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2017年11月29日 (水)

ベルギー奇想の系譜(3)~Ⅱ.19世紀末から20世紀初頭のベルギー象徴派、表現主義(1)

Belgfantaanto4  次のコーナーで時代が飛躍します。中世の残滓をもっていたボスやブリューゲルから一気に19世紀末のベルギー象徴派に飛びます。系譜であれば、この間は空白ではないと思います。何かあるんじゃなかろうか?
 で、ベルギー象徴派の先駆者フェリシアン・ロップスです。ボスやブリューゲルのような中世のカトリック信仰にドップリと浸かった中での作品に対して世紀末のデカダンスと大衆受けのセンセーショナリズムの中での作品です。
 ベルギー象徴主義のフェリシアン・ロップスによる「誘惑」は現実世界を退廃的に語っているといえます。ロップスはこういった男を誘惑する「女の魔性」というようなモチーフを自信のテーマとして中心に据えていたようです。たとえば「聖アントニウスの誘惑」について、同じ展覧会で同タイトルの作品が他にもあるので比べながら見てみましょう。この作品の主役は誘惑される聖アントニウスではなく、キリストに取って代わって十字架で扇情的なポーズをとる女性の姿です。その背後には悪魔がいて足元には貪欲さの象徴の豚がいます。その手前で両手で頭を抱えて身悶えしている老人が聖アントニウスでしょう。これは、もはや誘惑に耐える聖人の姿を描いたのではなく、聖人を描くという大義名分を利用して、エロチックな裸婦を描いたといった方がいいのかもしれません。そこには、立派な聖人なんぞより裸婦の方を見たいんでしょ、と見る者を嘲笑うかのような作者の視線が見えてくるかのようです。
Belgfantaanto3  16世紀フランドルの画家による「聖アントニウスの誘惑」では、右手前に座った聖アントニウスに対して、中央に裸婦がいて誘惑している場面です。彼女の隣には異形の者が並んで、順番に聖アントニウスを誘惑したり脅したりしようとしているということでしょう。ここでは裸婦は、そういう列の一人です。これらに対して聖アントニウスは端然とした姿勢を崩していません。ここでは、左右で異形の誘惑者と聖アントニウスが向き合うように配置され、誘惑する者たちが異形であるのと聖アントニウスが対照になっているので、異形が異様であるほど、聖アントニウスの自制心の強さが強調される構成になっています。
 Belgfantaanto1 ヤン・マンデインの「パノラマ風景の中の聖アントニウスの誘惑」では、それほど図式的ではないですが、聖アントニオを誘惑する面々は横に並んでいます。この画面には裸婦はなく、異形の姿の者たちばかりです。真ん中の赤い衣装を着ているのが聖アントニウスで、彼に向けて列を作って並んでいる者たちの姿は、異形で何らかのシンボルなのでしょうが、ユーモラスな格好のコスプレのように見えてしまいます。ブリューゲルの版画作品では、誘惑者が異形の姿で並んでいるのを描くことに重点が移っていますが、聖アントニオとの対照という姿勢は崩れていないでしょう。
Belgfantaanto2  ロップスの作品は印刷されて大量に出回ったということで、ペンによる線描に絵の具で彩色をしたもので、現代のマンガとくに70年代エロ劇画に近いテイストを感じます。多分、彼の生きた時代はタブーがたくさんあった時代で、彼としては、あえてエロに走らざるを得なかったかもしれません。現代では陳腐となってしまったような、通俗心理学のネタとなりそうな類型的なエロ幻想をペン画でサッと描いたという作品がありました。発表当時はタブーへの挑戦だったかもしれませんが。丁寧に作品を仕上げるというよりも、制作し、それを即座に発表するというスピード感のほうを優先するようなところ。そして、仕上げを敢えて雑にして、きれいに仕上げないことで、伝統的なきれいな絵画へのアンチテーゼや猥雑な雰囲気を感じさせていると思います。
Belgfantadeath  「舞踏会の死神」という作品は、黒いぼんやりとした闇の中から、衣装の白いものは見えますが、骸骨の頭部や背後に人影らしきものがあるようなのですが、ぼんやりと霞んでよく分かりません。それが、死神という実在が定かでない影のような存在が、暗闇からこちらを見ている不気味さを感じられると思います。頭は骸骨ですから当然なのでしょうが、その表情をうかがい知ることもできないので、何をしてくるのか予想もつかないわけです。
 そして、ベルギー象徴派といえばクノップフです。私には、ボスやブリューゲルよりクノップフの方が見たいのです。とはいうものの、展示されていた作品はパステルや彩色写真(こういうの初めてでした。要は写真で写したのに彩色したものらしいです)ばかりで、もの足りない。2005年に同じ美術館でベルギー象徴派展をやっていたときにも、今回と同様に肩透かしをくったようでした。どこか掴みどころのない画家で、なかなか正体を明かしてくれない印象です。「アラム百合」という彩色写真ということですが、もともとは画家の妹の肖像画をちゃんと描いていて、それを写真にとったものでしょう。そういう迂回のようなことを敢えて行って、作品として呈示するところ、このようなフィルターを掛けるようなことをすると存在感が稀薄になっていくところがクノップフらしいとでもいいましょうか。ここに展示されている作品は、奇想と言えるか。とくに、彼の作風は静かさがあるようなところで、ロップスやデルヴィルといった人たちに変態度で負けてしまって、埋もれ気味でした。Belgfantaknop

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