の対岸である後立山連峰(唐松岳あたりではないか)からの剱岳の風景だろうと思います。参考の写真と見比べてもらうと分かりますが、手前の尾根は剱岳よりも標高が低いので樹林帯となって、その樹木のせいで稜線のシルエットが滑らかでなく、細かいデコボコがあり、樹木の緑は一様ではないのですが、画面では、その細部を大胆に省略して、朝日を浴びて赤く染まる剱岳の独特な岩稜が際立つようになっています。

Yoshidahodaka 「鷲羽岳の野営」では、遠景のシルエットでかすんで見える左端の槍ヶ岳の尖峰から右へ南岳をへて大キレットへと落ち込む稜線の形がよくわかります。

「白馬山頂より」は、夏山の残雪が残っているのと、明るい日差しの下で、杓子岳から白馬鑓岳の稜線を描いたものです。杓子岳の破風屋根のような特徴ある形や右奥の白馬鑓岳の丸みを帯びたどっしりとした山容との対照的なところが強調されているように見えます。ただし、形は正確に描かれています。これらを見ると、山岳の形を純粋に抽出した、吉田独特の世界ができていると思います。

Yoshidahakuba2 このような姿勢は、実験的な試みに繋がっていって、それがヨーロッパのアルプスやアメリカの山岳風景を題材にした作品で大胆な試みに結実していると思います。「エル キャピタン」というアメリカのヨセミテ国立公園の風景です。100メートルの断崖で、現代ではクライマーのメッカになっているそうですが、浮世絵のような日本的な風景に見えてしまいます。広重の「箱根」のような構図で、写真に近いような写実的で正確な描写によって、西洋絵画を見慣れた者にも、違和感なく見ることができるようになっていました。

Yoshidaelle 「マタホルン山」という作品は「マタホルン山 夜」という同じ構図で、色遣いを替えて夜の風景にするというバリエイションを作っています。版画という制約もあるのでしょうか、使う色が制限されてためか大胆なものになってきていると思います。

吉田の木版画の特徴を、展覧会では次のように説明されていました。

博の木版画の他にない特質、あるいは人気の秘密として、概略、次の三つを挙げることができるだろう。

その一つは、いわゆる「大版」とよばれる大作である。これは渡邊版版画店の「新版画」にも江戸時代の浮世絵にもない、いわば博の技術へのあくなき執念と挑戦によって初めて実現したもので、多くの版画ファンを唸らせるものである。通常、木版画の摺りは紙が大きくなればなるほど、水分を含んだ紙の伸縮が大きくなり、「見当」がずれやすくなって摺りの困難さは倍増する。こうした状況の中で、博の大版、例えば“富士拾景”のなかの《朝日》とか《雲海 鳳凰山》などは摺りのズレなどは微塵もなく、まことに見事な完成度を見せる迫力満点の大作で、そのすばらしさに感嘆するばかりである。

二つ目は、平均30回以上といわれ、多いものでは《陽明門》のように96回を重ねるという他に類を見ない摺数の多さである。「とても木版画とは思えない」ような精緻な写実性は、薄い絵の具を何度も摺り重ねて深みを出したり、小さな版を巧みに重ね合わせて摺るという独特の技法から生み出さている。

Yoshidahansen 最後は、同じ版木による“色替え摺り技法”とでも呼ぶ独自の技法である。その代表例は“瀬戸内海集”の《帆船》シリーズであろう。同じ版木を使って、朝、午前、午後、霧、夕、夜の六景の各々の光の表情を細かく摺り分けたもので、あたかもフランス印象派のモネがルーアン大聖堂にあたる太陽の光の刻々と変化する様を描き分けたように、瀬戸内海に浮かぶ小さな帆船にあたる光の変化を的確に捉えた博の新しい工夫であり、自信作であった。

ともあれ、日本の古い伝統を持つ木版画の世界に洋画の新しい視点を導入し、新しいシステムのもと、数々の新しい工夫と技術の高さを示した博の木版画は他に類例を見ない独自の創造として高く評価された。

この説明は木版画の世界での吉田の特徴ということでしょうが、吉田の作品の中で、木版画の特徴という点で見てみると、大きな点は塗りの意味の変化、というよりは転換ではないかと思います。いままで何度も触れてきましたが、吉田の絵画作品は塗り絵のようなペタッとしたところがあって、線描による精確なスケッチがすごいほどなのに、塗りで作品をYoshidamatta3 つまらなくしているように見えて仕方がないのでした。なまじスケッチが突出しているので、それに比べて塗りが眼を覆いたくなるほどのもの、という感じがしました。それが、木版画になって、塗りを自身で行うことがなくなり、職人の摺りに委ねられたことで、全体の印象がどれほどまとまったものになったか。それは、前にも述べましたが、それだけでなく、塗りの画面上の働きが変化していることも感じられました。端的にいうと、色彩が独立して、装飾的に動いているようになったということです。具体的に言うと、吉田の絵画において色塗りとは、風景とか事物には色があるので、それを描いたものだから色もつけるといった程度のもので、描く対象の輪郭の形を描くことには集中するものの、それだけでは絵画として完成しないので、色を付けていた、という絵画が完成する必要条件のようなもの、言ってみれば嫌々、仕方なくやっていたと見えます。ところが、版画では、吉田は同じ版木で色を替えるなどのあそびを試みています。そこには、嫌々が感じられません。そこでは、風景画を完成させるために必要だから色をぬっているのではなくて、必要性からはなれて、風景を映すことから少し離れても、制作した画面の風景らしさを作る際に色が積極的な機能を果たすという意味に変わってきていると思います。

Yoshidamatta 例えばも海外の観光地を題材にした作品では、アングルや構図は陳腐など誰にでも分かるものですが、色彩の遊びによって、他の人にはできない独特の世界を作り出しているのです。吉田が元々持っている突出したスケッチ力と陳腐な構図によって、何が描かれているかは一目瞭然です。そこに、大胆な塗り分けと、あそびごころのある色遣いによって対象の形が際立ってきます。見る者は何が描かれているのかがすぐに分かるので、ある意味で安心できるので、余裕を持って画面を眺めて、色彩のあそびを余裕を持って楽しむことができる、という見方ができるようになっています。例えば、「マタホルン山」という作品では、麓のツェルマットの町の風景をいれた風景を前景に奥にマッターホルンの特徴的な山容を構図は、観光パンフレットのようです。しかし、マッターホルンの描き方は写真のように精確に見えます。それを全く同じ版木で、色遣いを替えることによって「マタホルン山 夜」という夜景にしてしまうと、趣向が変わってしまいます。また「スフィンクス」という作品では、これも観光パンフレットのような構図ですが、スフィンクスの頭部は写真と見比べてもらうと正確に描写されていますが、色塗りは図案化されたような塗り分けられていて、石像の肌の触感とか、立体の陰影によるグラデーションを、色彩の模様のように塗り分けています。そのせいもあって、初期のカンディンスキーが風景を色彩の塗り分けに一元化してしまったような抽象的な印象すら感じられます。また一方で、スフィンクスの頭部の図案化されたような印象は、アンディ・ウォーホルがスープ缶を連作で並べたものを連想させるところもあります。それは、同じ版木をつかって、色遣いを替えて「スフィンクス 夜」という、全く趣向が変わってしまう作品を制作しているところからも感じられます。このとき、吉田にとって風景は実在している存在というよりは、その形を抽出したイメージのようなものとしてあったのではないか、と私には思えます。だからこそ、色彩を操作して画面の中に世界を創造することが発想できたように思えます。

Yoshidariver それだけに、吉田の画面には形が第一要素で、形があってこそで、その形が不明確ではっきりと決まっていないといけない。たとえば、不定形なものや流動するもの、動くものを対象としたときに生彩を欠くように見えます。例えば、「渓流」という作品を見ると、“川の流れは絶えずして、しかも同じ水にあらず”ではないですが、流動するものを静止した明確な形にしようと悪戦苦闘しているように見えます。つまり、その外形を正確になぞろうとするあまり、川が流れているという動きが感じられないのです。流れている一瞬を切り取って瞬間の映像とするということができそうですが、その外形を追求するあまり、渓流の形を模したオブジェを描写しているようにしか見えないのです。小さな滝が流れ落ちて泡立つ様は白く塗られた浮世絵の図案のような波型の模様です。このような水の流れだけでなく、人間を対象として描いた作品は、山岳や建築物の風景に比べると、途端に生彩を欠いて、類例的なパターンになってしまいます。それは、ある意味では、パターンから渓流や人物を描いたものとして分かり易いので、見る者は安心して見ることができます。

これまで、あまり触れて来ませんでしたが吉田の風景画は、見る者は安心して眺めることができるという要素があります。それが、展覧会の混雑具合に如実にあらわれていると思います。

2017年11月14日 (火)

生誕140年 吉田博展 山と水の風景(4)

第3章 画壇の頂へ:1907~1920

Yoshidayokata 吉田は外遊から帰朝して、国内の展覧会で相次いで賞を得たり、画壇での抗争を繰り広げて、成り上がっていった時期ということです。しかし、作品を見ていると、成り上がるために万人ウケを狙ったためか、もともと一点突破型の欠点は多々あっても突出した一点で魅せていた画家が、平均点の高い、つまりは展覧会の点取り競争でいい点をとるような作品を描くようになっていた、私には、そのように見えます。したがって、このコーナーで展示されている作品は山岳を題材にした作品以外は、別に吉田が描かなくても、別の画家が描いてもたいして変わらない作品という印象です。

「月見草と浴衣の女」という作品です。人物に焦点を当てた作品は、この作品以外には「裸婦」くらいしか展示されていませんが、画家自身には得意ではないという意識はあったのではないかと思います。依頼があって、しかたなく描いたのか分かりませんが、人間の感じがしませんし、生きていません。動きが全くない。この人の作品に共通していることなのですが、塗りがおざなりにした見えなくて、要は、下手な塗り絵なのです(画像では、そうは見えないのが不思議です。でも、画像でマトモに見えても、他の画家っぽく見えませんか、例えば黒田清輝とか)。何かポロクソですが、何も、この画家があえて描いて作品に残す意味がどこにあったのか、と疑うのです。

Yoshidaechigo 「越後の春」という水彩画です。画面手前の垂直に屹立する杉の木がアクセントになって、遠景の越後の山並み(越後三山なのかしら)の形が、中景の緑の低山の緩やかな稜線と重層的にのぞんでいる姿を見ていると、この画家は地形の意味を本能的にわかっていて、それを忠実に絵画の上で形にすることに秀でていたという気がします。私の個人的な偏見かもしれませんが、浴衣姿の女性よりも、この遠景の山の方に存在感やリアルさを強く感じられるのです。

Yoshidahodaka そして、北アルプスなどの山岳を題材として描いた風景画を、ここから見ることができます。「穂高山」という油絵作品です。おそらく常念岳あたりから梓川をごしに見えた穂高岳の姿ではないかと思います。参考に常念岳の山頂から写真を載せますが、吉田がいかに正確に穂高岳の地形を描いているか分かると思います。正面の奥から手前に吊り尾根の稜線が一直線に伸びてくるのを「不同舎風道路山水」と言われた一点透視の遠近法の道路に見立た遠近法で、その吊り尾根の突き当りから右方が奥になって前穂高岳の頂がピラミッド型になっていて、そのさらに右に雲に隠れた奥穂高岳で、それらの山に囲まれるように手前が凹んでいるのが涸沢カールと、少しでも登山をかじって、それらの地形を身体で分かっている人には、実感できる山岳の形が描かれています。写真と見比べると分かりますが、吉田は必ずしも、写真のように正確になぞって写しているわけではないのです。しかし、それが上で説明したように穂高という山であるとわかるのは、吉田が穂高という山の存在の意味を、山の形がこなっているという意味を理解して描いていると思われるからです。しかし、残念なことに油彩の彩色が形のスケッチに追いついていないのです。緑色は植生にみえないし、茶色は岸壁のゴツコヅした硬さを表現しきれていないのです。だから、折角の穂高の山稜が、急峻さとか、岩稜の厳しさとか、人が山岳を見上げるときの畏怖のような感情は湧いてこないのです。

