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2017年12月12日 (火)

没後40年 幻の画家 不染鉄(4)~第3章 聖なる塔・富士

Fusenyakushi 展示は、フロアが変わって、次の部屋に入ると山水画とは打って変わって奈良の寺院建築を描いた作品が目に飛び込んできました。薬師寺の東塔を描いたことが一見して分かる「薬師寺東塔之図」です。なお、不染は同じタイトルで薬師寺東塔を何度も描いています。とりあえず、2点ほど、その画像を掲げておきます。建築は、不染が多数描いていた家の発展したものと考えると、不染の描く対象というのは一貫していることになると思います。それは、彼の特徴的な線が要求しているというべきか、その線を生かすために適した題材が、日本画の一般的な題材である花鳥風月でも人物でもなく、建築物だったのではないか、と思ってしまいます。

Takashimayakusi 作品を見てみましょう。この東塔を描いた作品では、彼がそれまで民家を描いていたときのような立体を描く描き方ではなくて、まるで設計図のような真正面の姿を描いています。設計図のようだと述べましたが、それほど精確に塔の姿を描写していると言えます。私の知る限り、それまでの日本画では、ここまで建築物を細部まで精確に描写することはなかったのではないかと思います。薬師寺東塔の裳階のある三重の塔のプロポーションのユニークさを、果たして日本画では認識し得たのか、そういうことに気がついていたのか、疑問に思います。他の日本画の風景を描いたものを見ていると、塔であることが分かればいいという程度、単純化して屋根が重なっているくらいのものが描かれているのがせいぜいではないか。しかも、その正面の塔のプロポーションを画面の真ん中にして、シンメトリーな構図で描いています。これも他の日本画では、ほとんど見たことのない構図です。日本画では、楷書で書いた漢字の堅牢さにたいしてかながきの流れるような柔軟さを雰囲気として志向しているところがあると思います。そこではかっちりした構図では、そういう柔軟さとは相容れないもので、むしろ均衡をさけた構図をとっているところを特徴としていたのではないかと思います。むしろ、西洋絵画では黄金比とか左右のかぎらず点対称とかシンメトリーなどの構図を駆使して画面を設計している作品が多い。この場合には、画面構成にも意味があるといった場合もあります。そこで、この不染の作品では、シンメトリーの構図がとられていて、日本画というよりは油絵のような構成になっている。それを、日本画の作品としてまとめてしまっていることだけでも、すごいと思います。そんな図面のように精確でもあり、油絵のような構図をとっているにもかかわらず、日本画の作品になっているのです。この作品では、背景の飛鳥の山か雲か分かりませんが半円の図形(おそらく、中心の塔を聖なるものと見立てた光背のようなものではないかと思います)で塔の中心の位置から少しずらしてシンメトリーを崩しています。また、当の左右に建物を配していますが、完全に同じではなく、少し崩しています。そして、前景として画面下部をボカシで塗りつぶすようにして林をいれることによって、図式的に見えることのないようにしているように見えます。しかし、よく見るとその前景の林と中心である塔、その左右の建物の大きさはバラバラで写実という点では大きさのバランスは取れていません。それが、どうして、ひとつの画面に収まってしまっているのか、私には説明がつきません。それを見せてしまっているところが不染という画家の凄いところです。

Fusenyakushi2 それは、もうひとつ掲げている東塔の図についても言えます。塔の背後には一段目が薬師寺の伽藍、その上の段には民家が、あいだに森や山があって、その上の段には遠景の集落、その上には水田、その上には別の寺院のシルエット、そして、半円、山と、まるで雛人形の段飾りのように景色が段々に描かれている。その図式のような背景の、ひとつひとつの建物は正確な姿ですが、やはり大きさの点で塔とのバランスがとれていないし、遠近法の位置関係もおかしい。しかし、そんなことは別にして、塔を描いている線と色遣いと背景のとはまったく異質です。しかも、背景には点描のような、花や稲穂を点を打つことによって表現しているでしょうか。それが模様のようになって、画面に装飾的な効果を与えて、背景から塔が浮き上がってくるようにみえます。背景の模様のような図式化されているのに対して、塔はリアルで精確な描写で、まるで両者は違う世界のようです。しかも、塔の頂上の仏舎利の有名な水煙のところは光の光背が付けられているように見えます。譬えていえば、背景の現実の世界に対して塔は聖なる、いわば理想化された世界のような対称です。それが、塔はシンメトリカルだけれど、背後はシンメトリーが崩れている。

余談ですが、不染と同じように敗戦後、画壇からはなれて独自の制作活動をした高島野十郎は、油絵の画家ですが、薬師寺の東塔をきわめてリアルで精確に描写して、その背景には幻想的な風景を描きこんでいる作品があります。こちらは油絵らしく、真正面ではなくてパースペクティブがあるので、立体的ですが、描く対象として、何か特別の思い入れが感じられるものでした。どこか、通じるところがあるのでしょうか。そんなことをちょっと思いました。

