無料ブログはココログ

« 2017年12月 | トップページ | 2018年2月 »

2018年1月

2018年1月31日 (水)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(25)

5.人間のペルソナ

キリスト教神学において、人間はたんる動物の一種ではなく特別の存在であり、人間にはペルソナがありますが、動物にはありません。三位一体であったように神にもペルソナはあります。神の場合本質は個別化されていません。神の本質はそれ自体から無限で唯一なので、個別化されません。それゆえ、神において、ペルソナは個別化の原理ではありません。同じように人間のペルソナも、人間の本質を個別化するものでは在りません。ひとりひとり、人間が個体で存在する究極の原理はペルソナではなく、「個別化の原理」です。

スコトゥスは、ペルソナについて、個別化の原理とは違って、ポジティヴな存在性ではない見ています。たとえば、人間知性は人間霊魂の形相というポジティヴな存在性によってあります。しかし、それがもつ個々のはたらき、つまり認識したり愛したりすることのうちには、本性的なはたらきと、自由な意志にもとづく偶然的な作用があります。本性的なはたらきは普遍性を持つので、アリストテレスの哲学においてポジティヴな存在ですが、偶然的な理解のはたらきや信仰のはたらきは、質料的なのでネガティヴです。

6.ペルソナと自己

スコトゥスによれば、神の中のペルソナどうしは、実体的な関係、あるいは、関係的実体です。つまり、ペルソナは複数の実体の間の関係において現われる実体のごときものと言うことができます。

人間においても、他者との関係において現われる実体性が、自己のペルソナであると言えます。実際、ヨーロッパの言語生活では、他者に向かって「わたし」を主張することは日常茶飯事です。つまり他者との関係のなかにある「わたし」です。言い換えると、ペルソナは関係を通じて実体化した「わたし」です。ただし、自己が実体であるためには、ヨーロッパの理解では、不変性、同一性が求められます。

しかし、キリスト教信仰においては、人間どうしの関係よりも神との関係が重要です。なぜなら人が神を信ずるとは、人が神の教えにならうことであり、それは人が、教える神(イエス)をまねることだからです。ところで、神の内で、子は父に対して従順です。子は父の仕組んだ十字架における死を従順に受け入れて死んだということになっています。ところで、人間は神をいわば父として信仰を持っています。それゆえ、信者は子の立場で、神に対して「わたし」であり、父である神に従順でなければなりません。それは同時に修道院の院長という立場に立つ指導者に対しても、従順でなければならないことを意味します。これがキリスト教信仰の従順です。

このような関係は存在上の依存関係としてみることができます。なぜなら、被造物は神に依存する関係を持っているからです。神に依存しなければ何ものも存在しないと考えられています。したがって、被造物のうちで精神をもつものは、この依存関係にもとづいて、神に対する関係として従順であるのが当然と見られるのです。

ペルソナは共有されない性格をもっています。しかし、依存関係は、何かの共有を含んでいます。なぜなら、何か(A)に依存するものは、その何か(A)から、何ものかを分け持っている、つまり共有している、ことによって、依存するからです。例えば、被造物は神から存在を分け持っています。それによって、在ることにおいて被造物は神に依存しています。あるいは神の知性のうちにある人間を分け持っています。それゆえ、人間は人間であることにおいて神に依存しています。その他の点でも同様です。被造物は何であれ、神から分け持った者において、神に依存しています。

他方、ペルソナは共有されないものです。言い換えれば、共有を止めるものです。一方、分割を止めるものが個別化原理です。両者は一見似ていますが、ペルソナは共有を止めるもので、その結果として依存を止めるものです。つまりペルソナは依存の否定を含んでいます。神のうちでも、子は父に従順でありながら、異なるペルソナであるという点では、子は父に依存しません。

被造物のペルソナは被造物であるかぎり、神に依存し、従順であるべきです。他方、ペルソナは、それを止めるはたらきを内包しています。それは存在上、神と必然の関係を持ちながら、他方で、ペルソナのはたらき、すなわち、意志をもつ精神のはたらきにおいて、依存関係を止めるというはたらきです。

依存を止めるなら、精神はそれだけ孤独になるわけです。相手は宇宙のすべてを創った神です。その神への関係を存在する上での必然は別にして、意志的な個々のはたらきにおいて失うなら、むその意志をもつひとりひとりの自分にとって、依存関係をもつことができるものは、宇宙の中に何もないことになります。この状態において現われてくる自分、絶対の孤独です。

2018年1月30日 (火)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(24)

3.被造物における個物存在

神の本質は唯一の本質として三つのペルソナに共有されます。しかし、この「複数のペルソナによる共有」は、神の本質の個別化ではありません。なぜなら、教会の教義(信条)によれば、三つのペルソナに共有されている神の本質は、三つのペルソナに分割されているのではなく、ひとつの本質のままです。すなわち、神の本質は三つのペルソナにおいてばらばらではなく、あくまでも同じ「ひとつ」だからです。神の本質は完全に同一だ、というのが教義です。なぜなら、神の本質は被造物のように「こわれるもの」ではないからです。神の本質は完全に同一だ、というのが教義です。それは、神の本質は、被造物のように「こわれるもの」つまり「分割されるもの」ではないからです。分割されることは、被造物の存在における不完全性です。神は完全な存在なので分割されることない。したがって、スコトゥスにおいて、個別化の原理は神のうちでは一切はたらかない、とみなされます。

アリストテレスは、人間理性に確実に理解されることが真理の特徴であり、それを映すのが質料であるとしました。質料は、形相と対立する実在です。しかし、それは本来の意味では確実な理解を得られないものであり、それゆえに本来的に言われる真理から離れたものです。つまり、アリストテレスの質料形相論は、実在の一部、すなわち、形相のみを真理とみなす論理です。質料という実在のあとの半分は真理ではなく、真理に反してか、反するとまでは言えないにしても、真理から遠ざかって実在するものです。

ところが、信仰から見える世界では、すべては神が創造したものです。そこには質料も含まれます。質料も含め、存在はすべてが真理でなくてななりません。それゆえに中世では、存在が真理に置き換え可能となったわけです。アリストテレスにおいては、真、善、美の置き換えは可能であっても、存在との置き換えはできませんでした。

この理解の変化が、とくに個体のもの「個体性」についての理論に表われています。アリストテレスにおいては、個体は偶然に在るもので確実な真理ではありません。質料と同じような扱いです。これに対して、スコトゥスは個別化の原理は質料でも形相でもなく、質料も形相も「これ」へと収斂する究極の現実態、究極の存在性、と主張しました。スコトゥスはアリストテレスの質料形相論を超えて、「このもの性」という概念をつくりました。それは、形相性のひとつとされ、形相の一部を構成する原理ですが、それ自体は形相でも質料でもない、というものです。しかしスコトゥスは、その実在はポジティヴであると主張します。

4.人間の個体存在

個別化の原理は、被造物の本質の個別化のみに働きます。なぜなら、被造物のみが分割され得るという不完全な存在だからです。とくに物体的なものについては分割が基本です。

個別を意味するラテン語はindividuatioです。言葉の頭にあるinは否定辞です。この否定辞を取ると、「分割すること」という意味の言葉です。したがって、語源的には、個体化は「分割をとめること」を意味しています。被造物の本質は複数のものに分割されるというもので、現実には複数のものが在る、ということになります。これは本質がもともと分割されることで複数のものに共有される性格をそれ自身においてもつからです。その複数のものは「同じ名」、すなわち本質の名で呼ばれるものですが、「これ」と「あれ」は異なる二つのものです。このように本質ないしは本性は分割されますが、「これ」と「あれ」で止まって、それ以上の分割がないという状態を作り出しています。この「止め」を行うのが、スコトゥスの言う個別化です。ラテン語の言葉としては否定辞のつくネガティヴなものをスコトゥスはポジティヴな存在に転換させました。

スコトゥスにおいては石も人間も本質が分割されて各人に共有されていると同時に、それ以上の分割が個別化によって止められて、個体としての個人が生じる、と説明されます。しかし、それはペルソナではありません。

2018年1月29日 (月)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(23)

第9章 自己の存在とペルソナ

1.形而上学的概念と神学

もともと古代ギリシャ哲学においては「存在」ということばの適用範囲は条件付でした。善美は求められるのであっても存在ではなかった。実際、ものが存在するかしないかは偶然的です。真理探究においては、具体的な各々の心理は必然的な仕方で存在すると主張されることはあります。しかし、真理が吟味されるように、存在もまた吟味されることになります。したがって、心の中に存在しても、それが心の外なまで存在するかどうかは、吟味されなくてはならないことになります。心の外に在ることが明瞭なものとは。目に見えるものであり、目に見えるものを直接動かしているものです。

これに対して中世の形而上学は「在る」という主張が十分な吟味を受けたと見なされ、形相や神までも「存在」の領域に当然のごとく入れられるようになりました。アリストテレスでは「存在」の条件であった「質料」が存在の条件から外され、形相のみで存在とみなされ、むしろ質料の条件をもたない存在として形相や神が論じられました。そこには、新プラトン主義的に解釈されたアリストテレスの形而上学の概念がアラビアから伝わったことがベースになっていると考えられます。自然から受け取られた「本性」の概念について、抽象を通じて自然のうちに不完全性・質料性(個別性、偶然性、時間性、変化等々)を取り除けば、自然を超えた領域の存在に一義的に通用する形而上学的概念が得られることになります。それによって神学での神の本性の議論が可能になるというわけです。

そしてこのことは「存在」概念を、自然と超自然の間で一義であると主張することとなります。「存在するもの」すなわちエンスの概念も、抽象と形而上学の論理を通じて被造物の領域にある不完全性を除けば、被造物の限定性を超えて、神にも一義的に適用できる概念ということをスコトゥスは見出します。

同様に、被造物には固有の属性といわれる「一」「真」「善」があります。いかなる存在を取り上げても、「ひとつ」であり、それは何らかの「真」を含み、何らかの「善」を含むという中世では一般化していた説です。これらも「存在」に伴って神と被造物に一義的に述語されます。それ以外にも、端的な完全性と言われる正義や知恵なども、その形而上学的概念はスコトゥスの神学において神と被造物に一義的に述語されます。このような形而上学的概念は、神を科学的に語ることを可能にし、その結果、神学を科学として成立することを可能にしました。

2.神の本性とペルソナ

スコトゥスの神学における神とは何でしょうか。この問いは三位一体の神の本性についての問いということになります。ところで「本性」の概念とは、複数のものに共通に述語できる概念です。たとえば人間の本性は複数の人間に述語できるものです。この「本性」自体がもつ共通性は、まさに本性自体がもつ性格です。それは神の本性にもいえることで、唯一の神の本性であっても、それ自体が複数のものに共有される性格をもっている。それが神の本性が三つのペルソナに共有されて、父も子も聖霊も共通に神であるという述語とつながるわけです。

カトリック教会の三位一体論は、神に近づくことが十分にはできない人間の不完全さにおいて論じられる他ない論です。神の本性はそれ自体から「共有される」ものです。これに対して、ペルソナの特徴は、「共有されない」という性格にあります。ある性質がある複数のものに共有されれば、その複数のものは、同じ性質を有しています。それゆえ、多くのものが同じ名で呼ばれます。複数の個体が馬の本性を共有しているなら、それらは同じく馬と呼ばれるわけです。他方、共有されないものは、唯一それしかありえないということです。「アオ」と呼ばれた馬は、それ一頭のみです。その名で複数の馬が呼ばれることはありません。同様にペルソナのなかの父、子、聖霊は唯一の父であり、唯一の子であり、唯一の聖霊です。それぞれが別の名で呼ばれます。したがって、神の本性は唯一の本性ですが、共有されるものもあるので、父も子も、聖霊も、共通に「神」の名で呼ばれるわけです。それゆえ、イエスという一人の人間=神の子キリストの存在は、唯一の神の子のペルソナが多数のものも間で共通な人間の本性を受け取って、一個の人間イエスになったものと理解されます。つまり基盤となるのは子のペルソナであり、子のペルソナは神ですから、この基盤から見て、イエスは神であるということになります。他方、子のペルソナがそのとき受け取った本性は人間であるから、イエスは人間であるということになります。こうして神であり人である。このようにして神であり人である一個の存在が説明されます。

ちなみに、現代ヨーロッパの実存主義は、この中世のペルソナ思想の現代版と言えます実存主義の個人は「代替できない」と言われます。しかし、代替できない、というのは、「共通でない」ということと同じです。例えば、同じ能力で測られるものは、その能力に関して共通なので、取り替えができる。ある生産ラインのある箇所の作業ができる能力をもつ人間は多数いて、ひとりがだめになったら、他のひとりに取り替えることができる。反対に取り替えが利かないことがらもあります。例えば個人の特殊な能力については、他の人への取り替えが利きません。ところで、ペルソナは共有できないと言われます。これは、ペルソナは取り替えが利かないことを意味します。したがって、実存主義で言われる「代替できない個人」は、「共有できないペルソナ」の意味と同じです。

そしてまた、ペルソナとしての「わたし」とは、「他の誰でもない」という表現でしか言葉にできない何か、です。つまりネガティヴな表現でできないのは、人間がそれ自体を認識することができないからです。すなわち、わたしたちには自己直観(自己の本質を直観する)がない。自分のであれ、他者のであれ、ペルソナ自体の認識は、わたしたちにはない。そのために、「わたし」は「あなたではないもの」であり、「あなた」は「あなた以外のものではない」としか正確には言うことができません。ヨーロッパの個人主義は、神のペルソナの思想に依拠していて、仏教における「自我の無」と同様、こういう点では空虚です。

2018年1月28日 (日)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(22)

7.個別化の原理

事物の本質は、多数の個別的存在に普遍的であり、共通的です。したがって、それを説明する質料と形相も普遍的、共通的です。つまり同じ本質は、同じ形相と質料の複合として説明されます。したがって、スコトゥスによれば、それらのものが個別的に在ることを説明するものではありません。