Yoshidahodaka2 「槍ヶ岳と東鎌尾根」という油彩の連作です。おそらく東鎌尾根を登って槍ヶ岳に近づいたところで左が槍ヶ岳、右が北鎌尾根でしょう。少し霧か雲がかかって薄ぼんやりした空で、黒い影のような槍ヶ岳のシルエットのようにのしかかってくる迫力は、実際に喜作新道を辿って行かなければ分からないものです。これで彩色がイマイチなのが残念としか言いようがありません。

その後で、自宅のバラを連作で描いた油彩の連作は、私にはつまらないし、日本画の掛け軸を制作しているのも、こんなのを見ている時間があれば、山岳の風景画を見ているというものです。ただし、当時の社会では登山は一般的でなく、山岳風景の価値は一般的ではなかったでしょう。そうであれば、職業画家としては一般に受け容れいれられる題材の作品の方がむしろ必要と言うことになります。吉田がプロとして、そういうことを意識して、本心は山岳風景を描きたかったのに、プロの画家としては人物やバラのような一般受けする作品を無理して制作したなどというのは事実ではないでしょう。現在の登山が趣味として一般化した時代から吉田の作品を眺めると、その趣味を先取りしていたかのような山岳風景にどうしても注目してしまうのです。おそらく、彼の同時代の評価は全く別だろうことは分かります。

Yoshidayari 考えてみれば、そもそも、山岳を風景画の題材として、意味があるものとして取り上げたのは、吉田が開拓者なのではないでしょうか。それまでの風景画では、山というば富士山が代表的で、葛飾北斎の「富嶽三十六景」がすぐに思い浮かびますが、それは富士山をピラミッド型の理想化された山の姿として様々な風景の中に当てはめたものです。富士山そのものでなくて富士山のある風景です。また、別の伝統として文人画などで中国の山水画の伝統を受けたものがあるでしょうが、それは特定の山そのものを写したものではなくて、ある思想とか雰囲気を絵にした場合の、その雰囲気をつくりだす素材とて用いられたものです。谷文晁の「日本名山図譜」なんかがあると説明されていましたが、富士山とか筑波山とか、いわゆる和歌に歌われたり信仰されていた名山で、地形を正確に描くというものではなかったでしょう。もっとも、山岳という地形を美術の対象として考えられるようになったのは、西洋においても、そんなに古いものではなくて、前のところで少し触れましたが、近代になってロマン主義の風潮の中で、アルプスの急峻な高山が人知を超えた存在として、また遭難という自己にあってしまう危険な存在として、人にとって恐怖であったことが畏怖に変質、それをあがめるようになる、それが「崇高」ということで捉えられます。例えば、エドマンド・バークは『崇高と美の観念の起源』の中で、奔放に荒れ狂う自然を目の当たりにするとき、人の心にわき起こる強烈な不安や恐怖に思索をめぐらせた。「崇高」には古典的な美に劣らないほど、人の心に強く働きかけ、精神を高める力があるとバークは論じた。美術の分野では、これが視覚的な刺激の追求となって表われた。鑑賞者は雪崩や地震、激しい雷雨や時化の海など自然の根源的な力を描いた絵を見て、身を安全な場所に置いたまま、危険を体験することになった。このような崇高さを風景画に持ち込んだ画家にイギリスのターナーがいます。彼は、当時の絵画のヒエラルキーでは最高位の歴史画に対して、風景画のステイタスを高めようと風景画も、歴史画と同じように、人の感情と知性に強く働きかけることができるということを実地に示そうと試みます。崇高な風景として彼が取り入れたのが山でした。この場合は、イギリスでは産業革命とともにブルジョワ経済社会が進展し、市民がスイスのアルプス登山を趣味として始めるという社会変化が背景としてありました。そのアルプスの登山が明治維新後の日本にも外国人たちによって輸入されたのが、日本アルプスへの登山ということになります。上高地の山開きをウェストン祭ともいいますが、宣教師W・ウェストンは日本で初めて、そういう登山を行った人ということになります。だから、吉田の登山というのは流行の最先端どころか、あまり人のやらないこと、何やら外人がやっている訳の分からないことことだったのであり、それを絵画の題材とすることは、普通では理解の閾を超えていたことだったかもしれません。そこで、ここに展示されている作品のような、現在の登山趣味の者の鑑賞に耐えられるような形に仕上げるということだけでも驚くべきことだと言い切ることができます。ある意味、それまでにない新しい芸術を開拓したと言っていいのですから。このことは、いくら言っても言い足りないことだと思います。しかも、吉田の山岳風景画が現代的なのは、ターナーの風景画にあったような崇高といった理念が感じられないということです。展覧会の説明では“日本人特有の自然への畏敬の念や愛着、人と自然との親しい調和を願い続けながら、自然の中に溶け込み、自然と一体となり。「仙骨」を自負して自然の中に自らを没することで初めて人を感動させる風景画が描けるものだとする生涯を貫いた。”となっています。これは、おそらく吉田自身が後年になって自身の山岳画を語ったのを、批評家や学者が広めて、人々がそうだというなった常識のようなものだ思いますが、写実的に山岳を描いて、共感を誘うというのは、こんな風に説明するしかないのでしょう。そして、おそらく現在の山岳風景を写真にしたりするときの視点は吉田が試行錯誤によって創り出していったものではないかと思います。現在の視点では、絵葉書的に映ってしまうのも、それは後年にみんながまねしたからで、当時は誰も思いつかなかった視点であったのではないかと思います。ただし、吉田のほかの風景画を見ている限りでは、もともと、絵葉書になりやすい視点をもっていた人であることは否定はできません。それが、この後、木版画を制作するようになって、ある程度の通俗性に通じるところが有利に働いたと言えるのではないでしょうか。

2017年11月13日 (月)

国会の質問時間枠を取り合うのは筋違い?

国会の質問時間の配分がニュースになっている。国会は何をするところかと言えば、国の方向を様々な立場で議論して、よりよい結論を導くというものではないか、と思う。その際に、質問の時間を予め決めて、政党ごとに配分して、その枠を取り合うというのは筋違いではないかと思う。そもそも時間制限するような性質のことなのだろうか。むしろ結論が出るまで時間などに縛られことなく徹底的に議論するのが筋ではないかと思う。もっというと、あれだけ多数の議員がいて、質問者と回答者だけが発言するという会議なんて、国会以外にはないだろう。普通の会議では、質問者がいて、それに回答がされても、そこから議論が始まっていく、そこでは質問者や回答者以外の参加者が発言して議論が広がり、深まっていく。それが国会や、その委員会では会場に座っている議員は野次るか居眠りをしているだけで、採決の投票するだけではないか。それなら、むしろ、会議という金と労力をかけることは無駄で、質問者と回答者とタイマンでやらせればいい。本当にすべきことは、出席者の発言がまったくない議場で議論が形骸化してしまっているままでいいのか、そこで出席者全員が意見をたたかわすような会議ができるようにすることではないかと思う。

実際、企業の経営の場では、形骸化していた取締役会を活発な議論の場となるように、各企業は取締役会の活性化のために取締役の数を削減したり、権限を委譲したりして社外のメンバーを入れたりして、数年前とは様相を一変させてしまった。国会だって、あの人数で議論は出来ないのだから、議論ができる人数に減らす(とすれば現在の1割未満といったところだろうか)といった根本的な見直しを、どこかの政党が時間枠が何割かなどではなくて、提案しないものだろうか。

生誕140年 吉田博展 山と水の風景(3)

第2章 外遊の時代:1900~1906

Yoshidafog 1899年、吉田は友人と二人でアメリカにわたり、そこで立志伝のような波乱万丈のエピソードで当地の売れっ子画家となり、ヨーロッパを回って帰国します。そのエピソードには私興味がないので、作品を見ていきますが、外遊した影響が、ほとんど見られないことに、却って感心してしまいました。当時の欧米の流行の最先端の技法や絵画潮流を吸収して、日本に持ち帰るといった画壇の権威たちの傾向がまったくと言っていいほど、ありません。そんな権威付けをしなくても、日本の湿潤な空気と、例えば南欧のカラッと乾いた空気に明るい陽光の下で、風景が透明でくっきりと映るのを描くという絵画を学んで、それを日本に持ち込もうとして、空気や光の違いに愕然として、描き方に悩むというパターンも吉田には全く見られないのです。外遊前と後で、吉田の作品を見比べてみても変化が跡が見分けられません。もともと、吉田は外遊しても学ぼうと言う気がなかったのかと思ってしまうほどです。

Yoshidawinnter おさらく想像するに、吉田の絵画にたいする基本姿勢というのは、前のコーナーで即物的と述べましたが、その根底には大和絵とん浮世絵の風景画のスタンスがしっかり定着していたのではないかと思うのです。いうなれば、吉田の絵画はスピリットは浮世絵のような日本の絵画で、その上に洋画のスケッチとか水彩画の技法を使っているというように感じらるのです。例えば、線で事物の輪郭を明確に画するという一貫した姿勢は、現実に線は存在しないという西洋のリアリズムとは別のものと考えてもよいのではないでしょうか。そのリアリズムでは、事物をみるというのは、光が事物に当たって、それを人間の網膜が捉えて、その情報を脳が処理して視覚となって認識されるのを、絵画の画面に再現しようとするものです。だから、光がとこから当たって、事物にどう反射して影ができることをとても注意します。従って、リアリズムのスピリットを持っていれば、光の質もそして光が通る空気ということを尊重せざるを得ないのです。しかし、吉田の作品を見ていると、例えば物体の影のつけ方はおざなりであることがよくあります。それは、事物が形があるということが了解されているからです。光があろうがなかろうが、あっても光がどう当たろうが、そこに事物の形があるのは当たり前で、その当たり前を描くのが絵画なのです。そこに事物があることは変わりはないのです。そこに光が当たるとか空気がどうとかは人の見方の問題であって、それは絵画の技巧の違いと同じようなものだ。それが吉田の即物性といえると思います。かなり極端な言い方をしましたが、そういう姿勢があったからこそ、吉田は外遊しても本質的なところで影響されて、その結果迷ってしまうということがなかったのではないかと想像します。それは、彼の作品を見ていて感じたことです。

Yoshidaroad 「街道風景」という作品をみていて、前のコーナーの「冬木立」と描法に変化を感じられるでしょうか。少し右によっていますが、シンメトリーに近い一点透視の遠近法は相変わらずです。しかも、横広の画面を締めるために、真ん中左手に火の見櫓の梯子を挿入して縦の線を描いているのは「浅間山」で行っていることと同じです。しかも、この街道風景は、どこかで見たような絵葉書のようなよくある風景です。ここには、画家の独自な視点でオリジナリティを出そうという姿勢が全く見られないと言っても過言ではないと思います。そこには、浮世絵などの日本の絵画にある姿勢が、吉田にあることのひとつの証拠ではないかと思います。画家の個性とかオリジナリティは西洋の近代絵画では、作品の価値の源泉のようなものになっていますが、吉田の作品を見ていると、その点では凡庸とか陳腐であることを全く気にしていないところがあると思います。吉田にとって重要なのは形を意味あるものとして、きっちり描き切ることだったのではないかと思うのです。ここで何度も述べていますが、吉田という画家の偏っているということと関連していることだと思います。それが結果として、吉田の画家の個性になっていて、こんな作品を描いてしまうのは吉田以外にはないだろうという強烈さになっていると思います。

