篠田英朗「集団的自衛権の思想史─憲法九条と日米安保」(13)
終章 日本の立憲主義と国際協調主義
このような経緯を踏まえて著者は主張します。
日本国憲法には、政府が国民の福利を守るために行動する義務を負っているという原理の基に作られ、決して日本という国家自体に自身の存立を守る権利があるとはうたっていません。しかし、終戦直後の八月革命説で国民が革命を起こして憲法制定連力を握ったという物語が捏造され、日本国憲法は国民=国家が自らの意思に従って自らを守ることを正当化する装置となりました。その結果、国際協調主義の理念は軽視されていきました。
一方、実態としての日本国家体制、安全保障体制は日米安全保障条約によってつくられたもので、憲法体制と安保体制が「表」と「裏」の側でそれぞれを意識し、無視しあう関係を形成しました。
そのなかで最低限の自衛権の概念によって自衛隊が擁護され、日米安保体制が擁護され、最低限が合憲という発想が広範に浸透していきました。単に個別的自衛権が合憲で、集団的自衛権が違憲という線引きが便宜的になされることにつながっていきました。
他方で、日米安保体制に依存して、軽武装ですませることで高度経済成長を達成することができたという繁栄の神話が日本人の思考回路を支配しました。すでに半世紀前の経済成長は再現することはできないし、当時の冷戦という世界情勢はなくなっています。このような事態は安保法制の議論にも影響していると著者はいいます。立憲主義とは権力に制限を課することという通俗的な議論に対して、そもそもは社会の構成原理は簡単に変更してはならないという根本規範であるという信念のことだといいます。権力だけでなく一般国民をも服する原理なのです。その根本規範はは憲法が定める根本的な社会構成原理、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を擁護することなのです。たから政府は国民の信託を受けて、そのために最大限の努力をする義務を負っているのです。
したがって、今回の安保法制もそうだったし、これまでもそうだったが、日本という国家の存立自体が、あたかも重要原理であるかのような錯覚がまかり通って、主権者である国民が権力者を制限していく物語を夢想するだけでは、日本国憲法が規定する社会構成原理が溶解していくことになると著者は警鐘を鳴らします。
まずは、ここから議論をスタートさせてはどうかと著者は提案しているようです。
残念ながら、では、具体的にどうするのかには著者は言及していません。
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