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2017年11月 9日 (木)

篠田英朗「集団的自衛権の思想史─憲法九条と日米安保」(12)

第5章 冷戦終焉は何を変えたのか?─1991年湾岸戦争のトラウマと同盟の再定義

第一節 冷戦終焉と日米同盟の行方

1985年にプラザ合意が結ばれ、冷静体制において輸出主導の無経済発展を遂げる「自由主義陣営の工場」としての日本モデルは終焉を迎えます。これにかわる新しい時代の経済政策として、円高を背景にしたバブル景気が引き起こされた後、本格的な冷戦の終焉後の世界の始まりとともに、1990年代に入るとバブルかはじけます。

アメリカの態度は、冷戦時代の自由主義陣営の工場として日本を反共の砦として擁護することら大きく変化します。経済面では日本は競争相手となりました。日本政府の従来の外交政策は冷戦という特異な時代の条件において馬出されたもので、将来にわたり維持できるものではないという認識が徐々に広まり、外交に関心を持つ人々の間で集団的自衛権違憲論を主張する内閣法制局への不信感が募られていきました。

1991年の湾岸戦争には日本は参加ませんでしたが、集団的自衛権ではない形として多額の資金援助を行いました。しかし、それは関係国に感謝されない結果に終わり、日本の政策決定者たちは大きなショックを受けます。いわゆる湾岸戦争のトラウマです。従来の軽武装が冷戦時代の古い考え方であったのが明白に示された形になりました。この湾岸戦争の後、国際貢献の必要性をめぐる議論が活発化します。1992年いわゆるPKO協力法が成立します。

このPKO協力法は、PKO以外の活動についても規定しており、日本から見て国際的な平和・人道支援活動と言えるものに関する諸規定を一つの法律に盛り込んだものです。それは、国際貢献をしなければならないという政治的要請に対応するために法律ができたため、すでに存在している国際的な諸活動の体系に合わせて法体系を整備することができなかったのでした。貢献する日本中心の視点で作られた法律なので、貢献の窓口となる国際社会の仕組みにあわせた法律ではないのでした。しかもこの日本政府の視点の中心にはアメリカとの同盟関係の維持がありました。

1996年にいわゆる日米新ガイドラインが定められ、2001年9月11日以降、アメリカが対テロ戦争に乗り出していくと、日本は同盟国として最大限の貢献を果たすようになっていきます。政権はいわゆる特措法という時限立法でアメリカ軍などへの後方支援活動に自衛隊が海外にかり出されていく、それに伴い、PKOには手が回らなくなっていくというおかしな事態となって行きます。その結果として、湾岸戦争のときのように、日本が批判を受けることはなくなりました。

つまり、PKO協力法を通した国連PKOへの貢献は、直接的な軍事支援ではない国際支援活動を通じた様々な貢献、という位置づけの中で見いだされたひとつの活動でしかなかったのです。国連PKOそれ自体の重要度に着目して行うというよりは、日米同盟体制を枠組みとした国家体制の中で、日本に可能なもろもろの周辺的な国際貢献活動を行っているにすぎない。活動の優先順位が日米同盟体制の維持の観点から序列づけられていることに変わりはなかったと言えます。

日米安保条約は、冷戦時代の国際情勢を前提にして、反共同盟の構築として設定されたものです。冷戦が終焉し、共産主義運動の脅威が過去のものとなった時代に、性格の変容を迫られることは必至でした。情勢が変わってもなお日米同盟体制を維持するのであれば、新しい性格の規定、および追加的な補強活動が為されなければなりませんでした。それをアメリカ側から迫ったのが、ジャパン・ハンドラーズと呼ばれる親日派、たとえばアーミテージと言った人々です。そこには集団的自衛権行使の容認が含まれていました。

このあと、安倍政権の誕生により安保法制懇がつくられ、第二次安倍政権での安保法制の成立へと進んでいきました。

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