Yoshidamorning 「朝」という作品ですが、タイトルはそうなっていますが、これが朝の光線か、と疑問です。朝霧にけぶるという湿った空気感もなく、ただ輪郭がボケているだけで、雰囲気の表わし方は下手です。これは、水彩絵の具の効果を生かしきれていないし、何よりも塗りがぞんざいなのです。しかし、そのようなことを抜きにして民家の形や樹木の枝の形はきっちりしているのです。

「霧の農家」は「朝」に比べると、まだちゃんと塗っているようです。しかし、この二つの作品を画像でみると、こんなことを書いていても、そのまま受け取れないのではないかと思います。実物を見れば一目瞭然ですが、このように画像のようにコピーしてみたものでは、塗りの粗が見えてきません。おそらく、それが、吉田をして版画に向かわせた原因のひとつがあるのではないかと思います。ここでは先走りしたようです。

Yoshidavenis 「ヴェニスの運河」という油絵作品です。まるで「街道風景」の構成をそのままヴェニスの運河の風景に当てはめて描いたみたいです。吉田には、海外の画面をひとつの世界とか秩序のようなものとして画家がデザインして構成するという意識がほとんどなかったことを証拠づけるような作品です。しかも、油彩の特色という価値が全く分かっていなくて、その効果を生かしていない。単に色を塗っているだけにしか見えません。遠近法で画面が作られていても立体的な空間を感じさせないのです。おそらく、吉田にはヴェニスでなければならない必然性はなくて、日本橋の河岸であっても同じように描くのではないかと思います。それが吉田という画家の個性ではないかと思います。それは、もしかしたら、黒田清輝などに代表される洋画を輸入した画壇の権威たちよりは、むしろ当時の求めていた“和魂洋才”という姿勢をもっとも忠実に体現していたのではないか考えてもよいのではないかと思います。だいたい、吉田の作品をみていて、洋画であるとは、私には思えないのです。そんなことは、どうでもいいのです。それは、吉田の作品を見ていて思ってしまうのです。

Yoshidamiyazima このコーナーで印象に残った作品が「宮島」という橋を描いた作品です。水彩画ですが、この作品を見て、日本画と言っても変だとは思われないでしょう。安藤広重の「日本橋」のような橋を正面から見て、広重の横広の画面に対して、この人特有の縦の構図で視野を絞って、橋の向こう側の景色を隠してしまい、遠景の山の稜線をシルエットにして遥かな感じがとても良く出ている。これを見ていると、橋の見えない向こう側が何か、この世でない異界かもしれないと勝手に想像してしまう独特のものがあります。対照的に手前に揃えて並べられた履物がくたびれているのがリアルに描かれているのです。

2017年11月12日 (日)

倉田剛「現代存在論講義Ⅰ-ファンダメンタルズ」

倉田剛「現代存在論講義Ⅰ-ファンダメンタルズ」を読んだ。

観念や対象から、その対象に隠されてきた言語に目を転じたのが言語論的展開。その動きでは、従来からの存在論を否定したという。しかし、最新の科学、技術的な要請もあって言語論的展開後の分析の対象として再び考えるべきこととしている。例えば、最近注目の自動運転を考えれば、「何が対象として存在するか?」が基本的な課題となっているだろう。したがって、この新しい存在論とは「何が存在するか」を基本的な問いとする。それは、20世紀初頭にハイデガーが提起した存在論的差異という概念で、存在と存在者を峻別し、存在、即ち存在するとはどういうことか、を問いかけた。これに対して、新しい存在論、つまり、この著作は峻別した別の側、つまり存在者の方を追究しようとする。

「存在論とは、実在の構造を体系的に表象することを目的とする人工物である。実在の構造は、主にカテゴリーの階層およびカテゴリー間の関係を記述するという仕方で表象される。」と説明する。言ってみれば、存在ということを言葉で説明する際に、その言葉の意味や記述の構造をしようということだ。

例えば、「雪は白い」という場合、この文が真であるということは、この文と文の指していることが一致するということ。で、この文について、人は、この「雪」はある特定の雪を見ている。しかし、この雪だけに限らない全ての雪を指すだろう。この時、「雪」とはすべての雪をさす。そうでないと文は真とならない。このとき、人によっては普遍的な「雪」なるものが存在すると考える。または、この雪、あの雪とさしていってすべてを検証するか。「雪」ならまだしも、「白い」についてはどうするか。「白い」は存在するのか。まるで中世哲学の普遍論争ではないか。そう考えると、かなり些末と思われる細かすぎるほどの議論をしているが、スコラ哲学を現代でやっていると思えてきた。

生誕140年 吉田博展 山と水の風景(2)

第1章 不同舎の時代:1894~1899

Yoshidawinnter_2 吉田の修業時代ということになるでしょうか、不同舎という画塾に入門して、鉛筆によるスケッチに没頭していたといいます。この塾の主催者である小山正太郎という人の方針が「タンダ一本の線」というのだそうで、3本も4本も無駄な線をひくのではなくて、断然と決心して1本の線を引けという趣旨らしいのですが、何本も線を引いて撚るようにして線をつくったりとか、細かい線をひいて線を際立たせないようにして面として表われるようにするといったやり方であれば、最終的には輪郭線が消えて、物体の面とか立体が表われるといった西洋の素描とは少し違うようです。決然と1本の線を引くということは、その線が主張するものであるはずで、最終的には描かる物体には輪郭線など存在していないのだから描かれたものでも消える、というものではないことになります。その輪郭線が消えるのに代わって色彩とか光と影のグラデーションで、面や立体としての物体を表わすことになるわけです。しかし、ここで彼がやっているのは、線で輪郭を明確に描くということで、展示されているさくひんにも、それがよく表われていました。外形の輪郭が明確に捉えられていました。しかも、その捉えられた形は、正確なのだろうし、それ以上に見ていて意味があるといのが分かるものでした。

Yoshidaasama2 また、不同舎の方針というのが、もうひとつ「不同舎風道路山水」と言われていたそうで、一点透視の遠近法を基本として、中央に道、川、水路などを手前から奥へと伸ばし、周囲の風景とともに添景とともに人物などを配したとしいう構図です。例えば「冬木立」という作品は、まさにその典型です。真ん中を道が手前から奥に伸びた、シンメトリーに遠近法の画面構成です。おそらく習作のような作品なので、構図に凝るとか、独自の視野といったことは想定していないのでしょうし、この構図は安定していて、描きやすい、格好がつきやすいので、まずは描くということなのでしょう。しかし、後年のアングルの陳腐さというのは、この時点ですでに胚胎していたかもしれないと、結果論的な見方でしょうが、見えてしまうのです。しかも、言わせて貰えば、折角水彩画で彩色しているのに、冬の空気感とか、乾いた光線とかいったことには全く無頓着なようなのが分かります。おそらく、吉田にとっては明確な形になっていないものには興味がなかったのかもしれません。しかも、道の土や両側の草の塗り方が雑といのかぞんざいで、その質感といったことが伝わってこないのです。それは、小さな画像では、分かり難いかもしれません。逆に、この画像では、木立の枝のしげる形とか、後方の民家の形がしっかり分かるので、とても見易い印象を持たれるのかも知れません。これらから、ひとつの想像をしてしまうのは早計かもしれませんが、吉田という人は、目に見える、明確な形以外のものは描く対象から、あえて外したのかもしれない、それを、すでにこの時点で自覚していたのかもしれないと、作品をみていて思いました。

Yoshidaasama 「浅間山」という水彩画を見てみましょう。この作品の遠景に薄く描かれている浅間山がちゃんとした地形の浅間山として分かるというのは、このころから、地形としての山の形の意味を吉田という画家は分かっていたのだろうと思います。参考として、比較のために梅原龍三郎と小山敬三の浅間山を描いた作品と並べて見ると、彼等が浅間山を描いた作品には定評があるとのことですが、吉田の描く浅間山に比べると地形としての形はいい加減としか言いようがありません。この二人の場合には、地形などより火山のエネルギーとか画家の思い入れとかいった実体の形として表われないものを絵にしようとして、その素材として浅間山をつかっているので、絵としての評価と浅間山であることの必然性とは別に見ていかなければならないと思いますから、吉田の作品と比べて、どっちがどっちとう良し悪しをいうつもりはありません。比較はこのくらいにして吉田の作品に戻りましょう。この作品で目につくというのか、視線が集まってしまうのが、画面真ん中左に直立している1本の樹木です。吉田の風景画で横長の画面の作品では、よく、このような縦の線を印象的に挿入して、アクセントにしていYoshidaasama3 るケースがあります。結果時に、見る者の視線をこの縦の線に集めることになっていて、作品全体に締まりを与える効果があったと思います。吉田の作品を見ていると、この画家の視野はカメラで言えば、望遠レンズで見ているようなところがあって、この作品のような横にひろがっていくような画面であれば広角レンズのような広がりがあったほうが似つかわしいのでしょうが、この作品をみていても、そのような空間の把握をしていないようです。そこで、1本の樹木を挿入して視線を集めることで、望遠レンズの求心的な視線の方向性に導いていると思います。おそらく、吉田は無意識に、そこにある風景をそのまま写生しているのでしょう。しかし、この画面をもし、この樹木がない場合を想像してみれば、おそらく、焦点のない、茫洋とした締まりのない画面になっていたのではないかと思います。このように、吉田という画家は、視野においても、かなり偏ったところがある人だったのではないかと思います。これは、必ずしも悪い意味ではありません。

Yoshidacloud 「雲叡深秋」という作品です。このコーナーでは唯一の油彩画で、当時の展覧会に出品された作品ということで、1989年という制作年代から考えれば、吉田にとって不同舎時代の集大成的な意味をもった作品だったのではないかと思います。この時期の水彩画の場合とは違って、拙いながら塗りも丁寧さがありました。縦長の画面で渓谷の深さを当てはめて、視野を狭くすぼめて、画面真ん中に焦点を絞るようにして、その焦点には渓谷のはるか源流の山肌を遠景で示して、奥深さをだしている。まさに望遠レンズに格好のアングルです。しかも、画面の両側に覆いかぶさるように屹立する岩は、細かいところに至るまで、きっちり形を描き込んである。ちょっと参考の意味で比較していただきたいのが、19世紀イギリスの風景画家ジョン・ブレッドの「ローゼンラウィ氷河」という作品です。画面構成がとても良く似ている作品です。吉田は、この作品を見たとは思えませんが、ある種のパターンなのではないかと思います。しかし、ブレッドの作品は、この風景をこの世のものも思えない超絶的な景観として作為的な描き方がなされています。例えば、大小の釣り合いが極端に拡張され、個々の要素が切り離されているような感覚をおぼえさせられます。遠近法のよる立体表現においても、あえて消失点さえ定めずに画面を構成しています。左側の巨大な絶壁も作品を縁取る仕掛けというより、単に視界を遮るにすぎないようです。崖の頂に立つ針葉樹も、ありえないほど小さく見える。前景の一番大きい堆石にのしかかる氷河は、空間の広がりを遮り、視界を不安定にします。しかし、形だけを見れば手前の中央右に盛り上がる氷河の雪のピラミッドの形は、遠景にかすむドッセンホルンの山頂と呼応しあっているように似ています。また、左側の崖も画面の縁で欠けてしまっていますが、その形はピラミッド形の右半分のような形で、画面全体にピラミッドの三角形が前景、中景色、遠景にそれぞれ配置されていて、関連づけられています。それZenpabrettglacier により三角形が、はるか遠くから手前に向かってせり出してくるような動きを与えます。それが見る者にとっては迫力を感じさせることになります。しかし、その一方で、中央の手前には花崗岩や砂岩の石が、その向こうには片麻岩の彎曲した様子が、地質学上もそれとわかるほど精巧に描写されていて、手に取ることができると錯覚してしまうほどです。それが見る者にとっては画面の枠を超えて、自分が氷河のすぐ前にいるかのようなリアリティを与えています。だから、氷河が迫ってくる迫力が迫真のものとして感じられるわけです。これは、当時のロマン派の思潮における山岳の美の特徴的な性格としての“崇高さ”ということ、その崇高さというのは人が畏怖を感じるものですから、この作品の迫力は、その畏怖、崇高さに繋がるものとなっていると言えます。しかも、ブレットは崖の上に立っている小さな針葉樹、たぶんモミの木でしょうか、そこにキリスト教の救済の意味を負わせている。それらの木は、この世の終わりのような荒涼とした景観の中で、永続性を象徴させています。これに対して吉田の作品には、ブレッドのような作為がほとんど感じられません。画面をまとめているのは分かるのですが、“崇高さ”という雰囲気とか理念のようなことを風景に託して表そうという気がない。そこが、吉田の作品に一貫して流れている特徴で、この人の表現というのは、徹頭徹尾即物的なのです。それは、吉田の潔さと受け取るか、想像力の欠如と受け取るかは、見る側の好みによることになると思います。