このことについて、トマス、「ことば」はそれがもつ共通性によって使用されるものでかるから、言葉によって明瞭化される側面を形相と呼ぶのであるから、形相が普遍的でしかないことは明らかです。他方、質料のほうは、明瞭化されない側面を含みます。個別性は、普遍を一般に指示する言葉によって明瞭化できないものですが、それゆえに、質料の側にある、とトマスは主張します。

しかしながら、スコトゥスは、質料が普遍的本質を説明する原理の一方であることは、質料形相論として外すことはできないと言います。だから、トマスの言うような、質料のうちに普遍と対立する個別化の原因性がある認めることはできない。スコトゥスによれば、質料も形相も個別化の原理ではありえない。

スコトゥスは現実に存在することと個別化を分けて、別のものだといいます。現実に存在することは、本質の秩序を横並びに示す「範疇の並列秩序」内のものではなく、その外に位置付けられると言います。範疇の並列秩序は、被造物の存在を区分する範疇であるので、現実に存在することは、範疇を超えて、神にも述語されるからです。これに対して、個別化は被造物の本質の個別化であるため範疇の並列秩序のうちにあるのてなければなりません。つまり、範疇のうちの「白」を個別化して「この白」とする原理は、その範疇のうちにあるのでなければならない、と言います。たしかに現実存在を経験するのは個物に出会う場面です。そのため現実存在は個体性と結び付けられ易いかもしれません。しかしスコトゥスは、現実存在は、いま、ここに在る個体性を通して在るのではなく、本質を通して在ると主張しているからです。というのも現実存在は何よりも第一原理である神において本質を通して在るからです。

それゆえ、スコトゥスによれば、質料によっても形相によっても、存在することによっても、分量によっても、個別化は成り立たないことになります。では、個別化するのは何か、と言えば、何か究極のポジティヴな存在、というほかない。スコトゥスによれば、それ以上の名前は見つけることができないのです。

8.普遍的本質と個別化の存在

もともとアリストテレスは、普遍的知識を追求する科学の世界で、個物はそのデータになる質料にすぎず抽象や帰納によって普遍的本質が見出されれば、その本質に属する個体は区別してひとつひとつを取り出す理由もなかった。つまり、アリストテレスにとって説明されるべきは普遍的本質ないしは真理であって、個別の存在が説明されるべきであるという理由はなかったのです。

ところがスコトゥス神学は、人間は個人として、信仰において正しかったり不正であったりする存在です。あるいは、救世主キリストは神であると同時に個人でもありました。また、直観によって存在するままに受け取られるのもの、個別のものです。そのため、スコトゥスにおいては、現実に存在した、あるいは現実に存在する個別のものが、言葉が表示する普遍的本質によって説明されるべきであり、それが神学と呼ばれる科学なのです。それゆえに、ものが個物として存在する根拠を問うことが課題となってくるのです。

そして、その反対の極がでてくることになります。つまり個体こそが現実に存在すると言うのなら、普遍が現実に存在するという身とは、何を根拠にして言うことができるのか、という問いです。なぜなら、普遍は言葉になっているだけで、直観によって捉えられることはないからです。すなわち、この問いが持つ困難は、個体は見えるが、普遍はただ理性によって触れられるだけであり、論理的な証明しかできないということにあるからです。

スコトゥスは、アヴィセンナに基づいて、実在する自然本性について、次のように解いてゆきます。「馬」の本性を例にとってみましょう。この本性自体には、「存在する」が付帯していない。しかし「存在する」が付帯することによって実在する本性ということになります。これが実在可能な本性です。この意味で本性は実在的と言うことができます。他方、この「本性」に個別化の原理が加われば、「この本性」という個体が生じることになります。したがって、実在するこの馬は、馬の自然本性に、個別化の原理と存在することが付帯して生じていることになります。そしてその一方で、実在するこの馬は、人間の感覚に受け取られ、表象に受け取られ、同時に知性の直観と抽象に受け取られます。そこで、表象に受け取られ、知性の抽象にうと取られた「馬」は、知性のうちで「馬の像」となります。この像は、「馬であること」以上のものを含んでいるわけではありません。つまり個別性も存在性も抽象によって捨てられています。その像に残っているのは、元の「馬であること」のみです。しかし抽象された像は、つぎに普遍を示す「ことば」に置き換えられます。ことばはどれも複数の人々の間で共有されるものですから。このときに、ことばの持つ論理性によって普遍性が「馬」に付帯します。こうして、「普遍的な馬」の概念が生まれます。ただし、ことばの持つ論理性抜きに、その意味(内実)だけを取り上げるならば、それは形而上学者が取り上げる本性ないし本質の概念ということになります。そして、これこそがその本質の第一の概念です。すなわち、個別か普遍かに無差別的で、なおかつ、存在するか存在しないかに無差別的な「本性の概念」です。そしてそれは、実在上も、個別的であることにも存在することにも、先立っている本性です。そして、この本性は、神が宇宙を創るときに最初に知性のうちで考えた本性です。

なお、スコトゥスは本性にも一性が見出されると言います。現実に存在する個体の一性は、その個体の数を数えるときの一ですが、本性の一性は、種の数としての一です。つまり、馬の本性も、人間の本性も、馬と呼ばれ、人間と呼ばれる多数の個体に共通である仕方で、それぞれがひとつです。そしてこの一は、個体の一と比べて、より小さな一であるとスコトゥスは言います。おそらく、個体の一性は、個別化の原理によって他の個体から区別されて明確に作られる一ですが、本性のほうは、それが他の本性とは違う存在として独立に在る、という存在の性格によってのみ、ひとつであるにすぎないからだと推測できるものです。しかしスコトゥスは、この一も、種の本性それ自体の内にあるのではなく、その本性に固有の属性として付帯するものだと言います。

スコトゥスがこのように本性を、その固有の属性から切り離してそれ自体として捉えるのは、形而上学で用いる本性を、正確に神にも一義的に述語できる本性であることを理由づけるためでした。なぜなら、形而上学で用いる本性の概念が、固有の属性としての一も含まないことによって、本性の他は真に何もないものが本性自体の概念であることを確かめ、そのうえで本性を神に適用する、という手法が可能になるからです。つまり、「神は、第一義的に神の本性である」ということが言えるし、その後、本性である故に、その存在にしたがって、固有の属性として、神が第一であり、真であり、善であることを言うことができる。すなわち、神がひとつであるのは、神の本性が本性としての固有の属性としてひとつであるからであって、被造物において、同じ本性を共有する個体がそうであるように、個別化の原理によってひとつではないことを、明確にするためです。

2018年1月27日 (土)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(21)

3.存在の一義性

まず、この存在の一義性で言っている存在という概念は、これまで述べられてきた存在とは違います。後者はラテン語でエッセ(ease、英語でto be)といい現に在るという意味の不定詞で、前者はラテン語でエンス(ens、英語でbeing)といい存在しているものを意味する分詞です。前節の議論を土台にすると、エッセは被造物の本質の外に根拠をもつが、エンスは本質を基体とするものを指しています。そのため、エッスはエンスの一面を取り出した現実存在であり、他方、エンスは神も含めてすべてのものについて言われる存在ということができます。スコトゥスが、ここで議論しているのはエンスの方です。

まず、エンスが多義的、類比的であるということについて。「神は創造者である」あるいは「カラスは黒い」という二つの文では、エンスは多義的です。それは、述語が明らかに異なるからです。他方で、「神は大いなるものである」と「彼の父は大いなるものである」と言うとき、主語は異なりますが、述語は同じです。ところでエンスが指しているのは、述語「大いなるもの」です。命題文の違いは主語の違いです。一方は「神」、もう一方は「彼の父」です。この場合、主語の違いに応じて考えるなら、述語「大いなるもの」の意味は、前者は自分の命を捧げてもいいほど信仰の対象についての述語で、後者では、やはり犠牲になってもやぶさかではない、と思う偉い人です。しかし、後者には、神に比べれば、人間としての限界があります。この違いに着目すれば、エンスは類比的だと言われます。つまり、似たような意味があると同時に、見方によっては意味の違いがあるエンスを含む文の全体から読み取ることができます。

次に一義性について。主語の違いにもかかわらず、述語の概念は、その述語が意味する内容、つまり最小限の意味を常に指している、と判断すること判断することを一義性と言います。言い換えると、主語の違いを述語の中に読み取ることをしない、という判断です。例えば「神は存在しているものである」と「この石は存在しているものである」という二つの文において述語は、同じ「存在している」です。主語の違いをこの同じ述語のなかに読み取れば、述語は一義的ではなくなります。しかし、主語の違い読み取らなければ、述語にある「存在しているもの」は相違がないののであるから、一義的であるということになります。

端的に言えば、スコトゥスの存在の一義性の主張は述語のうちに主語の違いを読み取ることをやめる、という主張です。

4.存在の一義性の本義

このスコトゥスの、主語の違いを述語の中に読み取らないという立場は、論理性の重視、ひいては科学性の重視によるものです。「神は存在するものである」という一文を置くとき、もしも主語である「神」について意味されるものを、述語である「存在しているもの」のうちに読み込むならば、述語の意味が人によって異なる可能性が生じるからです。

「神は第一の存在するものである」、「第一の存在するものは、存在することが必然的である」、「したがって神は必然的に存在する」という三段論法が組み立てられたとき、「存在するもの」と「存在する」の両者が一義的でなければ、この三段論法は科学的正確性を持たないことになります。ここで、「存在するもの」=エンスという概念が一義的であるかどうかが重要となってきます。

スコトゥスは、「神は無限な存在者である」という命題を神学の命題として提出しています。自分たちが信じる神の存在について、スコトゥスはコレが最も適当である、と判断しました。そして宇宙の中には本質が相互に持つ先後の秩序を見て、その第一のもの、第一の原因の存在を、必然的に「在る」と結論した上で、それが「無限な存在」であることを証明しています。

これに対してトマスは、神を「存在そのもの」と定義します。「存在すること」すなわち、エッセは、直観による認識と言えるので、一義的に受け取ることができます。一義的ではあるので、たしかに科学的論証の対象になりますが、「存在することは存在するか」は同語反復になってまうので、論証の組立ができません。そのため、トマスは、神の存在証明に際しては別の概念の秩序を持ち出します。「動かすもの」、「より完全なもの」等々の秩序をもとにして、その秩序は無限に遡ることはできないから、第一のものがその始まりにならなけれはならない、という証明をして、その第一のものが、「私たちが神と呼んでいるもの」である、と証明しています。

つまり、スコトゥスはトマスの神の定義を間違っていると排除しているわけではないのです。トマスの類比説に反対しているわけではないのです。

5.神学における人間

6.スコトゥスにおける「人間」「質料と形相」

スコトゥスによれば、「存在しているもの」の概念は一義的に受け取ることができるわけです。それは、異なる秩序にある異なるものは、それぞれ主語の違いであって、その違いを述語のうちに読み取らなければ、述語は一義的ということになります。これと同様に、さまざまな本質も、実存する多数の個物に共通に一義的に受け取られることになります。そしてアリストテレスの質料形相論が適用されて、それぞれの本質は、形相と質料の複合として説明されます。これは現代的概念を用いれば、人間の本質がDNAの数と配列と、ひれを内に含む細胞質の複合によって生じている、と説明するようなものです。

実際に、本質は形相のみによっても説明できてしまうものです。形相という言語によって明瞭に指示できるものを言うからです。しかし現実に存在し生きている本質は、質料抜きには存在しない、というのが質料形相論です。質料の部分とは、人間の理性、ことばによって明瞭化することができすせにいる何かです。それゆえ、アリストテレスにしたがって本質のうちに質料を複合の一方として認めることは、現実に存在しているものの本質のうちに「分からないもの」の存在を認めることを意味します。

つまり一方に、人間理性に明瞭化できる「ことば」が形作る形相があり、他方に、明瞭化できない何かが質料と呼ばれてあり、その複合として、事物の本質が実際に存在する。ちょうど人間のDNAが、塩基の名前と配列と数については「言語化」できますが、生きている人間の身体に必要なそれ以外のことについては、言語化が難しいように。

2018年1月26日 (金)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(20)

第8章 存在と本質

1.存在論

キリスト教は、世界の創造は神によるものとみなしています。つまり、神は世界の第一原因であり、現実存在(在る)に関する原因ということになっています。これに対して古代の哲学では、現実存在は、個々の事物の偶然的存在として取り上げられました。そのため現実存在は哲学の対象に入りませんでした。なぜなら、科学は必然的かつ普遍的なものについて論じるものだからです。それゆえ古代の哲学は本質をテーマとしました。中世に入って、アリストテレスの哲学がアラビアで解釈されると、世界の創造者である神について論じるようになります。そこで、現実存在についても、第一原因との関係での必然性、普遍性が論じられることになりました。中世の各種の神の存在証明は、この必然性・普遍性に基づく証明です。このようにして中世では神の存在が第一の現実存在であり、神から現実存在を得ることで被造物が在ると見なされました。したがって中世哲学特有のテーマは何よりも現実存在です。

2.スコトゥスにおける存在と本質

存在と本質の区別において言われる存在とは、一般に、ものが現実に在るということで表現される事態を指しています。、これに対して本質はそこに在るものを指して、何であるかという問いに答えられる内容を広く一般に指しています。つまり何かが在ると見出され、次にそれは何か、と見れば「栗毛の馬である」という順です。言うまでもなく、栗毛の方は、狭い意味での本質ではなく、属性と言われるカテゴリーに入りますが、存在という大きな枠では、実体本質も属性本質も、「何であるか」に答えられるものであり、広い意味で、まず存在が見出され、次に本質が見出されるということになります。とはいえ、知性による理解としては、先に本質が理解され、次にそれが在ることが確かめられる。いずれにせよ、知性のうちで本質と現実存在は区別して理解されています。このことは、それぞれの根拠ないし概念が区別されて理解されているということです。

スコトゥスは、本質は現実存在に対して可能態にあるといいます。なぜなら現実存在こそがまず在ると言えるものであり、それと比較するなら、本質はまず考えられるもの、つまり知性の対象であって、二義的に在ると言えるものだからです。神学では、神がその知性において考えたものが、次の神の自由意志のもとに、神の外に創られて在るからです。

