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2017年11月26日 (日)

最近の大相撲の暴力騒ぎの空疎さ

相撲の力士が競う場である土俵は、字のとおり米を収穫した俵を敷き詰めたもの。田んぼに高く土をも盛り上げて俵で固めたもの。また、力士が登場する花道は、田んぼの畔をとおって力士が登場するところに花を飾ったのが始まりときく(芝居の花道も同じ語源で、芝居というのも畑の芝の草原に座って見たものだから芝居)。この土俵の真ん中の地中には神様が埋められている。それは、相撲というのが豊作の感謝と祈りを神に奉納するもの。その意味で相撲に何事かあれば、ファンよりも神様をまず第一に考えるのが本分のはずで、それによって飢饉になったり不作になってしまうことを、第一に心配すべきが相撲の本分であるはずと思う。

一方、力士というのは異形、荒ぶるもので、それだからこそ神に対して力を奉納できる。賤であることが聖になるもので、その荒ぶる存在である力士に品格などというものを求めるのは、何か変ではないかと思う。国技などということになってしまって、見かけ上の体裁をとりつくっていて筋が通っていないとも思う。(もともと、相撲が国技であることに制度的な根拠はないと言われていて、明治時代につくった常設の場所を国技館と名づけたのが根拠だと言われている)

だから、最近の暴行騒ぎ(現時点では疑いというだけで事実として何も確かめられていないので、それに無責任なコメントを公表すること自体はフェイクニュースと、どこが違うのか)については、相撲ということが何であるかというのが曖昧なゆえに、空騒ぎしているように見える。

芸能人や政治家のスキャンダル暴露競争にみんなが加担して、道徳家めいたもっともらしいコメントを加えて形式的な品行方正を求めて、留飲を下げるバッシングと同じような気がする。

ちなみに、大相撲はスポーツではないのは明白だと思う。スポーツで必要なフェアプレーに反する制度がいくつもあるからだ。

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