2017年11月11日 (土)

生誕140年 吉田博展 山と水の風景(1)

2017年7月 東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館

Yoshidapos 例年であれば梅雨の末期で強い雨が降り続くような時期なのに、東京は梅雨明け直後のような快晴で、猛暑の日々。都心はヒートアイランドの、ムッとした空気が肌にまとわりつくような暑さ。午後の新宿はの人波は、暑さをさらに昂じさせるようで、ほんとに暑い。この美術館は、初めて行くことになるので、不案内な地下道を避けて地上の道を歩いたので、電車を降りてJRの駅から美術館まで、10分足らずの距離を歩いただけで、かなり汗を絞り取られ、すぐには落ち着いて絵画を鑑賞する状態にはなれなかった。新宿西口の高層ビル街の入り口にあたるところの損保会社のビル、美術館の専用玄関が正面の裏手の少し奥まったところに回る。玄関を入るとロビーがあって、展覧会の紹介映像を流していたので、ここで少し涼んで、汗が引くのを待った。(コインロッカーはここのロビーと42階の展示室に上がったところにもある。大荷物でもない限り、あせってロビーで預けることはないと思う。)専用エレベーターで42階に上がると、小さな受付で入場券を買った。受付が小さいのは、前売りや招待券の人が多いからかもしれない。平日の午後で、こんな暑い日にもかかわらず、しかも、展覧会の会期としては始まったばかりであるにもかかわらず、それなりに人は多かった。これ以上増えると落ち着いて見られなくなるかもしれないというくらい。おそらく、会期の終わり頃には、かなり混み合うのではないだろうか。

さて、展覧会の会場に入っていくことにしましょう。美術の知識がほとんどない私には、吉田博という画家をしりませんでした。ポスターの画像と、都心に出か欠けるスケジュールと展覧会の会期が符合してので、寄って見たというのが、この展覧会を訪れた動機です。その画家の紹介も兼ねて、この美術展の趣旨について、主催者のあいさつを引用します。

明治、大正、昭和にかけて風景画の第一人者として活躍した吉田博(1876~1950)の全容を紹介する展覧会を開催します。

福岡県久留米市に生まれた博は、京都の地で三宅克己の水彩画に感銘を受け、以来本格的な洋画修行を始めました。明治27(1894)年に上京して画塾・不同舎に入門、小山正太郎のもとで風景写生に励んで腕を磨きます。明治32(1899)年に渡米、言葉もままならない異国で自作を大いに売って生活の質を得るという快挙をなし、アメリカ各地からロンドンやパリを巡って明治34(1901)年に帰国しました。以後も外遊を重ねて東西の芸術作法を見つめ、内外の風景に取材して水彩画や油彩画を発表、太平洋画会や官展を舞台に活躍を続けました。

とりわけ高山を愛し、常人の足の及ばぬ.深山幽谷に分け入ることで描いた作品は、新たな視界や未知の美を発見した喜びに満ちています。大正後期からは彫師・摺師と組んだ木版画に軸足を移し、伝統的な技術に洋画の表現を融合したかつてない精巧・清新な造形で国内外の版画愛好家を魅了し続けました。

吉田博は生涯、世界における自らの位置を考え続けた画家といってよいでしょう。その思考の跡が、湿潤な日本の風景をみずみずしく描いた水彩画であり、雄大な自然美を登山家ならではの視点からとらえた油彩画であり、浮世絵以来の技術を新解釈した木版画でした。比較的早くに評価の定まった白馬会系の絵描きたちに比し、長く埋もれてきた感のある博の画業は、今の私たちにどう映るでしょうか。「絵の鬼」と呼ばれ、水彩で、油彩で、木版画で世界に挑みづけた画人の「これが日本の洋画だ」という答え─。生誕140年を記念し、代表作に初公開の写生帖などをあわせて展観する大回顧展を、とくとご覧下さい。

このあと、展示されている作品を追いかけるように見ていく際に、具体的に述べていこうと思いますが、吉田博の一連の作品の展示を通した見た全体としての感想を、大雑把に述べておこうと思います。この人は、一芸秀でた一点突破型の人ではないかという印象を受けました。その一点が突出しているので、それ以外のところは下手だったり凡庸なのですが、その一点の印象に引っ張られて、全体として気にならなくなっている。逆に一点を際立たせている、そういうタイプの画家だったように見えました。それゆえ、彼の方向性とか位置ぢけが限定されのは仕方のないことで、例えば、風景画家となったことについても、それ以外の道はなかったのではないかと言う感じがします。それは、作品をみての印象で結果論かもしれませんが。で、彼の突出した点について、最初に述べておきます。これから、彼の作品を見ていきますが、私はのその一点突出という視点てせ見ていくことになりますので、もし、この突出しているということに異論がある片は、この先を読んでも、何の収穫も得られないと思います。で、その突出点てせすかせ、それはスケッチです。そのスケッチのなかでも、建築物のような動かないもの、表面が硬い素材のものの外形を鉛筆で線を引くという点です。硬い線で引かれた輪郭による形の説得力がすごい。例えば、北アルプスの山岳を描いた作品であれば、岩稜のデコボコのひとつひとつの形に、それぞれ意味があるように形が捉えられて、描かれているのです。だから、描かれている山稜を見れば、それがどの山であるかは山登りをしたことのある人であれば、ひと目で分かるのです。それが、この人の山岳風景のすごいところで、他の画家であれば一般的な山の概念を描くのが精一杯のところ、この人は剣岳という特定の山を、その特徴をとらえて、その特徴に固有の意味があるものとして描かれた形にしているのです。おそらく、誰かに習ったというものでなく、画家の生得的な才能なのではないかと思います。しかし、その反面、山岳風景であれば、彩色された山岳の岩稜に、岩の固さとか重さが感じられない、また、その風景に光がさして影ができる、そういうところが感覚できない。形は説得力があるのに、彩色されると平板な画面になってしまう。また、スケッチにおいても、花や人物のような柔らかなものの柔らかさを捉えきれないし、さらに水面のように流れる、つまり動きがあるものの動いているということを捉えきれない。そのうえ、全体としての構図が、つまりは空間の全体の把握の仕方が陳腐で、画家独自の視点を、おそらく、この人は生涯持つことができなかったのではないか、だから、この人の風景画はどこかで見た、悪く言えば絵葉書のようなものになっているのです。ただ、ここで誤解してほしまないのは、だから、この人の作品はつまらないとか魅力がないと言うのではないのです。そういう文句はいくらで言えるにも拘わらず、突出した一点があるがゆえに、他の凡百の画家とは一線を画しているということなのです。

それでは、具体的に作品を見ていきましょう。

第1章 不同舎の時代:1894~1899

第2章 外遊の時代:1900~1906

第3章 画壇の頂へ:1907~1920

第4章 木版画という新世界:1921~1929

第5章 新たな画題を求めて:1930~1937

第6章 戦中と戦後:1938~1950

 

音読みと訓読み

 

漢字には、音読みと訓読みってのがある。これは誰でも知っている。音読みというのはオリジナルの発音。漢字は中国語では表音文字のように、中国語の一音節に漢字一文字が対応している。ということは、例えば、シュンと音読みされる漢字は、春、駿、瞬、旬・・・その他に何種類もある。それは、中国語の発音は、それぞれ全部違うということになる。昔の日本人は、それらを聴き分けられなかったから、同じシュンという音読みにしてしまった。今でも、日本人の多くは、英語のRとLを聞き分けることができない。それだけ、発声を聞き分け、使い分ける能力の範囲が狭いのだ。中国人やアメリカ人には言葉の声として存在しているものを、日本人は、その存在に気がつくことができない。存在しないことになっている。

しかし、その弱点を逆手にとって、シュンを聞き分けることができないから、春ははる、瞬はまたたくという意味で識別するようになる。最近まで日本人は漢字を主として表意文字として捉えていたのではないだろうか。実際に、我々は漢字を見て口に出して発声できなくても、意味を分かってしまう。つまり、日本人は漢字をわざわざ日本語に翻訳しなくても、その文字のもっている意味がある程度分かってしまっていた。その結果なったのが、漢文の訓読だ。外国語をそのまま読んで日本語になってしまうという前代未聞、おそらく世界で他に例がないものだ。フランス語と英語で同じアルファベットという文字をつかっていても、フランス語の文章がそのまま英語で読めてしまうことはない。必ず、翻訳して英語に書き直す。これが普通だ。しかし、訓読は、漢文そのままを日本語で読んでしまう。それは、先に漢字の意味を捉えてしまって、あとで日本語にして発声するからだ。その漢字の読み方を訓読という。

この話は、さらに続く。日本人は漢字を意味で捉える。そこから、その意味をパズルのように加減して新しい意味をつくり出すという芸当をやってのけた。中国人は漢字を表音文字と捉えるので、外来語の新しい意味を導入する時には、その外来語の発声に漢字を当てはめようとした。これに対して、日本人は明治の文明開化の際に欧米から導入した新奇の概念の意味を把握し、その意味に近い漢字を当てはめた。自由、人権、民主主義、共産主義などみんなそうだ。それがあったから、あれほど短期間にエリートに限定されず庶民にまで浸透してしまったのだ。あとになって、それらは中国に逆輸入された。もし、それがなく、直接中国語になったとしたら、コミュニズムは発音が近い漢字が当てられたかもしれない。

日本人と漢字との関係はユニークだ。ただし、そういう接し方をしたがゆえに、中国語のニュアンスが切り捨てられて、意味が歪められてしまったということは、荻生徂徠ななどが厳しく指摘している。

ある人に、音読みと訓読みの違いを教えてくれといわれて、余計なことまで妄想してしまった。

2017年11月10日 (金)

篠田英朗「集団的自衛権の思想史─憲法九条と日米安保」(13)

終章 日本の立憲主義と国際協調主義

このような経緯を踏まえて著者は主張します。

日本国憲法には、政府が国民の福利を守るために行動する義務を負っているという原理の基に作られ、決して日本という国家自体に自身の存立を守る権利があるとはうたっていません。しかし、終戦直後の八月革命説で国民が革命を起こして憲法制定連力を握ったという物語が捏造され、日本国憲法は国民=国家が自らの意思に従って自らを守ることを正当化する装置となりました。その結果、国際協調主義の理念は軽視されていきました。

一方、実態としての日本国家体制、安全保障体制は日米安全保障条約によってつくられたもので、憲法体制と安保体制が「表」と「裏」の側でそれぞれを意識し、無視しあう関係を形成しました。