ここで、スコトゥスは可能態について、現実態に対する可能という意味ではないと言います。スコトゥスが出している例では、人間性が一性に対していわば可能態にある、といっていますが、ここでは人間性が先立って在って、その後で一性が現実態として人間性に加わってひとつの人間性が在る。つまり属性としての一性が人間性を規定して一なる人間性が理解される。というもの。スコトゥスは、それと同じような意味で、本質は存在に対して可能態にあるのではない、といいます。むしろ本質は存在するときも存在しないときもある、という意味でスコトゥスは、本質は現実存在に対して可能態にあると言います。他方、人間性と一性の関係で言えば、むしろ人間のほうが、その属性である一性の必然的原因であるということになります。つまり、スコトゥスは、人間性がなければ一性はありえない、という意味で、人間性は一性の必然的原因だ、ということになります。しかし本質と存在の関係はそれし同じではない。つまり、もし本質と存在の関係が人間性と一性の関係と同じであったなら、まず一定の本質が考えられなければ、その存在はありえない、という意味でり、本質は存在の必然的原因であるという結論に導かれるというわけです。しかしこの結論は誤りです。

現実存在は事物に生起する、とスコトゥスは言います。スコトゥスは存在と本質の区別を、神の事物創造の時において説明します。神が事物を実際に創造する前に、事物の本質が神の知性のうちで考えられる。このとき事物は実際には非存在です。ただ存在する可能性がまったくないかと言えば、そうではなく、神の知性のうちで考えられたとき、それは存在可能ということになります。つまり、存在可能で、なおかつ、実際には非存在ということです。そして、それは次に神の意志がそうであれば、現実存在が与えられて、実際に存在するということになります。したがって存在以前の本質にとっては、現実存在からあとに生起する(付帯する)ことになります。それが現実存在は事物に生起するということだとスコトゥスは説明します。

ところで、この現実存在を与える神は、存在そのものです。したがって、その神がある種の必然存在を与えるなら、それを受け取った本質は、そのことから、必然存在ないし永遠存在となります。とはいえ、存在そのものではないので、神の意志にしたがって限定的に永遠であるにすぎません。したがって永遠存在とか、必然存在であると言っても、その様態は完全な永遠存在の神とはことなるものです。そして創造されたものである限り、現実存在はその本質に生起しないのであって、それ自身から現実存在というわけでは在りません。このように被造物は本質的に、はかない存在なのです。

2018年1月25日 (木)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(19)

11.意志の自由

アンセルムスは意志の自由を、「意志の正直を守る力」と定義したといい、それは有名なことらしい。罪を犯すような、身勝手なまでの自由を「自由」とは呼ばず、むしろ神に対する率直さが自由の根拠であると主張したのです。

この「自由」の概念は、外からの強制にひるまない気概、また誘惑に負けない自負の念と似たものです。実際において、人は何事かを選択するときに、様々な条件を考慮します。その際に、それ自身とは別の誰かの意見や力あるいは利益の誘惑に左右されていては真の自由とは言えません。したがって、何でもありというのが自由なのではなく、むしろ「課題について他からの強制や誘惑に左右されずに自分判断を下すことができる」ということが、自由であるためな必要なことだと言います。

さらに、判断を下すためには、強制や誘惑に左右されないということだけでなく、なんらかの判断基準、つまり真理の尺度が必要になると言います。身勝手な基準での判断は知性が目指す真理による判断ではないからです。例えば、人が人生の重要な場面で選択に迷うのは、人生の真理がはっきりと見えないからだと言います。

アンセルムスは、その真理を教えてくれるのが信仰であり、真理は神が教えてくれると言います。だから、その真理への忠誠心を守って判断することが、アンセルムスにとっては、自由に判断することになります。従って、アンセルムスによれば、神へと真っ直ぐに向かう思い、つまり信仰を失わないことが、意志の自由そのものである。アンセルムスは、これを「意志の正直」と呼びます。

スコトゥスは、第一の自由の根拠をアンセルムスの考えから受け取ってはいません。スコトゥスは第一の自由を意志自身の発動に帰しています。意欲は意志自身が起こしている、という意志の自己機動性が、意志の自由の根拠・原因であるとスコトゥスは見なします。そして、これに基づいて意志には「罪をなすことが起こる自由」があると言います。しかし他方で、完全な自由は、意志の正しさ、正義を求める思い(真理に従う)適合した意志であるという理解においてはアンセルムスと一致します。スコトゥスは原初の自由を意志が働く始点におけるものだと理解することで、アンセルムスを離れ、独自の道を行くことになります。

始点となるのは、始動状態にある意志が具体的なはたらき(欲したり、嫌ったりする)をはじめるところです。ここで発動というのは、そこがはたらきの究極の始点となっていることを意味します。自然な事柄の生起は偶然的であれ必然的であれ、無数の原因が連なる結果です。現実に起きている様々な事象の大部分は、人間が操作できる物ではありません。事象は複雑に影響しあって、偶然的に生起しています。それゆえ、どこにおいても新たな運動の視点があり得ます。とくに生物は、それぞれがある種の自発性を持っています。そういう中にあって、理性をもつ人間は特に他からの影響を必ずしも受けずに、独立して判断して行動する。それゆえ、個人は自分の行動の始点を自由な意志に持つ、と考えたのがスコトゥスです。意志は自身のはたらき(「好む」)と、その反対の「嫌う」というふたちのはたらきの始点を自分の意志自身のなかにもつゆえに自由を持つゆえに、自由を持つと考えたと言います。これが近代人の自由の観念を作っていくことになります。

12.罪が生ずる過程

スコトゥスによれば、自然的能力は一般にその能力に応じた欲求を持っています。その欲求は同時に「便益を求める思い」にもなります。これに対して、「正義を求める思いは」神からのみ得られるものだからです。つまり「正義を求める思い」は真理に従う信仰ということです。他方、自然的能力は神を知っているわけではありません。したがって、自然的能力は、ただ自分の能力に合ったものを求めます。ところで、神以外のものは、神を知るための道具、あるいは神に至るための過程の一部に過ぎない。それゆえ、スコトゥスによれば、「便益を求めるおもい」は便益を求めることであり、肉欲のごとき欲求です。

感覚が周囲のものを認識し、それを求め、知性がそれに従うなら、そこにあるものは「便益を求める思い」です。このような知性が持つ意志は、人生の究極目的を知らず、そのための規範(正義)を知らない意志であるから、過度に対象を求める運命にあります。この種の意志は、正義を求めないために、完全な自由はもちませんが、能力自身に与えられている発動から生じる自由はもっています。それによって罪をなすということが起こる可能性があるのです。

スコトゥスは、信仰を持つ良い意志は神の意志から啓示を受け取り、それを通して神の自由性を得て、それによって持ち前の能力から生まれる欲求を制御して常軌を逸することがないようにできる、と説明しています。ということは、人間には常軌を逸する可能性もあるということで、スコトゥスはその説明もしています。

2018年1月24日 (水)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(18)

8.享受と使用

知性し行動に関わる判断、例えば「盗んではならない」といった実践的命題をもって行動を判断するはたらきです。この知性の働きは、知性自身の欲求、すなわち意志とつながっています。

一方、意志は、知性が持つ(知性のはたらきかけから生まれる)欲求なのであるから、知性の実践的判断を内包することができる欲求です。つまり意志は、個々の感覚能力が持つ欲求のように単純な相を欲求ではなく、多様な相手をもつ欲求なのです。

その場合、意志という欲求がただの欲求ではなく、知性の判断を取り入れた欲求だとすれば、意志がはたらくときに関わる徳という側面を視野に入れなければならなくなります。つまり、正しい、あるいは、良い意志とは美徳(欲求)をもった意志であるし、反対に不正な、悪い意志とは悪徳を持った意志(欲求)ということになります。スコトゥスは、そのような徳の側面を見ていくために、アンセルムスが行った意志の分析を参考に、その用語を導入します。

その前に、アウグスティヌスは享受と使用という対比的な用い方をしました。それは、一方に欲求の真の目的があり、それを受け取って欲求がその目的を満たすもの、それを享受の対象とします。他方で、その目的を達成するための道具があって、それを使用する。このとき目的と手段を取り違えないということ、この態度が秩序を持った正しい生き方であり、良い意志がもつ徳であると言います。これに対して、道具に執着して、本来の目的を道具のようにみなしてしまうと、悪い、転倒した意志ということになります。例えば、金銭は交換の道具に過ぎないものですが、それを集めることを目的としてしまうのであれば、その意志(欲求)は、「享受すべきものを使用し、使用すべきものを享受する」という、転倒した意志、すなわち悪徳を持つ意志ということになります。

9.友愛と肉欲のごとき欲求

この享受と使用の対比は、目的と手段のようなものです。そして、アンセルムスには欲求の働きに関する対比があります。「友愛の欲求」と「肉欲のごとき欲求」です。全社は目的に対する愛であるのに対して、後者は手段に対する愛という区別です。

スコトゥスは、この「友愛に対する欲求」を、「わたしが愛するものに善を求めるとき、私はその対象を友愛の欲求で愛している」と言います。つまり、相手の幸せ(相手が良ければ、それだけでよい)を純粋に求める、というのが友愛の愛(欲求)です。他方、「わたしが別の愛されるもののためにある対象を求めるとき、わたしはその対象を肉欲のごとき欲求で愛している」と説明します。人は本来愛すべき対象を表向き愛する仕方で、他のものを本当は愛して、愛すべき対象をそのための道具とするとき、愛すべき対象を二義的な愛の対象にとしめている。このとき、人はその相手を「肉欲に似た愛で愛している」といいます。この肉欲に似た愛は、真の愛ではなく、見掛け倒しの悪い愛といえます。ただし、この「肉欲」は身体を土台にした欲求を意味するのではなくて、知性が持つ欲求であるということです。

つまり、知性にとっての目的は、精神的目的であり、高位の事柄です。それに対して、その目的への手段や道具は下位のものということになります。したがって精神的なもののなかでも下位のものは、上位のものから見て、物体のごときものと見なされます。それに準じて、上位のものについての愛から見れば、下位のものへの愛は、肉欲のごとき愛と言えるわけです。スコトゥスは「肉欲」とは言わず「肉欲のごとき」と言っているのは、そのためです。

したがって、精神的な欲求が、肉欲のごとき欲求と見なされることが起きるとしても、おなじものが、つねに肉欲に似たものと見なされるかといえば、そういうことではないのです。たとえば、知識欲は精神的な欲求ですが、最上位の神について、様々なことを知ることによって神に向かうなら、知識欲は目的に役立つ位置にあり、その愛は友愛の愛です。ところが、知識欲によって知識を得た結果、人は傲慢になることがあります。そのような愛は知的であっても下位のものに向かうかぎり肉欲に似た愛ということになります。名誉欲や支配欲も、この種のものと理解していいと思います。

10.正義を求める愛と便益を求める欲求

医師が求める徳についての理解を進めるものとして、さらにもうひとつの区別がアンセルムスにしたがって導入されています。それは「正義を求める思い」と「便益を求める思い」です。この区別も「友愛の欲求」と「肉欲のごとき欲求」の区別に似ています。とはいえ、必ずしも目的と手段の対比ではありません。「正義を求める思い」は、公的に正義の規範を保とうとする思いのことであり、「便益を求める思い」は、便利さや利益を求める思いだからです。したがって、この対比は相対的順位の対比ではなく、絶対的な区別です。正義は徳の根本だと見なされていますし、他方で、便益は自己の利益であるために、美徳とは言えず、正義の規範を超えて考慮されるべきではありません

スコトゥスは至福を求めることは、それ自体は肉欲のごとき欲求であって、友愛の愛ではないと言います。友愛の愛のみが真の目的を享受する愛です。したがって、肉欲のごとき欲求は享受する愛ではない。それゆえ、詩服を求めることはすべての人にあるとしても、だれであれ、その欲求に身を任せることらなれば、肉欲に似た愛しかもつことができなくなる、というわけです。

2018年1月23日 (火)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(17)

4.動かす始点となる実体

このときも能動知性を動かすものは何かという問いは、究極の始源である神にまで行くか、そこまで行かないとあれば。能動知性の段階で、「それがそもそも知性を動かす」というところでとどめる、ところから始めることになります。同様に、意志も自分で自分を動かす、というところに始点を置くことになります。

さらにスコトゥスは、感覚についても能動的な「感覚作用」と、それを受けて生まれる受動的な「感覚」を区別しています。

このように動かすものと動かされるものを区別していくと、同一の実体の中に多数の実体があるような言い方になってしまいます。そうなると、一個人の人間的実体のうちに知性の実体が二つあるのか、そこでスコトゥスは、様々なレベルで「形相的区別」を考えています。しっだいとしては同一のもののうちに実在的な区別がそれで可能になると言います。

5.感情と意志かす始点となる実体

このようなヨーロッパの言葉に対して、日本語の場合はどうなのでしょうか。

例えば「感情」について、うれしいとか悲しいという感情は、何かを受けて、という場合が普通です。だから受動と考えてもいいでしょう。怒りも何かのせいで、ということになります。ところが愛とか憎しみは、受動的なところもあるでしょうが、同時に何かを愛するとか憎むというという能動性も持っています。実際のところ、愛する、憎む、嫌うなどは欲求のはたらきであると言われています。したがって、愛するよろこびや嫌われる悲しみは、受動的ではありますが、愛することや嫌うことは能動的なはたらきです。

