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2017年11月16日 (木)

シンゴジラを見た

シンゴジラをテレビで見た。怪獣映画としてのカタルシスのない怪獣映画というのが第一印象。印象的だったのが、映画の後半、最終形態になったゴジラが神奈川沖の海から上陸して、都心に向かって歩行するシーン。団地のような規則的に建物がずっと並んでひろがっているゴジラをはるか上空から見ていて、ゴジラが豆粒のように小さい。そこには、怖ろしい破壊者とか、畏怖すべき荒ぶるものといったものではないゴジラの姿が映っていた。怪獣らしくなかった。

Img_2_m 全編の中で、ゴジラが暴れるシーンは少ないし、このゴジラは自発的に破壊をしない。というより、自発的な行動をしない。だから、そこにいる理由がない。それで、似ているとおもったのが、ウルトラマンに出てきたガバドンという怪獣。子供の落書きが実体となってしまったという怪獣で、ただ現われただけという存在。ガバドンはじっとしているが、ゴジラは動くし、攻撃を受ければ防御はする。しかし、それ以上はしない。その代わりに映画の多くのシーンは主要な登場人物が早口で議論しているところで、怪獣映画というより、議論の映画と言った方が似つかわしいくらい。そこで話されているのは、もっぱらゴジラとは何か、いかに記述すべきかという議論。ゴジラ自身にそこにいる理由がないのを、登場人物たちが侃々諤々の議論をしている。そういうストーリーのように見えた。

例えばこういうこと、映画作品そのものからは離れてしまうかもしれないが、最初に現われたゴジラは、いったん海に消えてしまう。その後、二度目に神奈川沖から出現したゴジラは、最初の現われたゴジラとは大きさもかたちも変化していた。それは別物のようで、最初に現われたゴジラと二度目に現われたゴジラを同じゴジラなのだろうか。映画では、お約束だから話は進む。しかし、まるっきり違うのが、日を置かず現われたのであれば、別の個体あるいは別の生物の可能性はある。だからゴジラという言葉が指すのは何か、この時点でははっきりしていない。言葉が真であるのは、言葉と、その指すものが一致していることだ。しかし、その指すものが同定できない。この場合ゴジラは、その現われたのであるかもしれないという可能性でしかない。この場合、ゴジラは存在しているとは言えない。それは、ゴジラが存在していないと同じことだ。

それで、物語は牧という学者のデータを解析する。それは、ゴジラという概念の確定に他ならない。一方でゴジラの細胞の破片の分析によって、データとの一致を検証したことによって、ゴジラという概念と実在が一致したというわけだ。つまり、ゴジラは存在する。

それは、こじつけの屁理屈かもしれないが、言語論的展開による存在論がそのまま実践されている。

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