Fusenfuji いよいよ「山海図絵」を見ましょう。展覧会やポスターやパンフレットに使われた作品で、不染の代表作なのでしょう。これは画像を掲示していますが、これではたんに富士山の絵ということくらいしか分かりません。実物を見て、そのスケール(186×210)とともに画像には納まりきれない情報量について、それらが相乗効果で、それ以上に…異様というと月並みになりますが、オカしいとか狂っているとしか言いようのない突き抜けた作品であることが、はじめて分かります。これほどのスケールに、隅から隅まで細い繊細な線でびっしりと緻密に描きこまれている、その執拗さだけでも異常だ。この作品を製作している際の、不染が繊細な線を一本一本集中して引いている様を想像すると、何かに取り憑かれたような狂気を感じざるを得ません。荒唐無稽な不自然きわまりない構成のはずなのに、この細部の丁寧な描写が見る者を納得させてしまう力技で、しかも、その細部が、画像で見ると分かるけれど、それほど目立たず、全体として突出して見えない。一体どうしてなの?という作品としては不染の代表作であって、彼の特徴がほとんどすべてあらわれた作品です。中心に富士山を位置させて、シンメトリーな構図です。薬師寺東塔を描いた作品もそうでしたが、富士山も正面からの姿を描いています。日本画では富士山は頻繁にとりあげられる題材です。かつての葛飾北斎の富嶽三十六景もそうですし、近代以降の日本画においても横山大観をはじめとした多くの画家が富士山をえがいていますが、不染のような真正面の姿を画面の中央に据えて描いた例は、ほとんどないのではないでしょうか。ほとんどすべての人は中心からずらし、言ってみれば、富士山という対象に真正面から向き合うことから逃げているとも言えるのです。そう考えると、不染のこの構図だけでも、決然とした並々ならぬところがあります。とはいっても、富士山は画面においてヨコでは真ん中ですが、タテでは真ん中には汽車が通過しているのが描かれています。タテは大雑把には3分割されていて富士山は上の三分の一の部分で、下の三分の一が海の風景になっています。これによって、画面が横に広がっていくような印象と、どっしりした安定感を見る者に与えるものとなっていると思います。

Fusenautumn 次の特徴が俯瞰の視点です。前に見た「秋色山村」などの民家を描いた作品や奈良の風景を描いた作品も、俯瞰で見下ろして描いたものです。この「山海図絵」では、かなりの高度から富士山と周辺一帯を見下ろす構図になっています。そうでないと、太平洋の海岸が入らないでしょう。しかし、富士山の向こう側は雪景色になっていて、そのさらに向こうは海岸線のようです。これは位置関係から言えば富士五湖のはずですが、これは富士五湖という湖の風景ではありません。これは日本海以外には考えられません。つまり、不染の視点は日本列島を縦に見通すという、かなり高い視野であったということなのです。もっとも、富士山の図に何食わぬ顔で日本海をいれてしまって、いけしゃあしゃあとしていることだけを取り上げても、尋常ではないと言えます。しかも、この高い視野からの俯瞰という点についても、一筋縄にはいきません。富士山を見てください、真横から見た姿です。富士山は標高が高いからということなのか、しかし、富士山の大きさと麓の民家の大きさは明らかに縮尺が合っていません。さらに富士山の向こう側の雪景色の風景は、遠近法であれば小さい豆粒ほどの大きさであるはずなのに、民家などは富士山の麓の民家と同じ大きさで描かれています。しかも、同じパースペクティブになっているのは、明らかに一点からみているのではなくて、麓と向こう側は異なる視点で描かれています。手前を見てください、海岸風景ですが、手前に描かれている海中の魚(こんなものまで描いている?)とその奥の船との大きさもおかしい。リアリズムでかんがえれば、この魚はクジラほど巨大なものになってしまいます。また、細かいことになりますが、画面の中央を横切る汽車も真横からの姿でパースペクティブがありませんし、その周辺の民家も真横から見た姿です。とはいっても、そのあたり全部が真横からの姿とは限らず、数軒の家は上から見下ろした姿なのです。逆に、画面手前は上から見下ろした視点で民家が描かれていますが、ところでころ真横の姿が混入しているのです。また、画面の上の方でも、麓の中央の一軒の家と門、そして左側の麓からさらに左の雪の集落は真横の姿です。

この複数の視点とスケールが揃っていないということは、次の特徴点であるマクロ的視点とミクロ的視点の混在ということと関連していると思います。高い視点からの俯瞰で全体を描いていることと、細部を驚くほど微細に丁寧に描きこんでいることが両立しているということです。漁村や農村の佇まい、里山の様子から田畑の光景、汽車や馬車や帆船、家々の庭に干された洗濯物、実のなった柿の木、吊り干しされている干物、海上の舟を操る人々など、数え上げたらきりがありません。そして、驚くべきは海の中まで描いているのです。魚の群れや海中の岩場で戯れる蟹まで見ることができます。この海中の魚や岩場は海の波の一筋一筋が非常に細い筋目描きによって丹念に描かれていて、海底が透けて見えるような透明な海面を表しています。その精細な線にも驚嘆です。

Fusenfuji3 しかし、これらの特徴だけを取り上げると画面がバラバラに分裂してしまうように聞こえてしまうのですが、実際に画像を見ていただくと、自然で写実的な画面に見えてしまうのです。この、まとめてしまうというところに、不染という人の強引さ、何度も言うようですが狂気が尋常でなくて、こんな画家は、他にいないのです。こんな作品と比べると、ほとんど富士山の絵が凡庸に見えてしまうのです。

同じ画家が同じ富士を描いた「山海図」には、それほどの異常さはなく、くらべると普通の作品に見えてしまうのです。それだけ「山海図絵」が尋常でないということです。

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