で、前章までのヨーロッパの議論を思い出すと、このような受動である感情を動かしているものは何なのでしょうか。

まず自分が求めているものが感覚に現われれば(それが感覚を動かせば)うれしいという感情が心に現われます。しかし、この感情に知性の判断が関わるでしょうか。過去の経験を思い出して、「美しく良いものに見えても害を受けることがある」と判断したとき、不安や疑惑の感情を持つ経験は誰にでもあると思います。ヨーロッパの論理では、知性の判断が引き起こす感情は、感覚の受動ではなく知性の受動ということになります。そして知性ないし理性から心が動きを受けたときに生ずるものは、知的な受動であって、むしろ意志の欲求につながる受動です。すなわち、知性の判断を受けて起きた怒りは、感覚的刺激を受けた起きた怒りとは、動かすものが異なる受動として区別されるのです。したがって、怒りや喜びや疑惑を、一様に感情とすると食い違いがおこることになります。強いて言えば、心に起きる受動は、感情ではなく、心情とでも訳して区別しておくほうが、理解の誤差は相対的に少なくなると著者は言います。

すなわち、心を動かして心情を生ずるものに、知性(理性)と感覚がある。したがって、心情については、それを結束する理性と感覚が対比される。日本では理性と感情が対比されるが、ヨーロッパでは理性と対されるのは感覚です。では、このヨーロッパの理性と感覚の違いはどこなあるかというと、感覚には身体性があることで、感覚は身体的器官として考えられるのに対して、理性は特定の身体的器官にあるものとは考えられなかった点です。ちなみに、ヨーロッパの視点で感覚刺激に生まれる感情と対比されるのは、理性から生まれる意志ということになりそうです。しかし、一般的には意志と対比させるられのは感覚刺激で生まれる肉の欲求、すなわち欲望です。

6.理性的か感覚的か

感覚的欲求と意志的欲求は実際にうまくわけられるのか、と著者は問います。

これは、個別感覚と知的直観、感覚表象と知性の抽象の区別に似ています。例えば「愛」という心情や、そこから生じている欲求が、感覚的や肉欲的でないかどうか、理性的であるかどうか、あるいは神の愛や隣人愛かどうか、その違いは、そこから生じている行動、それについての説明、その他によってしか判断することはできません。まして、自分の中にあるものは、自分に都合の良い説明を与えがちなことから、ますます見分けにくくなります。

ここでは、理性と感覚のはたらきから生じる心情(こころが動かされて生まれる思い)の違いに着目すると、欲求は、感覚的なものと理性的なものが対比されていても、それは認識における感覚認識と知性認識の関係の類似に合わせて、理解しなければなりません。つまり、感覚と知性は、認識において協働しているということです。感覚が先に対象に接し、そこから知性認識が可能になります。欲求についても、感覚と理性が心情という欲求の基盤を生み出すことにおいて対比されても、両者から起こる欲求の間には、必ずしも相互に対抗性が見られるわけではなく、むしろつながっています。感覚認識は理性認識に先行するので、感覚的心情は理性的心情に先行し、その心情から生まれる欲求は、同じように、感覚的欲求が理性的欲求に先行している。逆に言えば、感覚的欲求の意識(自覚)なしには理性的欲求の意識(自覚)もないわけであるから、両者のつながりは密接で、論理的な地平・文脈でしか両者を引き離すことはできないと言います。

7.罪の発現

スコトゥスによれば、能力があれば、それに見合った欲求が生まれることになります。視覚能力には美しいものを見たい欲求があり、嗅覚能力にはよい匂いを嗅ぎたい欲求があり、触覚能力には心地よいものに触れたい欲求があるといいます。同じように知性には真理を知りたいという欲求があります。そして認識の側面では、感覚がもつ認識に知性が持つ認識が重なってその区別が見えづらいように、感覚がもつ欲求には、理性ないし知性の能力から生じる欲求(意志と呼ばれる)がつながっていて、それらは互いに見分け難くなっています。

知性が持つ欲求に対して対抗性をもたない場合には、つまり知性の規範がその欲求と共に感覚的欲求に対してある種の規範を与えることがない場合には、感覚的欲求のままに知性の欲求、すなわち意志も働くことになります。このとき、その意志は感覚的欲求と類似して低級なもので、地上的なものを求める欲求になります。そしてそれによって罪が生ずると考えられます。

スコトゥスによれば、知性の欲求(意志)であっても、それ自身だけでは感覚の欲求にひきずられて罪が生ずることを止めることができないといいます。それゆえ、欲求とは別に正義の尺度となるものが心のうちになければならないということです。正義の尺度に諫められて、はじめて意志も単純に感覚の欲求に傾くことを止めることができる、と考えます。正義の尺度とは、一般に道徳と言われるものです。

2018年1月22日 (月)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(16)

第7章 意志のはたらき

1.「感情」と「意志」という翻訳語

スコトゥスの哲学の全体を理解する上で必要なのは、人間精神がもっている「認識」と、行動を引き起こしている「欲求」をどう見ているかです。実際、私たちが「認識」を吟味し、正しく用いるならば、人間として最良の行動をとることができるはずで、このことにスコトゥスとの違いはないはずです。哲学と同様、神学もこの目的をもつゆえに神学者としてこの目的のために、認識と欲求の理解をもっているはずです。

そのために著者は重要な用語においてヨーロッパと日本の間に横たわっている見落としがちな溝を任しなければならないと言います。例えば「感情」とか「意志」という言葉について理解にずれがあるといいます。

アウグスティヌスの『神の国』では、恐れとか悲しみとか喜びとかいった「感情」は「意志」であると言っています。アウグスティヌスによれば、「欲望」も、「意志」であると言っています。その後、トマス・アクィナスの一般的な意志の定義は「理性的欲求」になっています。トマスの場合には肉欲や欲望は意志の概念から外れています。この両者の間に「意志(voluntas)」という言葉の理解の変化があったということになります。元々この言葉は英語のwantにあたるラテン語から派生した。つまり、「欲求」を単純に意味していた。それがアウグスティヌスの時代です。そこに理性的かどうかの区別はありません。これが13世紀ごろ、おそらく十字軍のよびかけにおいて「神の意志」がとくに語られる際に、この言葉が頻繁に使用されたため、神にあると認められるのは高度な意味で理性的なものだけ゛からです。

その後、スコトゥスの時代には、理性のはたらきが強く意識されるようになり、意志はつねに「理性の欲求」を意味することになりました。一方、voluntasは人間の「自由意志」を意味して使用されることになりました。これはスコトゥスの主意主義の影響と考えられます。スコトゥスの場合、「意志そのものの発動」が「自由の根拠」です。それゆえ、「意志」と「自由」を切り離すことができない一致として、近代以降「自由意志」として定着して行ったとおもわれるといいます。スコトゥスにおいて、「欲求」は、感覚的か理性的かの間で、使用する単語を区別して表現するようになったというわけです。

2.心が動かされること─感情

この理性のはたらき自体は肉眼で見ることはできません。それゆえ、欲求が理性的であるかどうかの区別は目に見えて明らかというわけではありません。つまり、欲求が「意志」なのか「欲望」なのかの苦へ津は明らかではないということになります。それについて述べられる言葉(論理)によってはじめて見分けられるものなのです。

他方、「感情」はどうでしょうか。アウグスティヌスに戻りましょう。『神の国』においては「感情」は、「動かされたもの」を意味するラテン語motusが用いられていて別のところでは「(何かのはたらきを受けて)できたもの」を意味するaffectusが用いられていました。この二つの言葉は同じような意味を持ち、一般に受動と訳されます。とにかく何かに動かされるとは、はたらきを受けて、心に生じるものを意味しています。

古代や中世では、「動かす・動かされる」、つまり、能動と受動という視点は、心のはたらきを含めて世界を理解するための視点として、最も無重要な視点でした。アリストテレスにおいて、第一に自然の運動を理解するときに持たれた視点なのです。しかも、ヨーロッパの言語の文法においても、能動と受動は動詞には必ず付いてまわるものです。ことば(ロゴス)が論理(ロジック)であることは、ヨーロッパではつねに真理です。そのため、あらゆる事柄て、動かすものと動かされるものを腑分けしようと論理のメスをふるいました。

3.心の能動と受動

同じようなことが心のはたらきにも言えるわけです。能動知性と、そのはたらきを受けて動くのが受動知性、あるいは可能知性と呼ばれた知性です。知性はひとつですが、それがはたらく段で、動かす知性と動かされる知性に分離するのです。知性のはたらきとは抽象作用です。そこで抽象作用を起こすのが能動知性で、その像を受け取るのが受動知性と解釈されました。

同様の区別は意志のうちにも考えられました。スコトゥスより前の時代、カンタベリーのアンセルムスは意志という能力の原初的状態を動かすものと動かされるものという関係で考えています。意志という能力は、それがまったく何の動きももっていないときは、何もないに等しい。それが動き始めるには、それを欲するように動き始めなければならない。つまり。特定の何を欲することができるようになるのは、そのような状態に自分を動かすことができるようになってからの段階である、と言います。

つまり、意志という能力も、それが単に在るだけの状態のなかで、意志はそもそも自分を動かすことができる状態になることが、恥目になっていなければならな。このような始動状態になってはじめて、意志は特定の何かを好む、あるいは嫌う、ということが可能になるということです。意志は自分で自分を動かすことができるようになるために、自分をまず動かすというのです。

知性のほうでも、能動知性の抽象作用は、感覚表象を対象にして能動知性が動くことで、それによって知性の内に受動知性が生じます。受動知性ができてはじめて知性は自分が抽象して得た認識を自分の中に受け取ることができることになります。つまりこれを準備段階として、知性の抽象作用が始まるわけです。それと同じように、意志の中でも自分を可動状態(理性認識を受けた後に一定方向へ動かすことができる状態)へ動かすことがまずあります。そして、始動した知性は、次に能動知性の抽象の結果に受動知性が動かされて、特定の何らかの認識(抽象認識)がおこるということ。それと同じように始動状態となった意志が、知性の認識を対象にして特定の何かに向かう意志のはたらき(欲求)を生ずる(発動する)というわけです。

2018年1月21日 (日)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(15)

3.個別経験と信仰

スコトゥスの、この主張は「思い出す」ことの意味の範囲を明らかにするだけでなく、知識と信仰の区別を厳密に基礎付けるものとなります。なぜなら、自分自身に実際に関係したことしか「思い出さない」ということは、自分自身が見聞きしたことしか本当は知らないということを意味することになるからです。スコトゥスは幾何学的真理でさえも、それを自分が理解することが出来なければ、その知性は信じているだけであり、それは信仰だと言います。

自分の個体的実体において経験する事柄の自明性において幾何学の公理が理解され、その公理の組合せ(証明の過程)の理解を通じて、例えば三角形の内角の和はニ直角、という真理が理解されるとき、そのとき初めてそれについての知識(科学)が成立する。もしも自分の経験における自明性抜きに、教えられた証明を覚えただけだとすれば、それは知識ではなく、たんなる信仰である、とスコトゥスは言います。知っているということは、思い出すことが真にできる点や線についての直接経験に依拠して理解ができているときだけです。それゆえに、信仰でしか持たなかった幾何学の知識は、本人に幾何学の理解をもたらすことはなく、一夜漬けで公式を覚えただけの思い出は、幾何学の理解には役に立ちません。

4.「近接するもの」と「離れたもの」

スコトゥスは、記憶のうちに、一般的知識を「離れたもの」として入れている。そして本来的に思い出すことができる自分の経験を「近接したもの」と呼んでいる。「離れたもの」も、「近接したもの」によって思い出されるし、理解される、と考えている。

5.信仰と科学

キリスト教の信仰の要諦となる『新約聖書』には、ある特殊な空気が漂っていると著者は言います。それはキリストを「近くに」経験し、思い出していた信徒という人々の持った思いが信仰として、キリストの教えと共に保存して行こうという空気です。キリスト教文化の外にいる我々は、その教えが自分をどれだけ苦悩から救ってくれるか、ということがキリスト教の信仰の要諦であると考えてしまいます。しかし、『新約聖書』の半分は、自分たちの思い出を語る使徒たちの私信なのです。こんなものは、仏教にはありません。

キリストという人物が十字架で苦しみ、殺された事実を自分の経験として持った使徒たちのショックは、計り知れないものがあった。それがその使徒たちの私信の姿で聖書の中にあります。この人たちの思いは我々の理解を超えたものであり、理解できないものは、それを近くで経験していない人に口で伝えても、中途半端な知識としてしか伝わらないものです。それをふつうなら諦めるところを、使徒たちは諦めることができなかった。だから、キリスト教の信仰というのは、この無理を通そうとする熱情が貫いている、そういう特異さがあると著者は言います。しかし、スコトゥスも認めているように、キリストの存在を後の人は誰も思い出すことはできません。それは誰にとっても「遠く離れた」事実なのです。その「遠い」事実を、「近い」経験に基づいて、理解に近づける努力をする、つまり、「遠い」対象を、現在の自分がもつ自明的経験によって、理解の対象に近づけるのが神学なのだ、と言います。

信仰は科学ではありえず、神学もそうです、そのことをきはっきりさせるのが、自分が思い出すことのできる範囲に信仰があるのではない、という事実です。神が世界を創造した事実も、キリストの出現も、その十字架も、私は思い出すことができません。それゆえ、それは科学にはならないわけです。ただ、生きたキリストを思い出した使徒たちのことばを、信者は信じ、その記憶を懸命に伝えるだけなのです。

しかし、この信じていることがらは、ことばにされたものであり、ことばは抽象された世界にあって、論理をもっています。そして、信仰箇条は、カトリック教会の信者によって、広く普遍的に、事実として信じられている事柄です。それゆえにそれは知の吟味を受けるだけの普遍性を持っています。それの知的な吟味をしてきたのが神学といえるので、その点では科学に属するのです。

6.三様の「思い出されるもの」

「思い出す」と述べられて事柄について整理してみましょう。

第一は、「理解したことがら」を「思い出す」ことです。これは、事柄を覚えた、ということではなく、自分の中でいったん理解したこと、真の知識としたことを、後になって再度繰り返して得るということです。

第二は、「自分の行為、あるいは自分の直接の経験から覚えたもの」を「思い出す」ことです。経験があり、自覚があるのだけれど、理解には達していないので、思い出す内容は、理解ではなく、理解のもとになる事実(直接の感覚認識、それを裏で捉えた知性の直観認識)です。