そのなかで最低限の自衛権の概念によって自衛隊が擁護され、日米安保体制が擁護され、最低限が合憲という発想が広範に浸透していきました。単に個別的自衛権が合憲で、集団的自衛権が違憲という線引きが便宜的になされることにつながっていきました。

他方で、日米安保体制に依存して、軽武装ですませることで高度経済成長を達成することができたという繁栄の神話が日本人の思考回路を支配しました。すでに半世紀前の経済成長は再現することはできないし、当時の冷戦という世界情勢はなくなっています。このような事態は安保法制の議論にも影響していると著者はいいます。立憲主義とは権力に制限を課することという通俗的な議論に対して、そもそもは社会の構成原理は簡単に変更してはならないという根本規範であるという信念のことだといいます。権力だけでなく一般国民をも服する原理なのです。その根本規範はは憲法が定める根本的な社会構成原理、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を擁護することなのです。たから政府は国民の信託を受けて、そのために最大限の努力をする義務を負っているのです。

したがって、今回の安保法制もそうだったし、これまでもそうだったが、日本という国家の存立自体が、あたかも重要原理であるかのような錯覚がまかり通って、主権者である国民が権力者を制限していく物語を夢想するだけでは、日本国憲法が規定する社会構成原理が溶解していくことになると著者は警鐘を鳴らします。

まずは、ここから議論をスタートさせてはどうかと著者は提案しているようです。

残念ながら、では、具体的にどうするのかには著者は言及していません。

2017年11月 9日 (木)

言葉は通じていても、意味は共有していない

花子さんが、付き合っている彼氏とは別の男性と二人きりで酒を飲んでいるところを目撃され、「君は浮気をしている」と彼氏に難詰されたとする。彼女は「浮気なんかしていない」と答えるが、彼氏は「浮気している」と譲らない。彼女は、単に二人で酒を飲んだだけで浮気したわけではない。彼はそれこそが浮気だという。二人の言っていることはそれぞれ間違っているわけではない。だから、二人の議論は、どちらかが間違っていて、その誤りをただすということには至らないので平行線のままだ。このとき二人の間で「浮気」という言葉がともに使われているが、意味・内容ですれ違っている。しかし、二人は共通であると錯覚している。だから彼は彼女を難詰したのだ。彼が難詰したのは、彼女が非を認め謝罪することを期待してのことだろう。だから、彼女は自分に非がないこと、自分の行為は浮気にあたらないことを説明しなければならない。この場合、二人とも正しいにもかかわらず、二人の正しさは、この議論の場では平等ではない。この議論の方向は、仮に彼氏が正しいという設定でスタートし、それに対して彼女はその設定をひっくり返して、彼女の正しさを通せるかどうか、という方向だ。この時、彼氏は「浮気」ということについて、自分の使っている以外の意味内容があるとは想定もできない。きのうの投稿でいうと、彼氏はプラットフォームを作る側の人と言える。

きのうの異なる文化の接触もそうだけれど、人と人との言葉のやりとりについても、実は同じことがいえる。

多様性とかダイバーシティなどいって、企業では外国人の雇用とか試みしているというけれど、普通に人と人との使っている言葉の意味ですら違っているのだから、いま、現に企業の中にいる既存の社員などの人々の、そういう違いについて、果たして、違う方も正しいということに気がついているのか。気がついて、それをすくいあげる努力をしているのだろうか。そこからでも多様性はあると思うのだが。足許を見ろと言いたい気がする。

篠田英朗「集団的自衛権の思想史─憲法九条と日米安保」(12)

第5章 冷戦終焉は何を変えたのか?─1991年湾岸戦争のトラウマと同盟の再定義

第一節 冷戦終焉と日米同盟の行方

1985年にプラザ合意が結ばれ、冷静体制において輸出主導の無経済発展を遂げる「自由主義陣営の工場」としての日本モデルは終焉を迎えます。これにかわる新しい時代の経済政策として、円高を背景にしたバブル景気が引き起こされた後、本格的な冷戦の終焉後の世界の始まりとともに、1990年代に入るとバブルかはじけます。

アメリカの態度は、冷戦時代の自由主義陣営の工場として日本を反共の砦として擁護することら大きく変化します。経済面では日本は競争相手となりました。日本政府の従来の外交政策は冷戦という特異な時代の条件において馬出されたもので、将来にわたり維持できるものではないという認識が徐々に広まり、外交に関心を持つ人々の間で集団的自衛権違憲論を主張する内閣法制局への不信感が募られていきました。

1991年の湾岸戦争には日本は参加ませんでしたが、集団的自衛権ではない形として多額の資金援助を行いました。しかし、それは関係国に感謝されない結果に終わり、日本の政策決定者たちは大きなショックを受けます。いわゆる湾岸戦争のトラウマです。従来の軽武装が冷戦時代の古い考え方であったのが明白に示された形になりました。この湾岸戦争の後、国際貢献の必要性をめぐる議論が活発化します。1992年いわゆるPKO協力法が成立します。

このPKO協力法は、PKO以外の活動についても規定しており、日本から見て国際的な平和・人道支援活動と言えるものに関する諸規定を一つの法律に盛り込んだものです。それは、国際貢献をしなければならないという政治的要請に対応するために法律ができたため、すでに存在している国際的な諸活動の体系に合わせて法体系を整備することができなかったのでした。貢献する日本中心の視点で作られた法律なので、貢献の窓口となる国際社会の仕組みにあわせた法律ではないのでした。しかもこの日本政府の視点の中心にはアメリカとの同盟関係の維持がありました。

1996年にいわゆる日米新ガイドラインが定められ、2001年9月11日以降、アメリカが対テロ戦争に乗り出していくと、日本は同盟国として最大限の貢献を果たすようになっていきます。政権はいわゆる特措法という時限立法でアメリカ軍などへの後方支援活動に自衛隊が海外にかり出されていく、それに伴い、PKOには手が回らなくなっていくというおかしな事態となって行きます。その結果として、湾岸戦争のときのように、日本が批判を受けることはなくなりました。

つまり、PKO協力法を通した国連PKOへの貢献は、直接的な軍事支援ではない国際支援活動を通じた様々な貢献、という位置づけの中で見いだされたひとつの活動でしかなかったのです。国連PKOそれ自体の重要度に着目して行うというよりは、日米同盟体制を枠組みとした国家体制の中で、日本に可能なもろもろの周辺的な国際貢献活動を行っているにすぎない。活動の優先順位が日米同盟体制の維持の観点から序列づけられていることに変わりはなかったと言えます。

日米安保条約は、冷戦時代の国際情勢を前提にして、反共同盟の構築として設定されたものです。冷戦が終焉し、共産主義運動の脅威が過去のものとなった時代に、性格の変容を迫られることは必至でした。情勢が変わってもなお日米同盟体制を維持するのであれば、新しい性格の規定、および追加的な補強活動が為されなければなりませんでした。それをアメリカ側から迫ったのが、ジャパン・ハンドラーズと呼ばれる親日派、たとえばアーミテージと言った人々です。そこには集団的自衛権行使の容認が含まれていました。

このあと、安倍政権の誕生により安保法制懇がつくられ、第二次安倍政権での安保法制の成立へと進んでいきました。

言葉は同じでも内容は違うのに伝える

「辛い」ということ。例えば、日本酒の「辛口」に、私たちは何の疑問も感じないと思う。また、カレー・ルーのなかでハウス食品工業の製品でバーモント・カレーの「辛口」とジャワ・カレーの「甘口」を比べたとき、矛盾を感じることはない。(二つの商品を知らないかもしれないが)これらについて、例えば、中国の四川省あたりの人々が、同じ漢字を使っている「辛」は舌がヒリヒリして痺れるような感覚、その典型が唐辛子だという。だから、そういう人が辛口の日本酒を辛いとは感じることはない。むしろ甘いと感じるのではないか。この場合の日本酒の辛口は後味の残らないさわやかさのことを言うのだろう。この時に、同じ「辛」でも、日本人と四川省の人では内容が違っている。しかし、同じ「辛」という言葉を共有しているから、内容が違っているとは考えない。外国語の翻訳も、実はそういうものだ。

いまさらクワインの通約不可能性の議論を持ち出すわけではないか。文化の多様性というのは、「辛」は共通しているということを互いの約束として、実は誤解し合って、そのいわば善意の誤解の上に立って、だって共通の地盤に立てなければ互いの違いを認め合うことが出来ない。この時の共通の地盤、つまりプラットフォームをつくる側と、作られる側があって、作られる側は作る側に譲歩することで、はじめて成立する。このとき、譲歩する側は譲歩していることを自覚しているが、譲歩される側、つまりプラットフォームを作る側は譲歩してもらっていることに、おそらく気づいていない。

これが「辛」だからいいのだけれど、「自由」とか「民主」といった言葉について、このプラットフォームを作った側の人々が、今まで譲歩ばかりされていたのが、こんどは譲歩することを迫られ始めて文化多様性とかグーバリゼーションが、話が違うじゃないかと思い始めている。そんな気がする。

2017年11月 8日 (水)

篠田英朗「集団的自衛権の思想史─憲法九条と日米安保」(11)

第二節 1972年政府見解

1971年のニクソン・ショック。日本に事前通告なしに、訪中とドル金兌換停止宣言。1972年、佐藤政権を継いだ田中政権は日中国交回復を実現した。そうした情勢の中の参議院決算委員会で内閣法制局長が質問に答えたのが1972年の政府見解です。

その特徴として第一に指摘できるのは、「わが国はみずからの存立を全う」するために「自国の平和と安全と維持しその存立を全うするために必要する自衛の措置をとる」という、「国家」が主語をなった論理構成で自衛権が擁護されていることです。ここで「国権の発動として」という文言は、国家が自分自身を守る際に依拠する自然権的な権利というような趣旨で用いられています。国家法人説の擬人法的な発想に基づいて「国家が自分自身を守る自然権」だけが基本権として認められるという論理構成となっています。

第二の特徴として、「必要な自衛の措置」は「必要最小限の範囲にとどまるべき」なので、集団的自衛権は違憲だ、という論理攻勢が定まったことです。国家が自分自身を守るのが自然権的な国権であり、したがって「必要最小限」で「憲法が容認する措置」だという確信に訴える表現があるだけです。

第三の特徴として、憲法十三条を根拠にした自衛権の擁護をしていたということです。初めて集団的自衛権に関する政府見解を文書にするにあたり、憲法典上の根拠を示す試みがなされたということです。

この資料提出に至った委員会での質疑応答のやりとりのなかで「自衛権発動の三要件」を内閣法制局の解釈として明確化して主張しました。「憲法九条が許しているのはせいぜい最小限度のものであって、わが国自身が侵害を受けた場合に、その侵害を阻止し、あるいは防ぐために他に手段がない、そういう場合において、しかもその侵害を防止するために必要最小限度の攻撃に限って行ってもよろしいと、いわゆる自衛権発動の三要件とか、三原則とか申されておりますけれども、そういうものに限って、そういう非常に限定された態様において、日本も武力の行使は許されるものであろう」といういわゆる最小限度論です。

 

第三節 1981年政府見解

1981年5月の議員の質問に対して出された答弁書は。政府の集団的自衛権概念の定義として繰り返し参照される文書です。

「我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法九条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている」

日本政府としては、必要最小限度の範囲が個別的自衛権の行使という概念で説明される範囲と一致するため、集団的自衛権の行使は必要最小度の範囲を超えると定義されると考えられることになります。ここではもはや、なぜ必要最小限度が個別的自衛権と合致するといえるのかについては説明されなくなっています。個別的自衛権と集団的自衛権のそれぞれに必要最小限度があるという考え方も放棄されたようです。

