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2017年11月12日 (日)

生誕140年 吉田博展 山と水の風景(2)

第1章 不同舎の時代:1894~1899

Yoshidawinnter_2 吉田の修業時代ということになるでしょうか、不同舎という画塾に入門して、鉛筆によるスケッチに没頭していたといいます。この塾の主催者である小山正太郎という人の方針が「タンダ一本の線」というのだそうで、3本も4本も無駄な線をひくのではなくて、断然と決心して1本の線を引けという趣旨らしいのですが、何本も線を引いて撚るようにして線をつくったりとか、細かい線をひいて線を際立たせないようにして面として表われるようにするといったやり方であれば、最終的には輪郭線が消えて、物体の面とか立体が表われるといった西洋の素描とは少し違うようです。決然と1本の線を引くということは、その線が主張するものであるはずで、最終的には描かる物体には輪郭線など存在していないのだから描かれたものでも消える、というものではないことになります。その輪郭線が消えるのに代わって色彩とか光と影のグラデーションで、面や立体としての物体を表わすことになるわけです。しかし、ここで彼がやっているのは、線で輪郭を明確に描くということで、展示されているさくひんにも、それがよく表われていました。外形の輪郭が明確に捉えられていました。しかも、その捉えられた形は、正確なのだろうし、それ以上に見ていて意味があるといのが分かるものでした。

Yoshidaasama2 また、不同舎の方針というのが、もうひとつ「不同舎風道路山水」と言われていたそうで、一点透視の遠近法を基本として、中央に道、川、水路などを手前から奥へと伸ばし、周囲の風景とともに添景とともに人物などを配したとしいう構図です。例えば「冬木立」という作品は、まさにその典型です。真ん中を道が手前から奥に伸びた、シンメトリーに遠近法の画面構成です。おそらく習作のような作品なので、構図に凝るとか、独自の視野といったことは想定していないのでしょうし、この構図は安定していて、描きやすい、格好がつきやすいので、まずは描くということなのでしょう。しかし、後年のアングルの陳腐さというのは、この時点ですでに胚胎していたかもしれないと、結果論的な見方でしょうが、見えてしまうのです。しかも、言わせて貰えば、折角水彩画で彩色しているのに、冬の空気感とか、乾いた光線とかいったことには全く無頓着なようなのが分かります。おそらく、吉田にとっては明確な形になっていないものには興味がなかったのかもしれません。しかも、道の土や両側の草の塗り方が雑といのかぞんざいで、その質感といったことが伝わってこないのです。それは、小さな画像では、分かり難いかもしれません。逆に、この画像では、木立の枝のしげる形とか、後方の民家の形がしっかり分かるので、とても見易い印象を持たれるのかも知れません。これらから、ひとつの想像をしてしまうのは早計かもしれませんが、吉田という人は、目に見える、明確な形以外のものは描く対象から、あえて外したのかもしれない、それを、すでにこの時点で自覚していたのかもしれないと、作品をみていて思いました。

Yoshidaasama 「浅間山」という水彩画を見てみましょう。この作品の遠景に薄く描かれている浅間山がちゃんとした地形の浅間山として分かるというのは、このころから、地形としての山の形の意味を吉田という画家は分かっていたのだろうと思います。参考として、比較のために梅原龍三郎と小山敬三の浅間山を描いた作品と並べて見ると、彼等が浅間山を描いた作品には定評があるとのことですが、吉田の描く浅間山に比べると地形としての形はいい加減としか言いようがありません。この二人の場合には、地形などより火山のエネルギーとか画家の思い入れとかいった実体の形として表われないものを絵にしようとして、その素材として浅間山をつかっているので、絵としての評価と浅間山であることの必然性とは別に見ていかなければならないと思いますから、吉田の作品と比べて、どっちがどっちとう良し悪しをいうつもりはありません。比較はこのくらいにして吉田の作品に戻りましょう。この作品で目につくというのか、視線が集まってしまうのが、画面真ん中左に直立している1本の樹木です。吉田の風景画で横長の画面の作品では、よく、このような縦の線を印象的に挿入して、アクセントにしていYoshidaasama3 るケースがあります。結果時に、見る者の視線をこの縦の線に集めることになっていて、作品全体に締まりを与える効果があったと思います。吉田の作品を見ていると、この画家の視野はカメラで言えば、望遠レンズで見ているようなところがあって、この作品のような横にひろがっていくような画面であれば広角レンズのような広がりがあったほうが似つかわしいのでしょうが、この作品をみていても、そのような空間の把握をしていないようです。そこで、1本の樹木を挿入して視線を集めることで、望遠レンズの求心的な視線の方向性に導いていると思います。おそらく、吉田は無意識に、そこにある風景をそのまま写生しているのでしょう。しかし、この画面をもし、この樹木がない場合を想像してみれば、おそらく、焦点のない、茫洋とした締まりのない画面になっていたのではないかと思います。このように、吉田という画家は、視野においても、かなり偏ったところがある人だったのではないかと思います。これは、必ずしも悪い意味ではありません。

