没後40年 幻の画家 不染鉄(2)~第1章 郷愁の家
解説では“「家」というモティーフは、家族をなくしていた不染にとって、自身の心情を容易に託すことのできる対象でもあったのだろう。林の中にそっと佇む茅葺屋根の家や、身を寄せ合うようにして民家が立ち並ぶ風景を、様々な視点で捉えながら、柔らかな筆致とセピア調のけぶるような色彩で表現した作品には、繊細な感情が宿っている。”と説明されています。
「冬」という作品です。“自らの居場所を絵に求めるかのようにして民家という主題を取り上げ、そこに様々な感情を託して描くという初期の不染芸術の完成形と言える。(中略)自然に囲まれた農村風景を俯瞰的に捉えた作品だが、柔らかく繊細な筆致とぼかしを取り入れたセピア調の色彩が郷愁を誘う、詩情に満ちた作品である。”と説明されています。残念ながら、私は、このような風景には郷愁を感じられない感性の持ち主なので(おそらく現代の日本人の大半は、このような風景に対する郷愁はフィクションとして以外には感じられないでしょう。ただし、それがフィクションと思わない人も多いのでしょうが)、この説明は当てはまりません。画面を見てみましょう。日本画の場合、田園風景とか、田舎の鄙びた小舎の閑居老人というような南画といったテーマで茅葺の民家を風情で描くことはありますが、不染の描く民家は、これらの場合と違って、ちゃんと建物になっている、というところが特徴的です。へんな言い方ですが、いわゆる家型の立体としての奥行きがあるように描かれているということです。西洋絵画ではパースペクティブといえば当たり前のことですが、日本画では単なる仕切りとか、舞台の背景のようなペッタンコな、家として、建築物の中に人が入れないようなシロモノが描かれているが普通なのです。それに対して、不染の描く家は、伝統的な日本画とは視点が、そもそも違っているのです。真ん中の茅葺の民家。茅葺の屋根はしっかりとした線で台形の輪郭が引かれています。しかし、それは直線で引かれていなくて、台形の角は丸められています。全体として、その台形は円みを帯びていて、明確な輪郭線で囲まれているのに、尖った感じはなくてほのぼのした感じを持たせています。その下の瓦のもこしの部分は屋根の輪郭よりも細い線で、瓦を碁盤目のように直線で描いているのに、線が細いのと上の茅葺屋根の円みのイメージに隠れて鋭角的に見えてきません。しかも、全体として晩秋の草が枯れたダークイエローの色調に染まっていて、茅葺屋根も同じ系統の色て、家の木材の柱や建具もくすんだ茶色で似た色になっているところを、この線による輪郭がメリハリをつけています。つまり、この画面はダークイエローを基調としたベースに線による輪郭でつくられているといっていいのです。そこで、画家は何種類もの細い線のバリエイションを使い分けて、直線を適度に円みを加えて輪郭を作って、その輪郭が表現を作っているということです。ここで注意したいのは、村の民家の風景なのに人間が一人もいないことです。人のいない静けさと言えるかもしれませんが、そこに人のいる感じがするように描かれているのは、図式的な均衡を少しずらしているのと、適度な円みを加えた輪郭線による効果ではないかと思います。そこにあるのは微妙な加減であり、この作品ではそれがハマっていると思います。それらが、この作品の完成度ではないかと思います。
このような行き方は「雪之家」という作品で、雪に埋もれた白一色の世界に一軒の家があるのを、輪郭線の引き分けで、白い中から家の形が生まれ、存在が立ってくるという体験をするようなのでした。それは、白い面から画家が家という存在を切り取り、画面に存在させるのを目前にするような体験です。そこには、すでに在る事物を写すというのとは違う、在ることを画面のなかで作ってしまうというリアリティが感じられるものです。それを作り出しているのが、不染の線ではないかと私には思えるのです。
「思出之記」という3巻の巻物は圧巻でした。いわゆる絵巻物の横に長い画面ですが、絵巻物というと絵物語が一般的ですが、ここには物語要素はまったくなくて(不染という人は、物語志向が全く見られない画家で、日本画家としては珍しいタイプの人ではないかと思います。)横に水平に広がる風景を、これでもかというほど延々と描いたものです。端的に言えば、「冬」の民家の風景を横に異常に長い巻物形式に延々と描いたものといってもいいです。構図は、俯瞰的に見下ろすのを風景に応じて横に移動しながら映った風景です。そこに微細と言ってもいいほど細かく民家や周囲の植え込みや田畑、あぜ道が細かい線で描かれています。そこで不思議なのは、緻密にぴっしりと描きこまれているのに、そういう感じがしないのです。画面が描写の過剰でせせこましくなったりしないのです。この作品もそうですが、不染の作品では空がひろく取り込まれることは少なくで、俯瞰という視点にせいもありますが、地面とそこに建っている民家を描いています。そこでは、空間の抜け、あるいは余白がとられていないので、息が詰まりそうなのですが、それがないのです。そのため、これだけ細かく描きこまれていても、のどかで風情のある雰囲気が漂っているのです。どうして、そうなっているのか、今もって、分かりません。おそらく、色遣いと線が極細で存在を強く主張していないことが関係しているのではないかと推測しています。
「秋色山村」という作品は、これまで見てきた風景画に比べるとずっと視点をひいて遠景として、空間を構築しています。似たような構図の速水御舟の「洛北修学院村」と比べると不染の特徴がよく分かると思います。速水の場合は、前景の集落、中景の村の人々、遠景の山々の三つの景色が、つづら折りに曲がりくねった道によってつなげられて、その道を追いかけるという時間要素が、物語を想像させるという画面になっています。これに対して、不染の場合は中心は民家が集まった集落という空間です。この集落の部分だけをみると、一点から俯瞰した空間としてリアルです。その後景となっているおわん形の山は、その空間とは無関係に描かれていて、それらが画面のなかで、どういうわけか同居している。しかも、集落の描き方は、いままでも述べてきたように細かい線で描きこまれている(この点でも、速水とは全く異質の絵です)のに対して、後景の山には明晰さがなくてぼんやりとしている。その間には帯のような霞がかかっているたけで、強引に一つの画面に詰め込んでしまっているのです。速水のように物語の要素で三つの景色に連繋を持たせてまとめるという配慮をしていません。この力技は、この後の「山海図絵」で圧倒的に示されることになるのです。もうひとつ、この「秋色山村」では、枯れ草のような色調で画面全体の雰囲気を作っている中で、民家の白壁の白が光っていて、意外にアクセントになっています。「雪之家」もそうですが、この画家は白という色の使い方にとてもセンスがある人だと思いました。
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