第三は、「聞き覚えたこと」を「思い出す」ことです。これは自分の経験ではなく、ただ他者から聞いたことを思い出すこと、記憶の伝承と言えます。他人の書いた本で読んだこと、マスコミの情報で知ったことなどです。キリスト教信仰は使徒の信仰を正確に伝えるものですから、この部類に属します。

スコトゥスは信仰内容は第三の思い出に属し、自分の経験をもたないゆえに神学を科学として形而上学の上にあるものではないと言います。むしろ端的に科学からは見えないところに神学があると言います。

他方で神学は信仰のみで成り立つものではなく、信仰であれ、他の知識との関連において信仰内容が様々に解釈されるところで、新工にも真偽の疑いが生ずるからです。そこに知性による批判や吟味が入る余地が生じます。例えば、神の三位一体に誤りがなくても、それを人間的経験に基づいて云々するときに誤りが生ずるものです。そこで誤りをおそれて解釈しなければ信仰は実際生活に応用されず、神が人に求めている信仰の意義を失うことになります。つまり信仰は、実際生活に生かすことなく唱えているだけでは済まされない事柄であることを認めるならば、知の吟味は必要不可欠ということになります。

このときの人間の経験の土台は何かというとき、スコトゥスは従来の慣例を捨てて、いま現在生きているわたしの個別経験、すなわち、個別感覚に生じた自己の個別的経験=思い出せることを、自然的理性の科学の土台に据えたのです。それがアリストテレス以来の伝統から離れるということで、この点で自然的理性の科学は信仰と峻別されるのです。

信者の誰も、聖書に伝えられている事実を、生きている私の体験として思い出すことはありません。一方、自然的理性の科学の場合は、つねにどの個人であれ、一定の条件さえあれば、その科学を形成する土台となる経験を個別感覚において、見る、聞く、嗅ぐことができます。つまり実験と観察が近代科学の土台です。そしてその経験をひとたび得たなら、それを思い出すことができます。スコトゥスによれば、その内容だけが、自然的理性の諸科学、倫理学、自然科学、政治学、形而上学を成立させるのです。

スコトゥスはこの明白な事実によって自然的理性の科学を、信仰から、また信仰に基づく神学から明確に区別することができのです。

2018年1月20日 (土)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(14)

第6章 科学と心のはたらき

1.精妙な秩序の感覚

第4章ではスコトゥスの「現前直観」を説明した。我々がふだん感覚のはたらきとして受けとめているはたらきの裏に、実際に感じ取ることはできないが、よく似た知性のはたらきがある。つまり、個別感覚のはたらきの裏に、知性の現前直観のはたらきあり、感覚表象のはたらきの裏に、知性の抽象のはたらきがある。つまり、五感が感じているとき、同時に知性もそれを受け止めているし、感覚が表象をもつとき、同時に知性は概念をもち、さらにそれに対応する「ことば」をもつ、ということです。

それは同時に、個別感覚なければ知性の直観はないし、感覚表象がなければ知性の抽象はないということも意味していました。過去の認識を思い出す局面で、感覚のなかの記憶なしに知性の記憶も働かない、とスコトゥスは主張しています。これは感覚部位のはたらきなしに知的な部位のはたらきはないと言っているのと等しいことになります。

しかし、スコトゥスは感覚の直観なしには知性の直観ないことを主張していますが、それは知性が感覚に依存することを意味しているわけではありません。ただ、人間は身体器官をもつことで知性の感覚器官を認識の入り口としていることを意味しています。スコトゥスは感覚と知性の関係をこのように見ることによって、感覚と知性は明確な秩序、すなわち、同類の認識能力としてより不完全(感覚)とより完全(知性)、という秩序を保ちつつ、そのはたらき、直観と抽象において、同様に比例的な類似性を持つことを明らかにしました。

このことによって、゜かガクは感覚の所有物ではなく、知性の独占的所有てせあることは従来と変わらないことになります。したがって科学の優位性は揺るぐことはありません。そして同じく、感覚が身体の特定の部位にあり、知性は身体の特定の部位から逃れていると見なすことも変わりません。すなわち知性(精神)と身体の離在可能性も従来と変わらないということです。これによてキリスト教の教義に反することにはなりません。

しかし、スコトゥスは、感覚経験は知的レベルをもつと評価しました。科学的経験はかつては知性にしか認められないものでしたが、この説明によって、感覚が認識するデータが十分に科学性を持つと納得できるようになったわけです。このことによって十分に吟味された実験データが、科学の発見として評価されることになりました。これが科学の進歩の可能性を開くことになりました。

2.個別経験の重視

スコトゥスには特異な想起についての考察があります。

彼によれば、「わたし」あっての想起であり、そこてせ想起されることは「わたし」の経験した個別の経験です。何かを思い出すということは、もっぱら自分の経験であって、他者の経験ではないという考え方です。私たちは、ふだん一般的知識の記憶と、個人の記憶を区別しないで考えています。これに対して、スコトゥスは、「わたし」を通じた想起のみを真の想起と考えています。したがって、スコトゥスは、ふだん私たちが使う想起という概念とは異なることを考えていたと言えます。

我々の常識では、他者の経験は一般化することによって、一般的な事柄として学び知ることができるとしています。私たちが親や学校から教えられることは、まさにこういうことです。それを学んでいるのは「わたし」であり、だからこそ「わたし」のなかに記憶として残ります。しかし学んだ「わたし」は記憶する当人であっても、記憶する対象内容からは消えています。学び、記憶する対象は一般的な事柄だからです。そこには「わたし」という個別の実体はありません。他方、自分の経験は、他者が知らない秘密をともなった個別の経験です。その内容から「わたし」の独自性、つまり「わたしのもの」であることは消えようがありません。このように、私たちは記憶する対象の内容で二つの場合を区別しています。これに対してスコトゥスは、一般的知識に対しても、記憶は「わたし」が聞くというような個人的体験に基づいているかぎりで思い出すことができるものだ、考えているようです。

例えば、スコトゥスは、過去を思い出すというときに、思い出すものは、過去にあったすべてではないことを指摘します。本人が知らないことは思い出しようがないわけです。さらに、たとえ本人のしたことであっても、本人が自覚できない事柄には、実質的に本人が知らないことですから、思い出すことはない。したがって、思い出されるのは、本人が自覚できた事柄、つまり、本人の理性と意志で行なわれた行為です。これを「人間的行為」と呼びます。自分の個体実体に基点をもつことを自覚できる事柄・はたらき・行為、それだけがスコトゥスの言う思い出すことのできるものです。

そして、自分の誕生や、世界の誕生について知っていることは、「知っている」のであって「思い出している」のではありませんし、通常、私たちは思い出すとは言いません。スコトゥスは「想起とは、想起するもの自身の過去の何らかの行為についての認識である」と定義しています。スコトゥスは、自分自身が自覚的なはたらきにおいて関わった過去の事柄でなければ。「思い出す」ことはないと言います。

例えば、学生が試験中に昨夜に一夜漬けで覚えたはずのことを「思い出せない」、あるいは「思い出した」というのは、ここで定義された「想起」には入りません。それは、知識を持つことができたかどうかは、知識を知識として理解できたかどうかであるからです。一般的に理解して、その理解を刻印した知性の中の像は、「想起」の対象ではなく、知ることの対象だからです。この場合、一夜漬けしたことを「思い出せなかった」学生は、昨晩、それを賢明に自分が覚えようととしたことは「思い出した」けれど、一般的に理解していたのではないから、知ることの対象である像は彼の知性のうちになかったのです。したがって、試験中に、彼は理解を得ることはできなかった。他方、「思い出した」場合については、昨晩の勉強で何らかの理解を得て、試験中に再度、理解を持つことができた。そこで一度理解が得られたなら、知性の内に一旦は像が出来うあがります。それはある種の習慣づけのようなもので、知性は、再度その理解を必要としたときには、一度得た理解をもう一度持つことが容易に出来るようになる。私たちは、これを試験に出ることを覚えたとか、「思い出した」と言います。スコトゥスに言わせれば、それは単純に覚えたのではなく、理解したのであり、思い出したというより、後で繰り返し理解する癖がついたことだと言います。理解したことでも、そのとき自分が理解したということで、そのような理解は本人の自覚的行為であるから、スコトゥスの言う思い出すとか想起の対象になります。自分が理解したことは思い出せるが、自分が理解していないことは思い出せない、これは当然のことで、理解する内容は一般的なことであっても、理解するかしないかの主体は私だからです。

スコトゥスは「想起の対象」として、理解の対象となるものを「離れた対象」と呼び、自分自身の個別の経験のほうは「近接対象」と呼んで区別します。

2018年1月18日 (木)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(13)

10.知性直観を想定する哲学的理由(1)

この現前直観について、スコトゥスは、死後、人間の霊魂は身体から離れるが、そのときに霊魂はむすびついていたときのことを思い出すかどうか、ということを課題として考えます。

「私は今見ている」とか「私は今聞いている」といった自分自身の行為についての認識は、自明な命題、原理です。この確実性については、原理についての認識が確実であるのと同様に自分の行為についての認識は確実であると判断することができます。当時の権威であったアリストテレスによれば根拠を求めて遡っていくことになるが、ある命題が原理であるということは、その命題が究極の根拠、つまり遡った始源であることを意味しています。そして、この始源の原理は自明であって、それ自身以外の根拠を必要としていません。

スコトゥスは、「私は今見ている」とか「私は今聞いている」といった自分自身の行為は、この自明な原理と同じように自明であると言います。なぜなら、自分の行為は、自分自身に対してもっとも手前にあるものであり、自分の行為を通じて、対象が知られるのであるから、自分の行為は、明らかに認識の「始め」です。したがって、始源の原理と同じように自明である、とスコトゥスは主張します。

さらに、スコトゥスは、この先はアリストテレスの権威を離れて独自の考えを展開させますが、自分の行為が必然ではなく、偶然であることは、それが自明であることの妨げにはならない、つまり、自分の行為が必然であろうが偶然のものであろうが、自明であるとスコトゥスは言います。スコトゥスによれば、人間の諸々の行為はその人の意志によるものであるから、原因からして必然ではない。スコトゥスによれば、人間の意志は自由であり、偶然に作用する。したがって意志による行為は偶然のものです。偶然からは偶然しか生じないし、必然からは必然しか生じません。とはいえ、必然にも偶然にも先後の関係があって、無限に遡れるわけでもなく、必ず始源があります。神学においては、通常、この始源は神です。世界の始源は神であって、けっして人間のなかの自分ではありません。

しかし、スコトゥスは自分の行為も始源のものであると言います。スコトゥスは自由意志のはたらきを理性認識と同等かそれ以上に重視します。ちなみに、ヨーロッパでは古代ギリシャ以来、自由が最高の価値と見なされていましたが、その自由が意志によって生じるか、理性によって生じるかによって、主意主義と主知主義に大別されていました。意志は理性的能力のうちにある欲求に分類されるものなので、理性による対象の認知が意志の働きよりも時間的に先にあることは大前提として主意主義も主知主義も共通していました。だから、両者の違いは、対象についての理性の判断が意志の自由の根拠であるか、それとも意志は先行する理性の判断がどうであるかにかかわらず、あるものを欲求するしないについて自由であるか、の違いということになります。

スコトゥスは主意主義の立場に立っています。スコトゥスは認識についても、最初の認識は理性の受動であることは前提の通りで、意志とは関係なく目を開ければ自然に見るという認識が始まり、その認識は見えてくる対象に心を動かされて起こります。だから受動的です。そして、それに促されて意志(欲求)が動き始めるとすれば、今度は意志によって特定の対象に向けて理性のはたらきが起こることになります。例えば、視野の遠くに狩りの獲物の影を見た時に、目を凝らして、そこに焦点を合わせて見ようとする。そのとき、認識は意志のはたらきの延長線上にあることになるので、認識であっても能動的と言え、一種の行為とみなしてもよいものです。

11.知性直観を想定する哲学的理由(2)

「私は今見ている」とか「私は今聞いている」といった個別知覚の確実性、つまり、自分が見ているかどうか、聞いているかどうか、ということです。その確実性の判断は知性が担っています。すなわち、スコトゥスがことばで論じている論理の局面は、知性の局面です。「私が見ている」ことに確実性がある、と彼が言っているのは、「私が見ている」をとらえているもの自身が、それが確実であるかどうかを論じている知性であることを、明らかにしているということです。

私が「私が見ている」という個別感覚を、知性で捉えていることがなければ、私は、その事態が確実であるかどうか検討するために、多くの場合を集め、知性がもっている自明な命題を通して、感覚経験を確実な知に変換することはしないだろう。なぜなら、感覚は、自分の認識が確実であるかどうかを心配したりしないから。ましてや個別感覚の経験を科学へ進めることなどと考えないでしょう。それやえ、知性は個別感覚が捉えている個別の感覚を捉えている。それゆえに、知性にも個別感覚がとらえるものをとらえる直観がある、と言わざるを得ません。

12.知性直観を想定する哲学的理由(3)

スコトゥスは認識対象の内容(感覚が認識するもの)と、認識作用(感覚作用)を通じて、その両方について知性が直観をもっていると考えます。例えば、「私が見ている」とき、知性は、その作用状態を直観しているし、視覚を通して「私が見ている」ものを、視覚が捉えていると同時に、知性は、その対象を直観している、ということです。

つまり、感覚の働き(感覚作用と認識内容)は、そのすべてについて、知性が背景にいて認知している、ということです。それゆえに知性は、十分な権利をもって感覚経験から命題を形成し、推論して結論を得ることができる、スコトゥスは、そう論じています。

このスコトゥスの認識論は、感覚経験から知性が扱う命題を形成できる根拠を作ったものです。これ以前の認識論では、個々の感覚経験は知性の扱う確実な命題形成に参与することができないとみなされていました。実際、古代のアリストテレスなどの権威の知性の吟味に耐えた過去の経験だけが、知性の扱う命題として論じられました。過去に吟味されたものだけが知識として吟味される視覚をもっていたのです。しかし、スコトゥスによって、普通の人間の新たな感覚経験が、本人が知性の中に持っている自明な命題を通して、確実な命題(知識)として成立する可能性が証明されたわけです。アリストテレスが知らなかった新たな科学命題が生まれる可能性が示されたわけです。

