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2017年12月15日 (金)

西兼志著「アイドル/メディア論講義」

西兼志著「アイドル/メディア論講義」を読んだ。

スマホで自分の写真や動画を簡単に撮れるようになり、その映像をSMSで共有するのは当たり前になった。人々は、そのためのインスタ栄えする撮り方や映り方を身体化して身につけてきている。これは、以前なら芸能人やアイドルに限られていたメディアでのカッコいい振る舞いやポーズが日常化したものといえる。

人とメディアとの関係が尖鋭的に表われていて、それを眺めることができるものとしてアイドルを取り上げる。いままでは、このような視点での議論はネガティブに語られるのが常だった。冒頭の例は、ティーンズ・マーケティングの担い手としてファンという消費者を消耗させる大衆欺瞞とでもいう。アカデミズムからは文化産業論の名目。上から目線で冷やかに眺めるものだ。それはアイドル現象の真っ只中でそれを謳歌する内側からの視線の反対の極ということになってしまう。そのどちらにもならないように、著者は綱渡りのように議論をすすめる。

結論は、どうでもいい。ただ、その議論を・・・

 

近代以降の西欧では市民階級が勃興し、芸術や芸能が王侯貴族というパトロンに庇護されていたことから、市民階級を相手にして、例えば、音楽ではベートーヴェンが収容人数が多いホールで大音量のオーケストラで交響曲を演奏する、という変化が始まる。大衆社会の出現による大規模消費が始まり、流行という現象が発生した。音楽の世界では、ヴィルトゥオーゾというような現在のスタープレイヤーのような人も生まれた。

演劇の世界でも大劇場で、戦場の英雄等にかわって、人々に注目されるスターが生まれる。大舞台でスター俳優が演じるのを遠目に見ると言う関係では、その距離のため演技の細かい部分までは伝わらない。そこで俳優はメイクや身振りは過剰で大袈裟なものになったのは無理もない。その後、映画の発明により、スクリーンに姿を拡大されて映し出されることによって、舞台での誇張された演技は不自然なものと変化した。従って映画の俳優たちは演劇的なメイクを落とし、日常生活と同じような仕草をするリアリズムの演技をするようになった。それが、テレビという大きな映画館で多数の観客と俳優と言う関係から、人は、家庭とか個人の空間でテレビの演技を見るようになる。そこでは個人対個人になぞらえるような関係に変化。その関係では、映画での俳優の姿はリアリズムといっても多くの人々が憧れる理想の姿であった。俳優は映画で役を演じていた。それが、欠点もある個人としての姿が求められるようになり、テレビで演技していても、役を演じても俳優個人の姿が前景化してしまうようになる。さらにインターネットの時代になり、SMSで俳優たちが直接、個人的な話を公開するようになり、演技より、俳優のパーソナリティが前面に出てくる。

俳優というスターが他人数の観客との関係をつくることは変わることはないが、その間のメディアが変化することによって、演技のやり方が変化し、俳優のあり方も変化してきた。一方観客が俳優に何を求めるかが変化した。ということは、両者の関係のあり方が変化した。

実は、俳優を見る人々の見方が変化したことの影響だろうか、人々の日常生活での振る舞いや仕草も、合わせて変質してきている。

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