倉田剛「現代存在論講義Ⅰ-ファンダメンタルズ」
観念や対象から、その対象に隠されてきた言語に目を転じたのが言語論的展開。その動きでは、従来からの存在論を否定したという。しかし、最新の科学、技術的な要請もあって言語論的展開後の分析の対象として再び考えるべきこととしている。例えば、最近注目の自動運転を考えれば、「何が対象として存在するか?」が基本的な課題となっているだろう。したがって、この新しい存在論とは「何が存在するか」を基本的な問いとする。それは、20世紀初頭にハイデガーが提起した存在論的差異という概念で、存在と存在者を峻別し、存在、即ち存在するとはどういうことか、を問いかけた。これに対して、新しい存在論、つまり、この著作は峻別した別の側、つまり存在者の方を追究しようとする。
「存在論とは、実在の構造を体系的に表象することを目的とする人工物である。実在の構造は、主にカテゴリーの階層およびカテゴリー間の関係を記述するという仕方で表象される。」と説明する。言ってみれば、存在ということを言葉で説明する際に、その言葉の意味や記述の構造をしようということだ。
例えば、「雪は白い」という場合、この文が真であるということは、この文と文の指していることが一致するということ。で、この文について、人は、この「雪」はある特定の雪を見ている。しかし、この雪だけに限らない全ての雪を指すだろう。この時、「雪」とはすべての雪をさす。そうでないと文は真とならない。このとき、人によっては普遍的な「雪」なるものが存在すると考える。または、この雪、あの雪とさしていってすべてを検証するか。「雪」ならまだしも、「白い」についてはどうするか。「白い」は存在するのか。まるで中世哲学の普遍論争ではないか。そう考えると、かなり些末と思われる細かすぎるほどの議論をしているが、スコラ哲学を現代でやっていると思えてきた。
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