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2017年12月14日 (木)

没後40年 幻の画家 不染鉄(6)~第5章 回想の風景

画家の晩年の拾遺集のような展示です。

Fusenyumedono 「夢殿」は法隆寺の夢殿でしょう。薬師寺の東塔を描いた作品を思い出させるような、正面からの姿でシンメトリーに描いています。しかも、建築図面のような精確な描写です。しかし、薬師寺東塔を描いた作品に対してひと目でわかる違いは、雨が降っていることと背景を描いていないことです。それまで見てきた不染という画家の特徴は、特著的な線を引くということと、その線によって形を明確に表すということでした。そのため、これまでの作品では天候とか光と影とかいったことは、雪の場合を除いて、見ていて注意したことはありませんでした。しかし、この作品では雨を降らせています。また、背後の水平な帯のようなのは光でしょうか。それまでの作品であれば、現実でも想像でも、何らかの背景を描いていたのですが、ここでは雨にけぶるところに光がさしたというようです。前の展示コーナーの後半のいくつかの作品から気になっていたのですが、この作品でも、不染は形を明確に表わすということをしなくなってきているように見えました。しかも、雨を白い線を引いて表現しているのですが、不染という画家の力量からすれば、もっと極細の線を引くことができるはずなのに、それをしていないのが、不可思議です。

Fusename 「静雨」という夜の雨の光景で、真ん中の灯篭の光にお堂と中の仏像が浮かび上がるという作品で、この作品も形を明確に表わすということをしていない。二つの作品とも瞑想的という形容がなされていますが、これまで見てきた不染の作品は、そういう形容詞や物語の要素を混入させず、形を描く、それを見る者に示すというシンプルにことだけで、見る者を説得してしまう作品を描いていたと思います。それが、他の日本画の画家にはない(こういう視点からみれば、大家と言われる人たちをふくめて、ほとんどすべての日本画の画家たちは描かれた絵のみで勝負することから逃げて、ごまかしをしていると見えます。不染は、そのようなごかしを潔しとしない決意があるように、私には感じられました)ものだったと思います。それが、これらの作品をみると、老境に入って日和ったかといぶかしさを感じました。

Fusenkaede 「いちょうFusenharu 」という作品、銀杏でしょうか、点描でおびただしい銀杏で画面が覆われてしまい、画面全体が黄金色に染まってしまう作品です。これも、何らかの隠喩がシンボリックな意味合いがあるような想像をさせる作品です。「山海図絵」のような現実にありえない想像の世界を描いて、それを見る者に力技で納得させてしまう方向とは正反対です。どこかで不染は方向転換してのか、これでは幾多の日本画家と同じごまかしに手を染めてしまったのか。そんな感じがしました。

「落葉浄土」という作品など、題名もそれらしくなってしまいました。ここでは、建物のパースペクティブもなくなって、のっぺりしたものになってしまいました。

これも、「山海図絵」という異常なもの見てしまったがゆえに、それ以降の作品を、どうしても贔屓目でみてしまうためでしょうが、はっきりいって、付録というものになってしまいました。それは仕方がないと思いました。

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