2004年1月予算委員会の答弁で法制局は、かつて集団的自衛権が部分的に行使可能であるという理解があったが、現在は集団的自衛権が実力の行使に係る概念であるという理解が定着したために否定されている、としました。集団的自衛権の全てが違憲であるのは、かつて行使可能とも言われた部分の集団的自衛権を集団的自衛権ではないと考えことによってということになります。言い換えれば、日本政府が理解する意味での集団的自衛権を日本は行使できないという結論ありきの議論になっているわけです。

この底流には、日米安保条約に対する自信を政府が持つようになったことがあります。とにかく、日本は日米安保体制で上手くやってきた。今後も同じ体制で上手くやるべきだ。このような風潮は政府のみならず世論にも流れていました。それが集団的自衛権違憲論による軽武装路線の維持という政策に反映されていたと言えます。

他方、貿易赤字に苦しんでいたアメリカでは、日本政府に対して安保条約にただ乗りしているという批判が艶くなってきていました。

2017年11月 7日 (火)

篠田英朗「集団的自衛権の思想史─憲法九条と日米安保」(10)

第4章 内閣法制局は何を守っているのか?─1972年政府見解と沖縄の体制内部化

第一節 沖縄返還と集団的自衛権

集団的自衛権の行使を違憲とする政府見解を述べた文書が初めて作成されたのは、1972年10月のことでした。その伏線は沖縄返還を達成した佐藤内閣に始まります。

佐藤内閣は、非核三原則を提唱し、沖縄返還を実現しつつ、他方ではアメリカに日本のための核報復体制を要請したり、沖縄への核持ち込みを密約で認めたりするなど、二枚舌での外交を行いました。「裏」でアメリカの安全保障の傘を強く求め、「表」では集団的自衛権は違憲なので行使し得ないと説明する立場を確立しました。特に重要なのは、沖縄の返還後も米軍基地を米軍が自由使用することを容認する取り決めをしたことです。基地の自由使用は。集団的自衛権違憲(=日本が行使している状態の否定)を強調する姿勢と表裏一体の関係にあります。サンフランシスコ講和条約の際に日本の沖縄に対する「残存主権」が認められながら、米側から「極東に緊急事態が続く限り米国が沖縄を保有することは日本にとっても有利」という判断が示されたのは、「米国が沖縄を保有していれば、日本は沖縄基地からの戦闘機発進について責任を持たなくて済む」という考えに基づくものでした。

内閣法制局長は、国会で「集団的自衛権に基づく相互援助行動は、憲法が当然認めている自衛権の範囲には含まれない」と発言し、「日本が武力を行使できるのは、日本に対して武力攻撃があった」場合に限られると説明しました。この発言はアメリカが集団的自衛権の他の下にベトナム戦争で行っている軍事行動の正当化をめぐる議論においてでした。沖縄返還で譲歩を引き出すためにジョンソン政権のベトナム政策への指示を表明した佐藤政権は、野党の攻撃に晒されながら、必死に日本の実質的関与がないことを強調しました。

1969年にアメリカはニクソン政権の下でベトナムから撤退しました。これも原因して、沖縄返還交渉においてアメリカは、沖縄返還を機に、日本本土の米軍基地が事実上の自由使用化状態になるように交渉しました。そして、アメリカ側が、日本本土は日本が防衛し、極東防衛を日本の支援を受けて米軍が担当するするという方向で日米同盟体制が進展したと理解したのに対して、日本側は引き続き日米安保条約は日本だけを防衛するものであり、日本に無関係な米軍の行動は事前協議の対象である(いずれにせよ日本と無関係な米軍独自の行動にすぎない)という理解を堅持しました。1972年の時点において、日米同盟は双方の思惑が食い違い始めていました。日本側は、「裏」の理解では紛れもない基地の自由使用容認を、「表」向きでは何も変化はないという態度で押し通し、さらに集団的自衛権は違憲(したがって米軍の軍事行動に日本は一切関知しない)という見解で押し通しました。アメリカが行っている軍事行動に日本の基地が使われている場合、日本の安全に関する事柄であれば日本との関係におけるアメリカ側の一方的な集団的自衛権の行使ということになります。また、日本の安全とは無関係である場合、日本はこれを自国に無関係な軍事行動として黙認する。米軍基地及び米軍の行動は、基本的に日本国憲法とは無関係であり、日米安保条約に関しても単に事前協議という手続をとるだけで実質的な関与はない。これは実質的には米軍の基地の自由使用です。その代わりに、ベトナム戦争の現実が進行中の時代にあって、在日米軍が日本から離れて行う戦争に、日本は一切関知しない、という突き放した議論を行われました。

当時の返還前の沖縄はベトナム戦争の米軍出撃基地でした。通常は、戦争に使われることを知って基地を提供するのは、戦争行為への支援であり、集団的自衛権の行使に該当します。それにもかかわらず内閣法制局は、゜憲法が禁止している集団的自衛に日本が参加することはできず、沖縄が返還されてもそれは同じだと強弁します。実際には、事前協議では日本国憲法を適用して米軍の行動を審査するわけではないので、実際には自由使用を黙認する仕組みとなっていました。そのときに黙認した米軍の軍事行動は、例えば北ベトナムの空爆は、少なくとも集団的自衛権を一切行使しない日本からみれば、アメリカが勝手に行っている行為であり、日米安保条約を通じて日本が関与している要素などは一切ない単なる外国軍の行為に過ぎないものというわけです。

 

第二節 1972年政府見解

1971年のニクソン・ショック。日本に事前通告なしに、訪中とドル金兌換停止宣言。1972年、佐藤政権を継いだ田中政権は日中国交回復を実現した。そうした情勢の中の参議院決算委員会で内閣法制局長が質問に答えたのが1972年の政府見解です。

その特徴として第一に指摘できるのは、「わが国はみずからの存立を全う」するために「自国の平和と安全と維持しその存立を全うするために必要する自衛の措置をとる」という、「国家」が主語をなった論理構成で自衛権が擁護されていることです。ここで「国権の発動として」という文言は、国家が自分自身を守る際に依拠する自然権的な権利というような趣旨で用いられています。国家法人説の擬人法的な発想に基づいて「国家が自分自身を守る自然権」だけが基本権として認められるという論理構成となっています。

第二の特徴として、「必要な自衛の措置」は「必要最小限の範囲にとどまるべき」なので、集団的自衛権は違憲だ、という論理攻勢が定まったことです。国家が自分自身を守るのが自然権的な国権であり、したがって「必要最小限」で「憲法が容認する措置」だという確信に訴える表現があるだけです。

第三の特徴として、憲法十三条を根拠にした自衛権の擁護をしていたということです。初めて集団的自衛権に関する政府見解を文書にするにあたり、憲法典上の根拠を示す試みがなされたということです。

この資料提出に至った委員会での質疑応答のやりとりのなかで「自衛権発動の三要件」を内閣法制局の解釈として明確化して主張しました。「憲法九条が許しているのはせいぜい最小限度のものであって、わが国自身が侵害を受けた場合に、その侵害を阻止し、あるいは防ぐために他に手段がない、そういう場合において、しかもその侵害を防止するために必要最小限度の攻撃に限って行ってもよろしいと、いわゆる自衛権発動の三要件とか、三原則とか申されておりますけれども、そういうものに限って、そういう非常に限定された態様において、日本も武力の行使は許されるものであろう」といういわゆる最小限度論です。

2017年11月 6日 (月)

宇野常寛「母性のディストピア」

宇野常寛「母性のディストピア」を読みました。

第二次世界大戦で日本を占領した連合軍司令長官マッカーサーは、日本のことを12歳の子供と評した。その日本の戦後の復興はアメリカという大国(大人)の庇護の下で経済を成長させた。その結果、日本は12歳の子供のまま経済大国として身体のみを肥大化させた。著者は、その象徴的な表われとして手塚治虫の「鉄腕アトム」を捉える。アトムは天馬博士の亡くなった息子の代替として作られたが、成長しないため捨てられてしまう。しかし、アトムは子供の姿にもかかわらず10万馬力という強大なパワーを秘めていた。当のアトムは人間になりきれない中途半端な自己の存在に悩む。

しかし、もはや日本は経済大国ではなく、アメリカも日本をスポイルする力も意欲のなくなって、12歳の子供はいったいどうするのか。そこで背伸びをするか子供のまま小さくしているかの二極で意見を対立させている。そのプロセスを反映している表現として、手塚治虫を継承した宮崎駿、富野由悠季、押井守といったアニメ作家を追いかける。彼らの作品に見られるのは、少年が自立して大人になる際の親離れということ、とりわけ日本的な親子関係の特色として男の子と母親との関係、つまりマザコンからの脱却ということだ。しかも、この三人の作家はそれぞれに試みるがすべて失敗に終わる。それは彼らの作品に明白に表われてしまっている。このままでは、日本は12歳の子供のまま壊死してしまうと警鐘を鳴らす。

この本の大半は宮崎駿、富野由悠季、押井守の三人の作品分析で、マザコンを切り口にして分析していくのは面白かった。例えば富野由悠季であれば「伝説巨神イデオン」のように最後にすべての登場人物が一瞬で全滅してしまう救いのない終わり方をするし、「機動戦士ガンダム」ではアムロとシャーという中心キャラクターが望みを絶たれたまま犬死してしまうというペシミスティックなものがたりをつくりつづけた。そこに未来を自力で切り拓くという要素は見られない。宮崎駿の作品に出てくる男たちは一様に女性に依存していて、一人で立っていられない。それらは納得できるところはある。

とはいえ、そこまで執拗に分析して著作にまとめたのはいいが、だからどうしたなのだ。サブカルに日本という国が反映しているとして論じているのはいいとして、それなら、そういう分析をするスタンスが傍観者になっている。そこに何の意味があるのか、なぜ、ここで当事者として私は、こうしたいんだという所で見ることをしないのか。単に、アニメ作家とその作品だけの分析に終始するだけなら、それなりにまとまった著作として終われたと思った。余計なこと言わなきゃいいのに。

篠田英朗「集団的自衛権の思想史─憲法九条と日米安保」(9)

第六節 集団的自衛システムと最低限の自衛権

このような独特の集団的自衛権の理解に対して、学者たちの理解、解釈も複雑化していきました。

国際法学者の高野雄一は、集団的自衛権それ自体が違憲というよりも、違憲なかたちで集団的自衛権が行使されないかを問題としました。具体的な事例で言えば、明らかに米軍だけに対する攻撃である場合、日本には個別的自衛権を行使する状況がない。しかしそこに明白な日本の法益の侵害があるとすれば、その観点から日本が集団的自衛権を根拠にした行動をとることに合法性が生まれる。このように高野は国際法学者として、仮に日本側に個別的自衛権の行使以上の意図がない場合でも、国際法から見れば集団的自衛権が違法性阻却事由になる場合があることを指摘しました。

国際法学者は、新安保条約は集団的自衛権の論理に一定程度は訴えることなくては運営できないという認識がありました。岸内閣関係者の国会答弁でも、集団的自衛権による整理が図られていないときにはそうすべきだという認識が、共有されていたといいます。ただし政府関係者は、日本は海外派兵を行わず、自国の防衛だけに専心するので、基本的に個別的自衛権の論理だけで説明できることがほとんどであろうとも説明しました。憲法学者であれば、制約された自衛権の制約のされ方に関心があるでしょう。政府の立場は、国際法学者と憲法学者の間で、どっちつかずのものだったといえます。