2018年1月17日 (水)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(12)

8.科学は知性の所有

スコトゥスは、知性自身に明瞭でない直観を秩序の相似性などというものによって証明したのか、そんな知性に直観があるなどとしないで、直観は感覚だけのものとすれば、それでよかったのに、と現代では思われるかもしれません。知性に直観があるとわざわざ言わねばならなかった理由は、当時の科学のあり方によるものです。

科学は知性の所有するものでした。科学は永遠的な常識であり、そこには時間的存在をもっぱらとする感覚の出る幕はなかったのです。また、科学とは確実な知性認識であると考えられていました。科学は誤りやすい感覚とは離れた知性世界の出来事の記述で、知性の認識は科学に合致する普遍性という性質をもっていると考えられていました。当時、科学は感覚に関わることができないもの、科学は知性の所有であったというのは、そういうことです。

しかし、それでは感覚経験は科学にとっては、ほとんど無関係なことになってしまいます。これに対して、スコトゥスは、「多くの場合に、云々」という知性のなかで気づかれずに存在する自明な命題を見つけています。それを通して、多数の事例を集めることによって感覚の錯誤を取り除き、感覚経験を確実なものにすることができる道を見つけました。つまり、感覚だけではたしかに確実性を得ることはできませんが、知性のはたらきと共同することを通じて、り感覚経験は確実な知となることができる、とスコトゥスは証明したのです。

しかし、感覚と知性は平等な能力ではなく、優劣の明らかな能力です。このふたつの能力が共同することができるためには、このふたつの能力の間に十分に密接な関係がなければなりません。知性にも直観があるとすれば、科学を所有する権利をもつ知性が、個別感覚の情報にぴったりと寄り添うことができる。なぜなら、知性にもしも直観があるのなら、個別感覚が実存する対象のむ認識を持つとき、その裏で、知性も個別感覚を通じて対象の現前を捉えて「それが実存している」という認識を持つことができます。そうであるなら、知性は個別感覚の認識の内容を、捨象せずにもちことができます。そして、知性が個別感覚の認識を自分の認識として持つことができるなら、知性は十分に個体の個別的自要件を入れて科学知を持つことができる。スコトゥスが知性に直観を求めたのは、このような考え方からだったと思われます。

9.知的直観を想定する神学的理由

このように知性に直観があるという、当時としては新しい主張。しかし、古代中世は伝統の時代です。この時代、古来ということが真理の重要な要素でした。なぜなら真理は永遠のものだからです。真理に新しさはないのです。近代以降の、実験を通して実際にこれまでの理論では説明のつかない新たな事例が発見されるか、あるいは、発見されている事例についてこれまでの理論が十分対応できないことが明らかであれば、当然「新理論」を唱える理由がある。そして新理論は科学の進歩を促す。そうではなく、前者の場合は悪魔に出会ったようなもので、かろうじて後者の場合に、新しさを隠しながら新理論を成立させていました。

ところで、知性の直観、それ自体はかげに隠れたような状態でしか想定できないことになっています。それは言葉で指示できないのだから知性が持つ直観を確実な仕方で見つけられません。直観の知覚は感覚の像でもないし、個別感覚に現れてもいないものだから、感覚の中にも見つけることはできません。とすれば、認識能力自体からは見えないそんざいということになります。

スコトゥスがこのように知性の直観を感がなければならない場面とは、信仰上のものです。聖書には「顔と顔を合わせて」神と会うことが死後にあると約束されています。キリスト教信仰では、この神と会うことが、もっとも幸福な出来事とされています。神と会うときにもつ認識は「現前認識」だとスコトゥスは述べています。明らかにこの認識は新工場のものです。したがって、知性の現前認識に関して、スコトゥスは根拠を信仰に置いているわけです。それゆえ、スコトゥスの直観説は神学上のものと言えます。

2018年1月16日 (火)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(11)

5.感覚の直観と抽象、知性の直観と抽象の相似形

スコトゥスは、人間のもつ感覚と知性をアリストテレスにしたがって区別します。しかし、感覚と知性にそれぞれ直観と抽象を振り分けるのではなく、感覚と知性のそれぞれに直観と抽象の両者がある、と見ます。

例えば、誰かと握手をしている場面。相手を人間の感覚像として認識しているのは、感覚の中の「抽象的な」表象です。知性は即時的にこの表象の像から「抽象」を起こして知性のうちに抽象された像を得ます。そしてそれに「人間」という「ことば」を当てます。このように、我々は反省的に、直観と抽象の仕方を区別することができないように、感覚のうちにある表象の像(可感的形象)と、知性のなかにある像(可知的形象)を見分けることはできません。そもそも知性のうちには具体性がないので、その点で実際には全く視覚像としてでしかないのです。

他方、具体的に手の平に感じている触覚は、触覚という感覚器官による「直観」です。またにこやかな笑顔も視覚がとらえる「直観」です。しかしその笑顔の微妙な違いから直観的に相手の心のメッセージを読み取るのは、知性の認識であり、抽象にもとづく即時的推論です。

一方、感覚のうちの抽象、すなわち、表象は、個別感覚をまとめるもの、と言われます。個別の感覚器官が捉えるものは、ばらばらの認識です。触覚からの情報内容と視覚からの情報内容は質的に異なります。しかしそれを同じ一個の実体から受けている情報としてまとめるはたらきが、感覚表象もっている一種の抽象なのです。例えば、ある人との握手の場面は、「その人」の視覚映像として記憶にとどめられ、同時に、触覚、におい、などがばらばらに記憶のうちにあります。これは異なる個別的な感化器官からの情報である以上、ばらばらなのは必然です。しかし同時にそのばらばらの情報は、視覚像が持っている「その人」と結び付けられます。つまり視覚が捉えられている位置に手の感触があり、においの来る方向があります。このように視覚像と触覚が結びつくのです。この結びつれるはたらきが、五感とは区別された感覚表象のはたらきです。

知性のうちの直観と抽象は、これと相似であると考えられます。ただし、知性が扱うものは「ことば」になるもの、何らかの「共通的なもの」です。それはまた、抽象された「像」です。そして「ことば」になるものとは、「論理化されるもの」でもあります。論理化されるはたらきは、知性のなかで最も知性的なはたらきです。ところが直観は、個別的であって共通的でないのだから、「そういうものではない」ということだけが特徴です。それゆえ、たとえ知性のうちにそれがっても、知性には見えない、と言わざるを得ません。つまり知性の直観内容は「ことば」にしにくいという点で、感覚の直観や即時的な感覚表象の像とう、わかりやすい像の裏に隠れてしまう性質のものです。

6.特定しにくい(感覚のうらに隠れる)知性の直観

表記する「ことば」は、知性のもった「概念」に対応しているのであって、感覚や直観に対応しているわけではありません。例えば視覚がとらうえる「白」であつても、その「白」ということばは、概念化されたものを指示していて、具体的な「この白いもの」は、誰かの指を使って指差されなければならない対象です。「ことば」が対応していない直観内容は、実際には、知性には視覚のように「見える」ということがない対象です。しかし「ことば」に対応していないからといって知性の直観を否定して、個々のものは「感覚するだけのもの」と言うならば、それはスコトゥス自身の説に反対していることにしかなりません。スコトゥスは、個々のものを直観するはたらきを、経験している中から析出しようとしたからです。

しかしながら、知性に直観を想定しても、事実上、それを指示することはできません。それが在る、とスコトゥスが主張することには、それ相応の特別な理由があったと考えなければなりません。スコトゥスが、この実際上は見分けがつかない知性の直観を、見分けなければならない、と考えた理由を、こでは考えてゆきます。

7.知性と感覚がもつ認識には相似がある

知性は概念化した後、この概念と、あの概念にと、それぞれの別の語を用いることで、それぞれを区別して認識することができます。しかし、知性は感覚とは違っているので、その像の違いを見るというような感覚しているのではありません。他方、個別の感覚、例えば視覚は、これとあれをを別のものとして見ていますし、触覚は触っていますし、嗅覚は嗅ぎ分けています。しかしそれについて各々を区別するだけの語はありません。そして表象像のほうは、視覚像を基盤にして結合するなかで、違いを感覚的に分けている(見分けている)。

知性は自分の対象を見ていないのであるから、頼りにするのは種々の語です。異なる語を足がかりに知性は思考を歩ませます。そして直観については、知性は対象を見ていないことになります。また、直観には、抽象がもつ種々の語もないので、知性のもつ直観は客観的に兆表となるものが何もないということになります。

スコトゥスは感覚と知性の能力を持ち出して、知性ののなかにある明白な「抽象」を、感覚のなかの「表象」に対応させ、そこから知性のなかの「直観」を、感覚のなかの「個別感覚」に対応させます。スコトゥスによれば、被造物のなかには広く相似性が見出される、という原則がある。少なくとも、相似性を仮定できる、ということを示すことで、スコトゥスは直観があるということについて合理性をもつことを証明できると考えていたようです。

つまり、スコトゥスによれば、感覚と知性は、認識能力という同類のもののうちのふたつであり、完全性において優劣があることになります。より完全な認識能力という点で。したがって、感覚のなかにある「直観」と「表象」のうち、「表象」が知性の「抽象」の不完全な形であるとすれば、感覚の中の「直観」は、より完全なかたちで知性うちに存在すると考えられます。

知性の抽象がことばによってしか分からない、というのに対して、感覚の表象は、像が見えることによって違いが見分けられることになります。言い換えると、知性の抽象でさえ、端的に言えば、見えないものであり、表象の像を借りて、見えるかのように、ことばにして語られるのです。それゆえ、知性の直観があってもそれと気づかず、個別感覚のうらに隠れて見えない状態にあっても、少しもおかしくないと言います。

2018年1月15日 (月)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(10)

第4章 直観の発見

1.科学論と直観説

13世紀後半の中世は、科学の規範はアリストテレスの科学だったと言われています。そこで、科学は「知性の抽象」を通じたもので、アリストテレスによれば、抽象とその吟味によって、はじめて人間知性はイデア世界(知の世界)に通じることができる。

彼の「質料形相論」はつぎのようなものです。アリストテレスは形相(イデア性)は質料に内在すると見ていました。そして、感覚は質料を直接対象としがちで、そのため感覚は偶然的真理しか捉えることができず、知性はそれに対して、質料のうちから形相を取り出す、つまり抽象する力を備えているという理論です。これによって知性は感覚との関係を密接にとりながら、イデアが存在する知的世界を渉猟できると説明しました。

その結果、ヨーロッパ中世の認識では、人間知性はもっぱら抽象を行うものであって直観をはたらかせるものではありませんでした。また、直観をもつ必要もなかったのです。もし、知性が直観をもつなら同じものを抽象で知る必要がないはずだからです。この場合、直観とは、知性がイデア界に存在する事物の本質を、抽象を経ずに直接みることです。その場合、知性は真理を知るために感覚を必要としません。

2.スコトゥスにおける二種類の直観と一種類の抽象

一般に、時間をかけて推理ないし思索を深めていく認識を人間理性は持っています。それとの対比で一瞬のうちに何かをひらめいたり、何かを認識する認識を直観と呼ぶことがあります。しかし、スコトゥスにおいては、抽象と直観の区別は即時的(一瞬)かどうかの区別ではありません。

スコトゥスの直観と抽象の区別はつぎのようなことです。直観はひとつには、「対象が実存する限りでの認識」であり、ひとつには、実存する限りで「現前することに即した認識」であり、他方、抽象は、「対象が実存するかどうか無関係に対象をとらえる認識」です。つまり、抽象は一種類ですが、直観には二種類あると言っています。その二種類を、前者「対象が実存するかぎりでの認識」を本質直観、後者「実存するかぎりで現前することに即した認識」を現前直観と区別します。対象の全体を、実存するかぎりですべてを完全に認識するなら、それを個別的に存在する本質(全体性)を捉える認識になります。これはまさに対象の本質を捉える認識です。「本質直観」であり、神や天使がもちうる直観と言えます。一方、実存することのうちで現前することに即している認識は、実存するなかで、個別感覚への現前の範囲の認識に留まります。つまり個別の本質までは捉えることはできないが、対象が現前して実存していることを認識できる、という知性の直観です。

これらをまとめると、第一に「実存するかぎりで」という言葉がつくのが直観であり、他方、「実存するかどうかは無関係」である認識が抽象ということになります。言い換えると事物が現実に存在するときにだけもっている様々な個別的条件を、はずさずに受け取る認識が直観であり、はずすことで一般化し受け取るのが抽象ということになります。事物の個別的条件とは、時間的空間的位置の特定性、つまり「いま、ここ」あるいは「一時間前のどこどこ」という条件であり、また事物自身がそのときその場所でもっていた個別性、具体性、属性等です。いずれにしろ「ことば」は、抽象されたもの(共通性・一般性)を指すことを本質としているので、ことばでひょうげんされるとき、すでに何らかのス形で抽象があるといえます。直観そのものを表現することは、ことばの性質上、実際には困難です。

3.直観と抽象の区別

我々は、自分の中で実行される「直観」と「抽象」を、その仕方(その認識自体がもっている様式)の違いから区別することはできないとスコトゥスはいいます。というのも、通常の人間には自己直観はないからです。自分がいまもっている認識が直観か、抽象か、それを判然と区別するためには、自己のはたらきを、それ自体として個別的に認識する直観が必要です。しかし、スコトゥスによれば、人間には自己直観はない(自分が何であるかつねに明白にわかっている、とう人はいない)

それゆえ、現実に直観と抽象を区別して考察するためには、個別的条件を勘案して、対象のもつ性質の違いによって考察しなければなりません。ところで、人間に本質直観はないので、考察すべき区別は現前直観と抽象の間です。したがって、直観と中小の区別は、認識の仕方の違いということができます。しかし、そのはたらきを直観する能力を持ち合わせていない我々は、その違いを、そのはたらきの結果生じてくる「像」によって区別する他はありません。したがって直観と抽象の区別は、それぞれがどのような「像」を捉える認識か、という点で理解する他はありません。