Yoshidacloud 「雲叡深秋」という作品です。このコーナーでは唯一の油彩画で、当時の展覧会に出品された作品ということで、1989年という制作年代から考えれば、吉田にとって不同舎時代の集大成的な意味をもった作品だったのではないかと思います。この時期の水彩画の場合とは違って、拙いながら塗りも丁寧さがありました。縦長の画面で渓谷の深さを当てはめて、視野を狭くすぼめて、画面真ん中に焦点を絞るようにして、その焦点には渓谷のはるか源流の山肌を遠景で示して、奥深さをだしている。まさに望遠レンズに格好のアングルです。しかも、画面の両側に覆いかぶさるように屹立する岩は、細かいところに至るまで、きっちり形を描き込んである。ちょっと参考の意味で比較していただきたいのが、19世紀イギリスの風景画家ジョン・ブレッドの「ローゼンラウィ氷河」という作品です。画面構成がとても良く似ている作品です。吉田は、この作品を見たとは思えませんが、ある種のパターンなのではないかと思います。しかし、ブレッドの作品は、この風景をこの世のものも思えない超絶的な景観として作為的な描き方がなされています。例えば、大小の釣り合いが極端に拡張され、個々の要素が切り離されているような感覚をおぼえさせられます。遠近法のよる立体表現においても、あえて消失点さえ定めずに画面を構成しています。左側の巨大な絶壁も作品を縁取る仕掛けというより、単に視界を遮るにすぎないようです。崖の頂に立つ針葉樹も、ありえないほど小さく見える。前景の一番大きい堆石にのしかかる氷河は、空間の広がりを遮り、視界を不安定にします。しかし、形だけを見れば手前の中央右に盛り上がる氷河の雪のピラミッドの形は、遠景にかすむドッセンホルンの山頂と呼応しあっているように似ています。また、左側の崖も画面の縁で欠けてしまっていますが、その形はピラミッド形の右半分のような形で、画面全体にピラミッドの三角形が前景、中景色、遠景にそれぞれ配置されていて、関連づけられています。それZenpabrettglacier により三角形が、はるか遠くから手前に向かってせり出してくるような動きを与えます。それが見る者にとっては迫力を感じさせることになります。しかし、その一方で、中央の手前には花崗岩や砂岩の石が、その向こうには片麻岩の彎曲した様子が、地質学上もそれとわかるほど精巧に描写されていて、手に取ることができると錯覚してしまうほどです。それが見る者にとっては画面の枠を超えて、自分が氷河のすぐ前にいるかのようなリアリティを与えています。だから、氷河が迫ってくる迫力が迫真のものとして感じられるわけです。これは、当時のロマン派の思潮における山岳の美の特徴的な性格としての“崇高さ”ということ、その崇高さというのは人が畏怖を感じるものですから、この作品の迫力は、その畏怖、崇高さに繋がるものとなっていると言えます。しかも、ブレットは崖の上に立っている小さな針葉樹、たぶんモミの木でしょうか、そこにキリスト教の救済の意味を負わせている。それらの木は、この世の終わりのような荒涼とした景観の中で、永続性を象徴させています。これに対して吉田の作品には、ブレッドのような作為がほとんど感じられません。画面をまとめているのは分かるのですが、“崇高さ”という雰囲気とか理念のようなことを風景に託して表そうという気がない。そこが、吉田の作品に一貫して流れている特徴で、この人の表現というのは、徹頭徹尾即物的なのです。それは、吉田の潔さと受け取るか、想像力の欠如と受け取るかは、見る側の好みによることになると思います。

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