新安保条約は、条約体制の中に日本国憲法の審査が入ることを明文化し、憲法体制の調和を図る努力をしています。日本への攻撃がない場合の在日米軍の戦闘作戦行動を事前協議対象として、「巻き込まれ」を防ぐ措置としました。しかし結果として、集団的自衛権の理解等のいくつかの論点は曖昧模糊とした状態に戻ることになった。日本の自衛隊は個別的自衛権にのみ基づいて行動することになるでしょう。おそらくは「最低限の実力」組織である個別的自衛権行使者である自衛隊は、世界最強軍隊である米軍の主導の下に、共同作戦を遂行することになります。また日本への攻撃がない場合の米軍の行動に日本は協議の上で同意を与える可能性もあります。それが日本の国家体制の帰結だったと著者は言います。

さらに、「必要にして最低限の自衛権」を行使する「戦力でない軍隊」である自衛隊が、「必要にして最低限」の実力しか持っていないのは、世界最強の軍事組織である米軍のとの共同作戦行動が自明の前提になっているからです。つまり憲法九条の仕組みは、日米安保体制の裏づけがあって初めて運用可能になるものです。換言すれば、「必要にして最低限」個別的自衛権だけを行使しているので違憲の疑いがない自衛隊の活動は、集団的自衛権を行使して主導的に安全保障措置をとる米軍の活動と、「表」では切り離されているが、「裏」では密接不可分に結びついている。「必要にして最低限」の個別的自衛体合憲論は、日米安保条約の集団安全保障に依存して初めて成り立ち得るような理論でしかなかった。といいます。

 

第七節 高度経済成長と矛盾の受容

1960年以降、安保条約は改定されることなく継続します。冷戦時代のアメリカは共産主義勢力の押さえ込みに躍起になっていたので、日本を軍事戦略の不沈空母として活用しつつ、反共の砦として日本国内の共産主義勢力に付け入る隙を与えないことは利益に適うことでした。一方日本にとっては、新安保条約を基盤しながら所得倍増政策のような経済重視政策を推し進めるには好都合でした。高度経済成長の時代には、軽武装と日米安保の組合せが日本の外交政策の基本路線となっていきます。これに対する認知が国内に広がりました。

新安保条約は、憲法九条と結びついて、日本の国家体制を固定化していくことになりました。そして、安保体制下で高度経済成長を経験した多くの日本人は、矛盾の解消ではなく、矛盾の共存することを選び始めました。憲法九条と安保体制という「表」と「裏」の矛盾を抱え込んだ国家体制を、そのまま受け入れることを模索し始めたのです。このような経緯を経て、日本政府は、個別的自衛権だけが憲法九条が許しているものであり、日米安保条約も個別的自衛権にのみかかわっているという整理を確立していこうとしました。

安定期に入った戦後日本の国家体制の中で、憲法九条と安保体制の間の矛盾、例えば集団的自衛権の合憲性と言った問題について内閣法制局が説明する原則論で解決が図られていきます。つまり矛盾に満ちた現実から目をそらし、複雑な説明を施すことを回避するという方法こそが、最善の解決策であるように感じられ始めたわけです。憲法九条と日米安保の落ち着かない共存の中での高度経済成長時代の成功を感じていた当時の人々は、多大な労力を払って矛盾を説明したり、解消しようとしたりする努力を払う意欲も失っていったと考えられます。むしろ矛盾を抱え込みながら、淡々と生き続けていくことを欲していた。集団的自衛権違憲論は、そのような時代の雰囲気の中で生まれていくことになります。それには学者たちも同調していくことになりました。

2017年11月 5日 (日)

失敗することのむずかしさ

失敗をして、はじめて気がつくことがある。失敗しないと気がつかないことがある。だから、失敗をしないことが最大の失敗だと就職して間もない頃、先輩に教わったことがあった。ある映画評論家がマイケル・チミノの「天国の門」について失敗できるのは才能だと評したことがあった。駄作と失敗作は違う、と。以前に述べたことがあった。実際、それほど多くの作品を見ているわけではないが、「天国の門」ほどの明白な失敗とまではいかないまでも、失敗することができないのでは、と思わされることがある。それは、失敗すらできないというもので、見ても、失望も怒りも湧きおこさない、空白のようなもの。

今は、失敗ができにくい、あるいは失敗させてもらえないような環境なのかもしれない。それは、失敗の反対である成功にもならない、そのどちらにもいかない中途半端なところで落ち着いてしまう(減点を回避して無難ですます、とでもいうか)。

そういうものかと考えていたが、失敗ということが分からない。失敗しているにもかかわらず、自身でそれが分かっていない。それゆえ、失敗ということにならない。そういうこともあるのを、このごろ、目にする。

篠田英朗「集団的自衛権の思想史─憲法九条と日米安保」(8)

第三節 田中最高裁長官の「世界法の理論」

この最高裁判決には田中裁判長の長大な補足意見が附せられていました。当時の田中裁判長の行動は事前に中日米国大使と会談するなど裁判長としては問題のあるものだったようですが、それだけ政治的影響の大きく、アメリカ側の関心も高かったのです。

田中は、補足意見の中で自説を述べます。国家は、自国の防衛力の充実だけでなく、国連の集団安全保障や友好諸国との安全保障のための条約の締結などの手段を、自衛のためにとることができるか、「一国の自衛は国際社会における道義的義務でもある」。なぜなら「一国の危急存亡が必然的に他の諸国民のそれに直接に影響を及ぼす」からです。したがって防衛の義務は、「諸国民の間に存在する相互依存、連帯関係の基礎である自然的、世界的に道徳秩序すなわち国際協同体の理念から生ずる」のであり、それは「憲法前文の国際協調主義の精神」とも合致する。もし政府がこの精神に沿う措置を取るならば、それは政府が課せられた責任を全うするために行う「政治的な裁量行為の範囲に属する」行為である。日米安保条約が「憲法九条の平和主義的精神」と整合性を持つのは、それが「日本への侵略を誘発」する「力の空白状態」を防ぐためのものだからです。その結果、アメリカ合衆国軍隊が日本国内に駐留しても、違憲ではない。憲法九条によって、「わが国が平和と安全のための国際協同体に対する義務を当然免除されたものと誤解してはならない」。「我々は、憲法の平和主義を、単なる一国家だけの観点からでなく、それを超える立場すなわち世界法的次元に立って、民主的な平和愛好諸国の法的確信に合致するように解釈しなければならない」。

 

第四節 二つの法体系論

砂川事件において最高裁が検察の主張を全面的に受け入れる立場をとったことにより、保守と革新の分断が進められることになりました。

共産主義系の憲法学者長谷川正安は「二つの法体系」論を表明しました。彼は、日本には、「矛盾する二つの法体系の並存をゆるしている支配体制」があると言います。「その一つは、憲法を最高法規として、法律-命令とつづく憲法体系であり、他は、安保条約を最高法規として、行政協定-特別法とつづく安保体系である」。前者の憲法体系においては、「反戦・平和主義と反ファッショ・民主主義を基本原則としている」が、安保体系は、「日本におけるアメリカ軍だけの、目的・数・期間その他ほとんど無制限な軍事行動を承認し、その障害になる国民の民主的権利は、制限されるのが当然」視されている。長谷川はそう言います。「まだ完全独立国ではないが完全な被占領国でもない日本のような国家は、従属国と呼ぶのがもっとも適当であろう。憲法体系と安保体系という矛盾した二つの法体系の並存は、まさに、従属国に特有のあり方である」。

砂川事件における伊達判決と最高裁判決の間の相違は、長谷川によれば、「二つの法体系の矛盾の産物」ということになります。そこでは「二つの法体系の併存」は日本の主権回復時から始まっており、「その萌芽はすでに占領中、管理法体系と憲法体系の二重構造として存在していた」。つまり、「連合国占領軍に従属しながらも、日本政府が憲法にもとづいて統治を行うことを認めたことが、法体系の二重構造を生んだ」と言います。

しかし、このような二つの法体系の概念はマルクス主義系憲法学者を越えては広がりませんでした。また、このような二つの法体系が、社会の変化により消滅したのでもない。あったのは解釈論の変化であり左翼系の学説や言説の地盤沈下です。それは、間違っていたからでなく、政治的な闘争に勝てなかったからだと著者は言います。多くの日本人は矛盾になれてしまって、このたびの安保法制をめぐる議論等が起こったときには、あらためて新鮮な発見をしたかのように矛盾を感じる、ということなのかもしれません。

 

第五節 安保改定と集団的自衛権

1960年、日米安全保障条約が改定されます。当時、この改定を推進した自民党の政治家たちの間では、米国と共同して防衛行動をとることが、集団的自衛権の行使に当たるという認識がもたれていたといいます。同時に、単に他国を防衛することだけを目的にした行動は憲法が許していないという見解も確認されていました。他国を防衛するために海外で軍事行動をすることは合憲ではないという考え方が、単純に個別的自衛権だから合憲、集団的自衛権だから違憲という言い方では説明されていないことに注意が必要です。

この60年の改定安保条約は、より対称性を高めたものだと言われます。旧条約では、アメリカは基地を保有し続けながら、日本防衛の義務を負っていない点が問題視されていました。「物と人との交換」という論理をいっそう鮮明にして、アメリカ側から日本防衛に対する義務を引き出すことが、1960年の新日米安保条約の大きな狙いだったと言えます。結果として、新安保条約では5条に次のような文言が挿入されました。「各締約国は、日本国憲法の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する」。

これによってアメリカの軍事基地の維持は恒久的なものとなりましたが、それは旧条約においても状況は同じだったと考えられます。このようなアメリカの譲歩は、日本で、社会党や共産党による旧安保条約に対する批判にさらされた自民党政権を手助けする目的があった。日本側としては、旧安保条約はアメリカによる占領統治体制の継続を正当化するものに過ぎないという批判があり、新安保条約では、日本防衛の義務をアメリカに確約させるという日本側の利益をもって、対米従属という野党勢力の批判をかわすことが意図されていました。日本での共産主義勢力伸長の可能性を示唆しながら、アメリカの防衛関与だけを維持する冷戦時代特有の事情に依拠した日本の対米外交が結実したのが、この新安保条約だと著者はいいます。

集団的自衛権にもとづいてアメリカと日本は共同防衛するが、しかし日本は決して海外派兵はしない、という理解が、新日米安全保障条約で岸内閣が示した基本線でありました。

2017年11月 3日 (金)

東京の電車内の静けさとか異様に見えることがある

二十年以上前に、大阪からきた人から東京の地下鉄では人々がおしゃべりもしていないで、静かで不気味だ、ということを言われたことがあった。その時は、驚いたものだった。しかし、ここ数年、外国で地下鉄やバスを利用して、改めて帰国して、東京の通勤電車に乗ってみると、たしかに異様で不気味に見えた。人間らしさというのは個人の主観的な見方になってしまうが、電車の静寂は人間がいるような生々しさが稀薄に見えた。街角にゴミが目立たず清潔な感じが、衛生的ということは、人間以外のあらゆる生命を殺戮して排除することだ、ということを思い出した。人が生物として生きていくことから遠ざける環境に見えてきた。とはいっても、それから何日も経って、今は、それに再び慣れて、それが当たり前になっていて、外国の賑やかな環境が喧しいと感じる以前の状態に戻っているが。

篠田英朗「集団的自衛権の思想史─憲法九条と日米安保」(7)

第3章 日米安保は最低限の自衛なのか?─1960年安保改正と高度経済成長の成功体験

第一節 自衛隊の創設と「最低限の自衛力」の誕生

1950年8月、GHQの指示により、日本は警察予備隊を創設しました。アメリカの日本駐在部隊が朝鮮戦争に動員された力の空白を埋めるために急遽つくられた事実上の軍事組織でした。日本の主権回復後には保安隊に改組され、1954年には防衛庁が発足し、自衛隊と海上保安庁という今日に至る体制に改組されました。その間、規模の拡大を続けました。

