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2017年11月 6日 (月)

宇野常寛「母性のディストピア」

宇野常寛「母性のディストピア」を読みました。

第二次世界大戦で日本を占領した連合軍司令長官マッカーサーは、日本のことを12歳の子供と評した。その日本の戦後の復興はアメリカという大国(大人)の庇護の下で経済を成長させた。その結果、日本は12歳の子供のまま経済大国として身体のみを肥大化させた。著者は、その象徴的な表われとして手塚治虫の「鉄腕アトム」を捉える。アトムは天馬博士の亡くなった息子の代替として作られたが、成長しないため捨てられてしまう。しかし、アトムは子供の姿にもかかわらず10万馬力という強大なパワーを秘めていた。当のアトムは人間になりきれない中途半端な自己の存在に悩む。

しかし、もはや日本は経済大国ではなく、アメリカも日本をスポイルする力も意欲のなくなって、12歳の子供はいったいどうするのか。そこで背伸びをするか子供のまま小さくしているかの二極で意見を対立させている。そのプロセスを反映している表現として、手塚治虫を継承した宮崎駿、富野由悠季、押井守といったアニメ作家を追いかける。彼らの作品に見られるのは、少年が自立して大人になる際の親離れということ、とりわけ日本的な親子関係の特色として男の子と母親との関係、つまりマザコンからの脱却ということだ。しかも、この三人の作家はそれぞれに試みるがすべて失敗に終わる。それは彼らの作品に明白に表われてしまっている。このままでは、日本は12歳の子供のまま壊死してしまうと警鐘を鳴らす。

この本の大半は宮崎駿、富野由悠季、押井守の三人の作品分析で、マザコンを切り口にして分析していくのは面白かった。例えば富野由悠季であれば「伝説巨神イデオン」のように最後にすべての登場人物が一瞬で全滅してしまう救いのない終わり方をするし、「機動戦士ガンダム」ではアムロとシャーという中心キャラクターが望みを絶たれたまま犬死してしまうというペシミスティックなものがたりをつくりつづけた。そこに未来を自力で切り拓くという要素は見られない。宮崎駿の作品に出てくる男たちは一様に女性に依存していて、一人で立っていられない。それらは納得できるところはある。

とはいえ、そこまで執拗に分析して著作にまとめたのはいいが、だからどうしたなのだ。サブカルに日本という国が反映しているとして論じているのはいいとして、それなら、そういう分析をするスタンスが傍観者になっている。そこに何の意味があるのか、なぜ、ここで当事者として私は、こうしたいんだという所で見ることをしないのか。単に、アニメ作家とその作品だけの分析に終始するだけなら、それなりにまとまった著作として終われたと思った。余計なこと言わなきゃいいのに。

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