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2017年11月20日 (月)

「エドワード・ヤン 再考/再見」

「エドワード・ヤン 再考/再見」を読んだ。

池袋のビルの地下の30~40人くらいしか入らない小さな映画館で「牯嶺街少年殺人事件」を見たのは何十年前だったろうか、3時間の大作を窮屈な姿勢で一気に見たときは体力的にも疲れた、それよりも目の前で何が起こったのかよく分からなかった。ほとんどが夜の暗い画面で光と人のアクションで、ハイテンションが最初から最後まで途切れることがなかったことだけを覚えている。私には、この人の作品は1度見ただけでは分からず(何しろ説明描写が皆無という不親切極まりないのだ)、そもそも、出てくる人物がみんな存在感があって、誰が主役か分からないほど。しかし、誰をとっても力的でもっと見たくなってしまう。それで、2度目で「ああ!」とため息をもらし、それ以後病み付きになってしまう。例えば「恋愛時代」ではエレベータの扉が開閉するだけなのに涙を抑えきれない感動を引き出してしまうのだから。

この人は共に台湾ニューウェーブを担った侯孝賢が様式美といえるほど明確なスタイルを確立していったのに対して、制作した作品ごとにスタイルが異なる。それを当人は、高級フレンチレストランの完璧な技術をもって行き届いた模範的な接待をするギャルソンと、田舎の年老いたおばあちゃんの落ち度はあるかもしれないで接待などとは言えないが朴訥で肌触りの感じられる振る舞いとの違いと比喩的に言う。当人は形式化以前の素朴な真心、つまり初心のところでとどまっていると言う。それは、映画の画面で完結させることをあえて追求しないという姿勢で、そのために、いかに緻密にショットを考えているかといったことは、何となくそんな感じはしていた。

もし、エドワード・ヤンという映画作家に興味を覚えたら、試しに『ヤンヤン夏の想い出』でも見てほしい。この中のイッセー尾形に驚くとともに、魅せられてしまうから。

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