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2017年11月13日 (月)

生誕140年 吉田博展 山と水の風景(3)

第2章 外遊の時代:1900~1906

Yoshidafog 1899年、吉田は友人と二人でアメリカにわたり、そこで立志伝のような波乱万丈のエピソードで当地の売れっ子画家となり、ヨーロッパを回って帰国します。そのエピソードには私興味がないので、作品を見ていきますが、外遊した影響が、ほとんど見られないことに、却って感心してしまいました。当時の欧米の流行の最先端の技法や絵画潮流を吸収して、日本に持ち帰るといった画壇の権威たちの傾向がまったくと言っていいほど、ありません。そんな権威付けをしなくても、日本の湿潤な空気と、例えば南欧のカラッと乾いた空気に明るい陽光の下で、風景が透明でくっきりと映るのを描くという絵画を学んで、それを日本に持ち込もうとして、空気や光の違いに愕然として、描き方に悩むというパターンも吉田には全く見られないのです。外遊前と後で、吉田の作品を見比べてみても変化が跡が見分けられません。もともと、吉田は外遊しても学ぼうと言う気がなかったのかと思ってしまうほどです。

Yoshidawinnter おさらく想像するに、吉田の絵画にたいする基本姿勢というのは、前のコーナーで即物的と述べましたが、その根底には大和絵とん浮世絵の風景画のスタンスがしっかり定着していたのではないかと思うのです。いうなれば、吉田の絵画はスピリットは浮世絵のような日本の絵画で、その上に洋画のスケッチとか水彩画の技法を使っているというように感じらるのです。例えば、線で事物の輪郭を明確に画するという一貫した姿勢は、現実に線は存在しないという西洋のリアリズムとは別のものと考えてもよいのではないでしょうか。そのリアリズムでは、事物をみるというのは、光が事物に当たって、それを人間の網膜が捉えて、その情報を脳が処理して視覚となって認識されるのを、絵画の画面に再現しようとするものです。だから、光がとこから当たって、事物にどう反射して影ができることをとても注意します。従って、リアリズムのスピリットを持っていれば、光の質もそして光が通る空気ということを尊重せざるを得ないのです。しかし、吉田の作品を見ていると、例えば物体の影のつけ方はおざなりであることがよくあります。それは、事物が形があるということが了解されているからです。光があろうがなかろうが、あっても光がどう当たろうが、そこに事物の形があるのは当たり前で、その当たり前を描くのが絵画なのです。そこに事物があることは変わりはないのです。そこに光が当たるとか空気がどうとかは人の見方の問題であって、それは絵画の技巧の違いと同じようなものだ。それが吉田の即物性といえると思います。かなり極端な言い方をしましたが、そういう姿勢があったからこそ、吉田は外遊しても本質的なところで影響されて、その結果迷ってしまうということがなかったのではないかと想像します。それは、彼の作品を見ていて感じたことです。

Yoshidaroad 「街道風景」という作品をみていて、前のコーナーの「冬木立」と描法に変化を感じられるでしょうか。少し右によっていますが、シンメトリーに近い一点透視の遠近法は相変わらずです。しかも、横広の画面を締めるために、真ん中左手に火の見櫓の梯子を挿入して縦の線を描いているのは「浅間山」で行っていることと同じです。しかも、この街道風景は、どこかで見たような絵葉書のようなよくある風景です。ここには、画家の独自な視点でオリジナリティを出そうという姿勢が全く見られないと言っても過言ではないと思います。そこには、浮世絵などの日本の絵画にある姿勢が、吉田にあることのひとつの証拠ではないかと思います。画家の個性とかオリジナリティは西洋の近代絵画では、作品の価値の源泉のようなものになっていますが、吉田の作品を見ていると、その点では凡庸とか陳腐であることを全く気にしていないところがあると思います。吉田にとって重要なのは形を意味あるものとして、きっちり描き切ることだったのではないかと思うのです。ここで何度も述べていますが、吉田という画家の偏っているということと関連していることだと思います。それが結果として、吉田の画家の個性になっていて、こんな作品を描いてしまうのは吉田以外にはないだろうという強烈さになっていると思います。

Yoshidamorning 「朝」という作品ですが、タイトルはそうなっていますが、これが朝の光線か、と疑問です。朝霧にけぶるという湿った空気感もなく、ただ輪郭がボケているだけで、雰囲気の表わし方は下手です。これは、水彩絵の具の効果を生かしきれていないし、何よりも塗りがぞんざいなのです。しかし、そのようなことを抜きにして民家の形や樹木の枝の形はきっちりしているのです。

「霧の農家」は「朝」に比べると、まだちゃんと塗っているようです。しかし、この二つの作品を画像でみると、こんなことを書いていても、そのまま受け取れないのではないかと思います。実物を見れば一目瞭然ですが、このように画像のようにコピーしてみたものでは、塗りの粗が見えてきません。おそらく、それが、吉田をして版画に向かわせた原因のひとつがあるのではないかと思います。ここでは先走りしたようです。

Yoshidavenis 「ヴェニスの運河」という油絵作品です。まるで「街道風景」の構成をそのままヴェニスの運河の風景に当てはめて描いたみたいです。吉田には、海外の画面をひとつの世界とか秩序のようなものとして画家がデザインして構成するという意識がほとんどなかったことを証拠づけるような作品です。しかも、油彩の特色という価値が全く分かっていなくて、その効果を生かしていない。単に色を塗っているだけにしか見えません。遠近法で画面が作られていても立体的な空間を感じさせないのです。おそらく、吉田にはヴェニスでなければならない必然性はなくて、日本橋の河岸であっても同じように描くのではないかと思います。それが吉田という画家の個性ではないかと思います。それは、もしかしたら、黒田清輝などに代表される洋画を輸入した画壇の権威たちよりは、むしろ当時の求めていた“和魂洋才”という姿勢をもっとも忠実に体現していたのではないか考えてもよいのではないかと思います。だいたい、吉田の作品をみていて、洋画であるとは、私には思えないのです。そんなことは、どうでもいいのです。それは、吉田の作品を見ていて思ってしまうのです。

Yoshidamiyazima このコーナーで印象に残った作品が「宮島」という橋を描いた作品です。水彩画ですが、この作品を見て、日本画と言っても変だとは思われないでしょう。安藤広重の「日本橋」のような橋を正面から見て、広重の横広の画面に対して、この人特有の縦の構図で視野を絞って、橋の向こう側の景色を隠してしまい、遠景の山の稜線をシルエットにして遥かな感じがとても良く出ている。これを見ていると、橋の見えない向こう側が何か、この世でない異界かもしれないと勝手に想像してしまう独特のものがあります。対照的に手前に揃えて並べられた履物がくたびれているのがリアルに描かれているのです。

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