「新しい」ということを考えてみた
「新しい」ということに価値があるということは新しいことだ。近代以降の科学での新発見、資本主義経済での新製品、大衆消費社会での新しい流行といったものが典型的かもしれない。しかし、中世のキリスト教の神という絶対的価値は永遠のもの。つまり、時間を超越しているわけだから新しいも古いもない。真実は過去も現在も将来も正しい。それに対して、新しいというのは、ある時点から新しい。その前の時点では、それがなかったから新しいということになる。さらに、新しいは、より新しいが現れた場合には新しさは消失してしまう。永遠ではなく、ある時点の相対的な期間に限定される。
価値というものさしでみると、「新しい」の反対は「古い」ではない。古いは新しいに対しても古いが、新しいが出現していない時点ですでに古い。だから、新しいは古いの中に含まれてしまう。同等ではないのだ。むしろ、古いは永遠に近い。
しかし、科学は新発見があったからこそ発展する芽を持てた。永遠というのは、ずっと変わらないということで、変わらないということは、進歩がないということも含む。
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