4.認識対象の像

実存するかしないかに関わりなく見える対象(抽象の対象)というのは、心の中に現れた普遍的な「像」です。

天使が本質直観の対象とする本質も「像」です。それは本質といっても個別的本質であり、個別的な像です。他方、人間的知性の抽象はその像を普遍的性格においてしか捉えられることはできませんこれに対して、実存するかぎりで現前して見える対象は、個々の視覚に典型的に見られるような個別的「像」をもちます。しかしこの像は、ことばにされくいもの、としか言いようがありません。否定しかいえない理由は、もともとことばが指示できるのは共通のものであり、それは一般性だからです。つまり抽象にんしはされるもののみが言葉によって指示できるのです。したがって、直観について指示できることは、具体性、個別性に属するものの、そのときどきに違ってくる可能性をもつものということです。他方、抽象によって得られる「像」は、一定程度であるにしても、反対に不変で普遍の性質を持つものです。一般的には、自然本性とか、あるいは簡単に本性とか本質と、呼ばれるものです。

2018年1月14日 (日)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(9)

6.自然的命題の真理の確実性

スコトゥスは科学の原理は真理の確実性を持たねばならないと主張します。それは人間が自然的に有している認識能力にみで達成できると主張します。当時は、ガンのヘンリクスは、アウグスティヌスの言葉から真理の確実な認識のためには神の援助が必要であると主張していました。人間が確実な真理を認識するとき、人間は持ち前の能力のみでは真理を確実に認識することはできず、神の援助が必要であり、その援助は目に見えない形で行われている。

これに対してスコトゥスは諸科学は認識の一種であり、認識の中で確実に真実であるであると主張できるものだけが科学を構成すると言います。したがって、人間の自然的認識が科学(真理認識)を確実にもつことができる。確実な真理認識のためには人間が持つ自然的能力のみで十分なのであって、神の援助を必要としない。

これは、科学認識の重要な基盤は個々の個別的事象の本質認識(抽象認識)にあるのではなく、それらをつないだ「命題」にある、ということです。個別的事象の抽象認識は、感覚表象からの抽象であるために、たしかに感覚の欺瞞性の影響を受けるおそれがあります。例えば「あそこに見慣れない影が見える、お化けかもしれない」という認識は個別事象の個別的状況下の認識です。スコトゥスはこのような認識は科学とは関係ないと見ます。科学の認識は「ふたつの異なる線の間にはただ一本の直線が引ける」という種類の認識です。つまり、スコトゥスは科学命題の真理性は、分を構成する複数の単語の組合せのレベルにあり、この組合せは知性によってのみ行われる作業だから、感覚の欺瞞性の影響を受けずにいられる、とみなします。

スコトゥスは、知性は感覚認識を「機会」として真理を認識するのであって、感覚が知性の真理認識の原因になっているのではない、という言い方をします。つまり真理を認識する必然的原因をもっているのは命題を把握する知性であり、感覚は真理をもたらす必然的原因ではなく、たんに知性が真理を把握する機会となっている、つまり、個々の感覚認識は知性の真理認識にとって偶発的契機であるにすぎないといいます。科学の真理は命題文にあって、個別の事象にはないといいます。

7.真理の明証性

スコトゥスは、真理の根本性格は知性に対する明瞭性とか明証性(英語で言えばエヴィデンシー)という立場に立ちます。明証といえばデカルトが方法的懐疑で求めたものです。スコトゥスは、人間的知性に対しては明証、天使の知性に対しては判明というように使い分けています。

スコトゥスは、ふたつの「白いもの」を同時に把握した知性はそに類似性の関係を必然的明証的に見る。それゆえに知性の中で一挙にひとつの命題が構成されます。「白いものと白いものは類似している」。この命題は「白いもの」という単語、「類似している」という単語の二種類の単語によって構成されています。この命題を複数の単語から組み合わせた知性は、自分が把握した単語自身から、この組合せの一致、つまり真理を明証的に把握している、と言います。知性が自分の中で明証的に真理を把握する、ということは、他者からの強制によるのではなく、自身でそのことを納得するほかない、という知性の状態です。

8.経験命題の真理の保証

我々個人が経験するものは、偶然的に出会う事象です。人ひとりが経験できる事象はすべてにはなりません。また常にということにもなりません。しかし真理とは、常にどの場合でも成立していなければなりません。それが普遍的命題です。しかし、有限の数の経験しか持てない人間は、どうやって普遍的認識を得ることができるのでしょうか。そこで、スコトゥスは個人が経験できる多数からすべてを帰納できると言います。

その根拠として「なんらかの自由でない原因によって多くの場合に起きていることは、何であれ、その原因の自然本性的(必然的)結果である」という命題です。この命題は自明すぎるので、自覚されず知性の中に眠っているといいます。この「自由でない原因」とは「意図をもたない原因」のことで、何ら意図をもって働くことがないものが、何らかの働きをしているとき、しかもそれがいつも同じような結果を引き起こしているのを経験したなら、そこには自然本性的原因があってその原因によってそれが普遍的に生じている、と結論することがゆるされる、とスコトゥスは言います。

例えば、ある病気にある植物が効くことが多数の経験で確認されて、その植物の何らかのものが病気を治す原因になることが普遍的に認識できることになるということです。しかし、そうであったとしても、なぜ効くのかということが原因などが人間知性にといって自明になっておらず、これでは明瞭さがない最低レベルの科学認識にとどまる。その原因が解明され自明な原理に到達したとき、スコトゥスは、はじめて真に科学認識が成立するといいます。

9.感覚認識の信頼性

古代以来、感覚認識に対する不信がもたれていました。感覚には錯覚というものがあるのは事実ですし、誤認が生ずる原因は感覚にある、と常識的に考えられていました。

スコトゥスは、感覚は一回限りであれば判断を誤り易いところがあるが、繰り返し確かめるなら、つまり多数の場合をつき合わせるならば、前述の「自由でない原因」の命題を根拠にして確実性を持つ知識をえることができる、とスコトゥスは言います。

10.知性に認められる「直観」の問題

以上のように、スコトゥスは感覚を科学の基盤として受け止める道を開こうとしています、しかし、それと同時に価格だけでは科学は成り立たないことも明らかにしています。すなわち、知性のうちに起こる自明な命題を科学はよりどころにしなければならない。しかし当時の感覚認識に対する不審は強かったため、知性がもつ自明な命題だけでは科学知識の命題の根拠としては不足でした。彼が知性の直観を持ち出すのは、そのことと関係があります。

2018年1月13日 (土)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(8)

4.トマス・アクィナスの場合

同様のことはトマス・アクィナスの存在証明にもあります。

彼が第一の証明としてあげているのは、運動による証明です。「なにかが現に動いている。それは何か別のものがそれを動かしているからだ」というのは、アリストテレスの自然学によって説明されている運動論です。ものを動かしているものがあれば、それをまた動かしているものがある。しかし、この連鎖をどこまでも続けることはできない。なぜなら無限にそれがつづくとすれば、運動が結果するために無限の中間が必要になるからである。それがありえない限り、動かすものの系列を有限に辿ることで第一のものに達する。つまり究極の動かすものがある。トマスは、それが神であると言う。この証明もアンセルムスと同じ問題を抱えている。というのも、運動を物質的なものからどこまで離して考えられるか、という問題があるからです。

現代やアリストテレスは運動を物質的宇宙内部のものと見ます。これに対して、トマスや当時の神学的常識では、宇宙をはるかに超越して目に見えないものが神でした。したがって、トマスの証明した神が宇宙神(自然神)

ではなく、宇宙を超越したキリスト教の神と同等のものであると言えるのか、疑問が残ります。この証明をキリスト教の神の存在証明とするためには、運動が自然的宇宙を超えた存在についてまで通用することを、べつに証明しなければならないことになります。ここでトマスは、現実態と可能緯という形而上学的概念を用いて自然的運動を説明することで、運動は自然学的であることを超えてあることを示そうとしています。

それに対して、スコトゥスは、神を宇宙神と同等にしたままで神の存在を証明することはできないと考えていました。彼はアンセルムスの証明に条件をつけます。すなわち、「存在」と「無限」を知性のうちで組み合わせても、この組合せに矛盾がない、という印象が知性にあることです。スコトゥスは、これを確認することによって、「存在」概念の有効範囲は、有限の宇宙を超えて無限煮まで広がっていることが、知性においても自明となっていることを追加したわけです。宇宙は有限であり、「存在」はそれを超えて無限を内包できるとすれば、無限なものの方が有限なものより大きいと判断できる。それゆえ、神は、宇宙を超えた大きさの存在としてアンセルムスによって証明されている、ということになります。

しかし、一方でスコトゥスは、これでは十分なものとはいえないとして、もっと明確に、神の概念は、その概念が含むものすべてを含めて、信仰を前提にしていると主張します。神の存在も、神の善も、すべて信仰を前提にしてはじめて宇宙を超越した概念であることを主張します。それゆえ、スコトゥスは、神の存在証明を神学的なものと考えます。自然理性による神の存在証明は、キリスト教の神の存在証明にならないと認め、結果的にスコトゥスは自然理性の限界を見て、その効力の範囲を狭めることになりました。

5.スコトゥスにおける自然科学の独立性

スコトゥスは哲学の範囲を自然的なものに限定しました。しかしだからといって、スコトゥスは他の諸学に対する神学の権威を強めたわけではありません。スコトゥスによれば、哲学はアリストテレスが規定しているように他の諸科学に対して上位にあって、一部は従属関係にあるが、神学に対しては、従属もしていないし、させてもいないと主張します。哲学と神学は別々に離れている、それぞれに独立している。それというのも、どちらも相手から原理を借りてきていない。神学の原理は信仰であり、神からのものであり、超自然的なものです。これに対して哲学の原理は感覚経験、感覚表象からの抽象などの自然的なものです。

スコトゥスは完全な神学を神の知性のうちにある知であると考えました。しかし、そのことが神学が他の科学を従属させることを意味するわけではありません。神学は他の科学対して指導的であるにすぎません。つまり、それぞれの科学は独自の原理によって成り立っており、例えば幾何学の原理は線であり、公理であって、線や公理のうちには、天文学から借りてきた原理もなければ、信仰の原理から借りてきた原理もありません。したがって、幾何学は天文学を顧慮する必要はないし、信仰内容を顧慮することもない。他と関係ないわけです。

ただし、幾何学その他の科学は、その命題の中の概念を哲学によって吟味されています。したがって哲学ないし形而上学は、諸科学の科学性(真理の明晰性)に関して規範的関係をもっている。その意味で、哲学ないし形而上学は諸学の中の第一の学であることになります。しかし、他の科学を従属させているわけではありません。

このようにスコトゥスは学問を原理から構成される体系とし、原理の間に従属関係がなければ、学問全体にも従属関係はないと考えます。それは、神学と哲学の関係にもあてはまります。

2018年1月11日 (木)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(7)

第3章 近代科学の曙光

1.近代科学以前

中世は近代を産み落とした母でもあります。

科学が発見と進歩のイメージで迎えられるようになったのは、近代以降のことです。近代以前の古代においても、中世においても、科学は発見によって変化するものではなく、むしろ科学を研究していたのは哲学者であり、哲学者は、世界の本質は変わらないものであると考えていました。したがって哲学者は、本質的に変わらない世界を性格に説明する永遠不変の科学を追究していました。

中世を見ていてわかることは、発見が科学の発展に結びつくためには、じつは「発見が科学を変える可能性」をもつことを知らなければならなかった、ということです。

2.科学と哲学

古代中世のカテゴリーでは哲学が最高の学問で、知恵の学とも呼ばれ、専門諸科学は、その下に位置付けられました。その理由は哲学によって個別科学が用いる概念が吟味されてはじめて個別科学の知識が十分な厳密性を得ると考えられていたからです。現代では、数学と比べれば哲学が厳密な知識をもつとは考えられないと思いますが、古代中世では、数値的ないし比例的確実さより、宇宙的秩序において高度な概念を用いてその他の概念を説明する概念的組立のほうが確実視されていました。

現代では数量的な確実さがないと非科学的とされ、哲学は科学ではないと考えられています。しかし、古代中世では、科学の概念が異なるものであったので、哲学は最高の科学でした。神を最高の存在とする思想は、数学的確実性を絶対視するのではなく、神をもっとも近く語ることができる哲学・形而上学こそが最高の学問・科学と考えることに傾いていました。

一方で、これは論争によって知性か鍛えられ、精神が高められて人間は神により近い偉大なものとなる、と考える文化の伝統がありました。したがって、論争に用いられることばの論理がヨーロッパの知性のベースとなっています。同様に、科学の真理とは、論争する知性を納得させるもの、つまり、概念が明瞭かどうか、ということを基準として判断されていました。

このように西洋的理性は論争的理性という性格をもっています。したがって真理の基準は、それが論争に勝てる力、冷静に判断して人を納得させる力を持つ文(命題)であるかどうか、ということなのです。真理ということと、それを聞いた誰もが納得できるということは同じことなのです。古代中世では数量が論理の根拠になる事はなかった。絶対視されて居たのはことばです。聖書には「ことばは神であった」と宣言されていました。論争に勝ち残るのは数字による説得ではなく、一般的思い込みを含んだ当時の人々の日常の経験なのでした。

他方、個別の特殊な経験による発見(例外)が科学に影響を与えることはありませんでした。個別の発見は、それそれ自体としてみれば日常的一般性をもたないからです。当時の人々が普通に真実だと思っていたことが日常的一般です。一般の人々は数学的に見ていなかったので、数学的照明の信頼度は低かったと言えます。当時の科学の理論はも一般的に日常経験を説明しているもので、それに合わない事実の発見は、奇妙なことと見られるだけだった。当時の世界では、神によって起こる奇跡は当然あるべきことでしたし、悪魔も天使も本当にいると信じられていました。かれらはみな人間にはできないことをしでかすので、不思議なことがあっても、それを科学を進展させる動機にはならなかったのです。