1950年の旧日米安保条約の前文には、アメリカ合衆国は、日本国が「直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する」という文言がありましたが、1960年の新安保条約では消えてしまいました。日本の主権回復と同時に駐留米軍は規模を大幅に縮小し、その代わりに自衛隊が規模を拡張しました。それ以降、自衛隊と駐在米軍は、ほぼ定まった兵力バランスで、事実上一体の防衛力として存在しています。

自衛隊の創設は戦力不保持を定めた憲法九条二項に違反しているという批判を招きました。当時の吉田内閣は、自衛隊が憲法にいう戦力には該当しないという立場をとりました。「戦力とは、近代戦争遂行に役立つ程度の装備・編成を備えるもの」で自国の生存を守る自衛権を行使するためのものだとしました。それは国際紛争解決手段としての武力行使ではないとしました。そして、1954年6月の参議院で「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」を全会一致で可決しました。ただし、この決議では自衛権については触れていないので、自衛権と海外出動は別の次元の問題でありました。

1955年に鳩山首相は、「自衛のため必要最小限の防衛力」を持つことは憲法に反しないという見解を表明します。これ以降、憲法九条二項が保持を禁止する戦力は、吉田内閣の「近代戦争遂行能力」から「自衛のための必要最小限度を超える実力」に、変更され、政府統一見解として、現在に至るまで維持されています。この変更による差は大きなもので、自衛権の行使の問題としての憲法九条二項の戦力に最低限の範囲内という概念が導入されたことによって、そこで留保されていると解釈された自衛隊についても最低限の範囲内という概念が援用されるようになってしまったのです。当時、自衛権はあるが、戦力は持てないという武力なき自衛権論が広く信奉され、社会党も採用する憲法解釈となっていました。しかし鳩山内閣統一見解以来、「最低限」の概念が決定的な敷居となる新しい憲法解釈が公式化していくことになる。そしてほとんど誰も「最低限の自衛」や「最低限の戦力」が何なのかは明確に言えないため、九条をめぐる議論は「最低限」をめぐって隘路に陥っていくのです。

 

第二節 砂川事件最高裁判決

砂川事件とは、1957年7月に米軍立川基地(現在の国営昭和記念公園)拡張に反対するデモ隊の一部が、基地の立ち入り禁止の境界柵を壊して基地内に立ち入ったのを、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法」違反で起訴された事件です。

東京地裁は1959年3月「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、…日本国憲法第九条二項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである」として全員無罪の判決を下しました。検察側は、直ちに最高裁に跳躍上告し、12月に最高裁は原判決の破棄差し戻しを決定します。最高裁は、憲法九条二項が「保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解するべきである」と判断しました。

地裁判決(伊達判決)、米軍が日本の領土を超えて活動し得ることを定めた「極東条項」をもって日米安保条約は、日本の防衛だけを目的にしたものではなく、日本が戦争に巻き込まれる可能性を高め、憲法の精神に反すると論じました。これに対して、際高裁判決は、全く逆に、国際社会の国際の平和と安全の維持のための政策との連動性を強く意識したもので、少なくとも日米安全保障条約が「集団的安全保障取極」であり、それが合憲であることを認め、そしてあえて「個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができること」を確認したサンフランシスコ講和条約を参照することによって、戦後の日本が日米安保条約を不可欠のものとして存在していることを暗示しました。

2017年11月 2日 (木)

篠田英朗「集団的自衛権の思想史─憲法九条と日米安保」(6)

第四節 日米安保条約と集団的自衛権

当初から日米安保条約は、憲法九条との間で整合性があるのか、合憲なのかどうかが、議論の対象となりました。政府の対米追随路線に批判的な多くの日本人が、日米安保条約は自衛隊と並んで、違憲なのではないかと考えていました。違憲のポイントの一つは、憲法九条が戦力不保持を宣言しているにもかかわらず、米軍の駐留を認め続けることが憲法に合致しているか、ということでした。次のポイントとなるのは、日米安保条約は、日本がアメリカとともに戦争をすることを前提にしていないか、という疑念でした。この点の背後に、憲法九条と集団的自衛権の関係という原理的な問題が横たわっていることは、多くの識者が意識していました。当時は、集団的自衛権の行使が自動的に憲法違反に直結するかという観念はなかったものの、憲法との関係が非常に複雑になる領域の問題であることは認識されていました。

著者は、憲法学者を中心に様々な議論がたたかわされたことを紹介していますが、1950年代には、まだ自衛の戦争を憲法が許しているかどうかが、大きな論争点でありました。そのとき、「集団的自衛権」は、むしろ密かに自衛権の合憲性を作り出してしまう裏口のように扱われたといいます。日本が単独で積極的に行使する自衛権こそが憲法論の中心でした。

 

第五節 反共同盟としての日米安保体制

日米安保条約は、アメリカ側の視点から見ればも冷戦期のアメリカの反共戦略に、日本が基地提供という具体的な方法で協力することを定めた条約に他なりません。一方の日本側でも、共産主義の脅威を除去するためには米軍基地の存在は効果的で、必要不可欠なものでした。安保条約第1条は米軍を「一又はニ以上の外部の国による教唆又は干渉によって引き起こされた日本国における大規模の内乱及び騒擾を鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、…使用することができる」と定めていました。この内乱条項が物語るのは、冷戦期において日本の共産主義化を防ぐという点において、日米の政策担当者の利害が一致していたということです。日米安保条約に付随して締結された日米地位協定によって米軍施設に日本の行政機構は入ることができず、米軍管理空域を日本の航空機は飛行できず、日本の当局は米兵を処罰できないことになりました。それこそが戦後の日本の国体の一部であり、それは、共産主義に対抗するという関心を日米の政策担当者が共有していたからです。

石川健治によれば、憲法九条は同盟政策の否定によって成り立っているため、日米安保条約は、実質的に日米同盟と化してきたこともあって、そもそも違憲の疑いが濃厚なものだったといいます、しかし、内閣法制局の狡知としての集団的自衛権違憲論が、二国間の安全保障条約としての建前を維持し、日米安保条約そのものが違憲となるのを防いでいた、といいます。

その議論のベースとなったのは相川武夫の議論です。かれによれば、自衛でないものを自衛と呼ぶために、国連憲章に則った集団的自衛権が、国内では憲法に合致した個別的自衛権だと説明されのは、実際には軍事同盟にすぎない日米安保条約を、あたかも軍事同盟ではないかのように矯正したいからだ、ということです。日米安保条約は軍事的占領条約であり、アメリカの対ソ戦略に基づく日本の前進基地としての規定から必然的だといいます。

 

第六節 憲法学における「九月革命」の不在

著者は、日本の国家体制には、憲法九条と安保体制という二つの大きなはしらがあり、両者の関係が体系的に整理された形で正面から議論されないことが特徴的だといいます。双方の相手側を無視したいという欲求があるといいます。

本来であれば、日本国憲法においても、主権を回復したした瞬間、つまりサンフランシスコ講和条約は、その憲法の存在に大きな影響を与える事件であったはずです。しかし、憲法学においては、憲法成立後に起こったいくつかの政治的事件のひとつぐらいにしか扱われず、それが否定された時には日本の主権回復という事実自体が白紙に戻ってしまうということは考えられていないのです。憲法学にとってポツダム宣言受諾は八月革命説という名の通り革命でしたが、サンフランシスコ講和条約による主権回復はそれほどでもないのです。九月革命にはならないのです。

対外的な主権が回復したサンフランシスコ講和条約と日米安保条約で語られた「個別又は集団的自衛の固有の権利」や「集団的安全保障取極」を憲法枠外の出来事として無視した上で、ただひたすら憲法学における自衛権の概念なるものを主張し続けたことに妥当性はあるのか、著者は疑問を呈します。

2017年11月 1日 (水)

篠田英朗「集団的自衛権の思想史─憲法九条と日米安保」(5)

第2章 憲法九条は絶対平和主義なのか?─1951年単独講和と集団的自衛権の模索

第一節 憲法九条は絶対平和主義と言えるか

日本国憲法の平和主義の理念は、九条によって表現されていると言います。伝統的な理解では、戦争放棄と戦力不保持を謳う憲法九条は、絶対平和主義を表現している。だからこそ日本は日米安全保障体制や自衛隊の存在は、九条に対する挑戦だとする主張が出てくる。はたして、これは正しいのでしょうか。

日本国憲法の前文は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と謳っています。この「平和を愛する諸国民」というのは、国連憲章が加盟国を指して用いていた概念です。したがって、憲法の前文は、連合国=国連を信頼して日本の安全と生存を保持する、ということを宣言していることになります。それはつまり、国連が定める武力行使禁止一般原則および集団安全保障や個別的・集団的自衛権の仕組みを信頼して、自分たちの安全と生存を維持する、ということを意味します。当時(1950年ごろ)の時代背景を考えてみれば、このような、国連に集う「平和を愛する諸国民」の集団安全保障体制を信頼して、自らの安全を図っていくという宣言は、時代に応じたもので、それほど違和感のないものだったと思われます。もし集団安全保障体制が機能しているのであれば、第二次世界大戦後に武装解除された日本が、あえて新たに軍隊を持つ必要はない。真に国連に集う諸国を信頼するのであれば、むしろ集団安全保障の時代に入ったことを決定づけるように率先して戦争放棄と戦力不保持を宣言することは望ましい。このような考え方が憲法九条の背景に存在していた。それは政権にもありました。

そもそも、当時の国連憲章で想定されていた敵国は、第二次世界大戦の枢軸国です。したがって、国連憲章の論理に従えば、日本国憲法九条とは要するに日本の武装解除を定めたものに過ぎないということになります。

しかし、国連の集団安全保障体制は現実には機能しなかったわれで、それは憲法九条にとっては、はなはだ都合の悪いことになりました。日本国憲法は、国際秩序への信頼を存立基盤としていたのが、冷戦勃発の現実によって裏切られてしまった。

その現実に対応したのが、国連憲章を中心にした国際法が定める安全保障体制が安全保障理事会にすべてを委ねる集団安全保障体制だけでなく、国連憲章起草の段階から、集団安全保障体制が円滑に機能しない場合を想定して、憲章51条の個別的・集団的自衛権の規定でした。もし集団安全体制が機能しない場合には、国連憲章の仕組みに従って、憲章51条に依拠していくのに応じていくことになっいったと言えます。

 

第二節 集団的自衛権と憲法九条

国連憲章51条は、集団安全保障の機能不全の場合に保管措置として、自衛権を行使することを容認する条項です。そのため、個別的自衛権だけではなく集団的自衛権も認めています。それは、「平和愛好国」である国連加盟国が、「国威の平和及び安全を維持するために力を合わせ」、集団的に行動することを容認するのでなければ、自衛できないからです。

この国連憲章を受けて、サンフランシスコ講和条約に「連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第51条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する」という文言が挿入されました。さらに、日米安全保障条約の前文において、日米「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の個別の権利を有していることを確認」したとされています。この国連憲章、サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約の三つは、集団的自衛権を根拠にした集団的安全保障取極として、具体化されたものと考えられます。

日本国憲法は、国連の集団安全保障を信頼する安全保障政策とともに作られたものですが、それが非現実的となっても、国連憲章51条に基づいて個別的・集団的自衛権という代替措置によって補完する政策的余地を残していたと著者は言います。当時の現実からいえば、欧州のNATOのような地域機構に属さない日本は、駐留米軍との関係、つまり、日米安全保障条約がそれに当たった。アメリカ軍は、沖縄を要塞化すれば、「日本の本土に軍隊を維持することなく、外部の侵略に対し日本の安全を確保することができる」という見解だったといいます。

当時の日本の国会において、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の審議で、野党であった社会党も国連憲章51条の集団的自衛権と地域安全保障制度を憲法の許す範囲において是認すると宣言しています。なお、この審議においては、日米安全保障条約が集団的自衛の条約であり、集団安全保障の措置であることは自明視されていました。

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