3.神の存在証明の歴史から─アンセルムスの場合

カンタベリーのアンセルムスは『プロスロギオン』で神の存在証明を行いました。アンセルムスは神の概念から出発して、神が存在しなければならない、と証明しています。この証明は、一般には概念から存在の結論を導いたことで有名なもので、近代にカントが証明になっていないと否定したものです。

しかし、スコトゥスの基準で、この証明が神学的か哲学的かといえば、明らかに哲学的(自然理性的)と言えます。つまり、この証明には啓示が関わっていないからです。まず、アンセルムスは神を「それより大いなるものが考えられないもの」と定義します。の定義は彼の独創ではなく、古代ローマのストア哲学者セネカによるものです。したがって、自然学の概念ということになり、ここにキリスト教の信仰は入り込んでいません。

その後、アンセルムスは、「概念ないし理解」と「実在」の区別を明確にします。アンセルムスは概念と実在の区別を利用して神の存在証明を導き出そうとします。それは、概念だけのものよりも、概念であると同時に実在でもあるもの、概念が実在するものが「より大きい」という比較を、アンセルムスは主張しました。現在の考え方では奇妙に映るかもしれませんが、概念をひとつと見なして、実在をそれとは区別されるひとつと見なしたときに、概念だけならひとつですが、概念と実在を合わせると、都合ふたつになります。ひとつよりふたつが大きいのは言うまでもありません。それゆえ、概念だけよりも、同時に実在もする概念の方が大きい。当時であれば合理的に結論です。概念があっても、対応する実在があるとは限りませんが、実在があれば、それに対応する概念がある。このように考えるならば、概念だけのものよりも、実在しているものの方が必ずより大きい、ということになります。なぜなら、実在しているものは、知性がそれをとらえれば、実在と同時に、概念、ももつからです。

ところで、神はを「それより大いなるものが考えられないもの」です。そこで、どんなに大きなものより大きいものは、「より大きい」部類に属するのが必然です。この、より大きい部類のものとは、概念だけの部類のものではないでしょう。あきらかに概念だけでなく実在ももっている部類に属するはずです。これは、すでに述べた理由から明らかです。定義によれば、神はどんなに大きなものよりも、さらに大きなものです。したがって、「それより大いなるものは考えられないもの」は、概念だけのものではない。すなわち、どれをとっても、それより大きいものは、概念だけのものではなく、実在していることが必然です。それゆえ、アンセルムスによれば、神は概念としてあるだけでなく、実在している、と結論されます。

この証明は、概念と実在が区別されながら、「大きさ」の尺度が両者に共通に当てられています。そのことは、現在から見ると、おかしい感じられるかもしれません。概念の大きさから実在の大きさにワープしてしまっているのです。数量で規定されるものの「大きさ」と、言葉でしか表現できないものの「偉大さ」とが、混同され、ひとつにされているのです。

ただし、この証明の中に超自然的内容は含まれていません。定義はストア哲学者セネカのもので、出自からして自然学的です。これ以外の概念としては、実在の概念しか証明では使われていません。個々にはキリスト教の啓示は関わっていないと言えます。したがって、ここで証明されている神はセネカ、つまりストア哲学の神ということになります。ストア哲学では、精神的なものと物質的なものは分化していません。したがって。セネカがより大きなものが考えられないのは、この宇宙のなかで最大の大きさということになります。目に見えている宇宙そりものが宇宙であると同時に、セネカの神です。セネカは現実に実在する宇宙を神と呼んでいればいいのです。だから、このような証明は必要でないのです。

これに対して、アンセルムスは目に見えないものの存在を主張します。アンセルムスにとっては、神は宇宙を超えた、目に見えない存在なのです。もし、アンセルムスの神の存在証明が、キリスト教の神の存在を証明しているつもりで、実は宇宙大の神というセネカの神の存在を証明しただけだったしたら、アンセルムスは神の存在を証明できていないことになります。これによってょ梅慰しているのは、宇宙という大きさの神であって、宇宙を超えた神ではないことになるからです。宇宙の存在は自明ですから、証明の必要はないということになるわけです。

では、アンセルムスの証明は無意味ということになるのでしょうか。宇宙が客観的に存在すると主張する立場では、たしかにそうなるでしょう。しかし、すべては人間の主観であるという立場においては、宇宙の存在も人間の主観の投影に過ぎないということになります。その立場には、この証明は有効な説得を含んでいます。主観と見られる概念とは別に存在を見出す経験を、絵を描くという事例としてアンセルムスは示しています。絵を描ことしている絵描きは概念をもっているが、まだ描いていない間は、絵は概念でしかない。そしてそれを描きあげたとき、絵ははじめて存在する。アンセルムスはこの経験を指揮して、概念と存在は区別できることを明らかにしています。この主が有効であるなら、アンセルムスの証明は意味があると言えるというわけです。

2018年1月10日 (水)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(6)

7.スコトゥス神学の特徴

スコトゥスの学説として哲学史に紹介されているのは、次の三つです。

(1)神学は理論的な学ではなく、実践的な学である。(2)神と被造物に「存在」は一義的に述語される。(3)個別者を個別者たらしめている個別化の原理は質料ではなく「このもの性」と呼ばれる形相性である。

もっとも、このうち個別化の原理以外は神学の命題です。

8.精妙な博士の形相的区別

スコラ哲学の有名な学者たち、たとえばトマス・アクィナスは天使博士というあだ名をもらっていたように天使のイメージを与えられるのが普通ですが、スコトゥスは珍しく「精妙な博士」とあだ名されていました。これは、彼の神学の内容から生じたものと考えられます。

スコトゥスには「形相的区別」という独自の区別がありました。ふつうなら同一のものがもつ異なる側面と言葉で説明する論理上の区別を、あえて実在上の区別として立てるということです。

9.実在論のうえでの「区別」

スコトゥスの「形相的区別」は実在上の区別です。この実在というのは、現在では目に見える物体をイメージしますが、スコトゥスの場合には物質的なものばかりでなく思考の対象として客観的と考えられるべきことのすべてが実在でした。

この実在と対置される論理とは、実在を直接に指していない「ことば」、つまり言葉を分類して関係をつけるためにある用語、すなわち名詞とか動詞とかの文法用語とか、あるいは、種とか、類とかそういうものに限られます。

このようにスコトゥスは、実在に立脚していたという点では当時の有力な神学者たちと同じです。しかし、大概の学者はアリストテレスやアウグスティヌスらの権威が見出した以上の区別を実在的区別と名づけようとはしませんでした。これに対して、スコトゥスは、実在自体が持っている区別の細密化を、だれもしていないところまで徹底してすすめました。実在のうちにこれといって見出しにくい細密な区別であっても、実在の区別である、と主張しました。

中世では論理によって対象を分離すると言っても、その分離されたものが、論理によるからと言って必ずしも論理上のこととは限りません。実在の区別であれ、ことば上の区別であれ、論理によって区別するのが学問としての一般的なやり方でした。これに対して、スコトゥスが示した形相的区別は、論理によって実在を区別する中で、実在上ものと確定される区別でした。

10.形相的区別の必要

形相的区別のもとになる形相と質料の区別は、アリストテレスによる被造物のうちの区別です。したがって、形相と質料の区別は神に適用できないことになります。スコトゥスが形相的区別を導入した理由のうちで最大のものは、神に適用できる実在的区別が必要だったからということです。神は、唯一の実在であって、そのなかに被造物のような区分はない、というのがキリスト教の教義です。しかし、ペルソナの区別や、神の属性(神が持つ完全性の各々、たとえば、正義、善、美、真理など)の区別もキリスト教の教義です。神学のなかで区別されるし、教義上、そうしなければならない。つまり、これらの区別は人間の側の勝手な都合によってつくられた区別ではなく、神の実在に即した区別であると見なければならないとされていました。この必要性のもとに出てきたのがスコトゥスの「形相的区別」です。

 

2018年1月 9日 (火)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(5)

5.経験していない事実を真実と思わせる力

人間の自然的能力は、共通に各人に付与された能力なので、各人において類似の働きをするものです。白いものを資格が捉え、そこから白いものの表象が心の中に生まれ、それを能動知性が抽象して一般化を行うと、「白」の概念が、その「白」ということばとちょうど同じような普遍的な意味合い(理解)をどのちせいにも、もたらすことになります。

知性は、ことばが人々の間でもっている共通的基盤にあるものです。そのため、ことばとなっている概念については、それが自身の直接経験由来かどうか知るためには、知性は感覚表象に立ち戻ってみる(反省)ことが必要になる。つまり、白を見たのはどの時点のことか、思い起こしそれが明らかなとき、その概念の由来は自己の直接経験と判明します。あるいは、その反対に、自分が行ったことがない、つまり記憶にない景色を他者から伝え聞くとき、個々のことばについて自分のもつイメージを当てはめて自分の中で構成することはできます。しかしそれは本当に自分が見た景色ではないわけです。

しかし、自分が直接に経験してそれが本当だと信じきれることがらと、そうでない(自分の力では本当か判断できない)ことが区別できたとしても、知性の判断を「真である」という判断に傾かせる力がふたつあります。ひとつは「多数」であり、もうひとつは「権威」です。自分が直接にそうであることを知らない事実であっても、多数の人が「事実である」と発言しているのを聞けば、なおかつ、それが信頼できる人たちであるならば、人は「事実であろう」と判断します。また、その方面では知られた権威が、それは事実であると公言しているのであれば、人は「事実であろう」と判断します。実際、私たちはその出来事の大半を、直接に経験しているのではありません。これは、もともと「ことば」が公共的なものであるゆえに、そして知性というものが、自分が感じて生きる世界に限定されたものではなく、それを超えて広く世界を「ことば」を通じて捉える能力である故に、自然な傾向と言えます。

一方、啓示された事実は、中世ヨーロッパでは、多数の人々に知られた事実であったし、教会という権威が真実と判断している事実でした。したがって、そうした世界に取り囲まれているなら、知性がそれを「事実」と判断するのは当然と言えます。しかし、啓示は、どの時代の誰でも現実に追体験できるものではありません。追体験とは科学であれば追試、つまり他者による検証です。ある事実を発見した実験を、他の人も同じように、そのことに辿りつくことができれば、誰でも分かることになります。それによって一般性が確認されるわけです。ところが歴史の事実は原理的に追試はふかのうです。現場にいた人でしか体験できなかった事実だからです。スコトゥスは、このような点で啓示は自然的(科学的)でなく超自然的だと言います。スコトゥスによれば、信仰は「特別な経験」の伝承であり、その伝承の共有なのです。

つまり、神についての信仰される事実は自然的ではありません。しかし、それを事実として信じる傾向は、ことばを共有している人間知性にとっては自然的と言えます。

6.哲学者と神学者の区別

哲学は、世界や人間についての問い、世界はいかに在るか、人間はいかにいきるべきか(倫理的道徳的問題)、人間とは何か、人生の目的とは何か、など、直接目に見えないことがも含めた総合的視野を収めた原理的な問いに答えを見出すべく、批判的吟味を行う学問です。これに対して、神学は、さらに神に告げられたと信じられている命題について信仰まで総合的視野のうちに収めて、哲学の問いにも、また神についての問いにも答えるべく、批判的吟味を行う学問です。神学は、神に告げられたとされる事実を、人間一般が自然に経験できる事実を超えて視野に収めるために、哲学とはことなるといいます。しかし、その視野のうちで、人間にとって原理的な問いに答えるために徹底して批判的吟味を行うので、哲学との共通性をもっています。

実際には、スコトゥスの神学の中で、個別化の原理を扱っている論は、信仰の事実が本質的視野のうちにない。それゆえに、それを哲学的部分としてスコトゥスの神学から取り出すことは可能です。しかし、その議論の結論は、神学的問題において一貫して用いられる。つまりそういう部分も、それ以外の部分と緊密に一体化して、スコトゥス神学の体系の一部になっている。したがって、その区分は見分けなくくなっているのです。

しかし、スコトゥスは主著のプロローグの最初の問いにおいて、区別を果たすための視点を明確にする議論をしています。そこから考えると、スコトゥスにとって神学と哲学の区別は、ひたすらに神学は信仰の事実を事実として受け止めるということが必要ないし必然であるであるということ、そして哲学にはそれがない、いうことに限られることになります。

つまり、スコトゥスによれば、啓示がなければ導き出されない命題のすべてが信仰の事実から生まれた事実であり、自然的理性の事実ではない。そして信仰から導き出される命題が入った論は神学であって、哲学ではない。ところで信仰内容の命題は、かならずしも聖書の文言のかたちのままで神学的議論に取り入れられているのではないため、ある命題が神学的か哲学的かを見分けるためには、ある検討が必要になるといいます。

たとえば「神は存在者である」という命題は特別啓示の必要ある命題とは見えないかもしれませんが、スコトゥスによれば、神は自然的理性によって認識される存在ではない。すなわち、神は感覚表象からの抽象で認識できるものではない。したがってこの命題は啓示を必要としている命題です。このように啓示を通して直接に知られること(聖書の文句)だけでなく、そこから推論できることがらの全部が信仰内容ということになります。したがって、スコトゥスの論考の中で、どの論が神学的であるのかは一見しただけでは分かりません。前提となっている命題が推論される範囲にないかどうかを見極めて判断することが必要となります。

2018年1月 8日 (月)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(4)

第2章 スコトゥス神学の中の哲学

1.個別化の原理の哲学性

スコトゥスの特徴とされる学説には、「存在の一義性」と並んで、「個別化の原理」があります。後者について、スコトゥスは啓示的真理を持ち出しません。それゆえ、「存在の一義性」は神学説であるのに対して、「個別化の原理」は哲学(自然理性)の論です。

スコトゥスの「個別化の原理」の特徴は、トマス・アクィナスが個別化の原理を質料(指示された質料)であると述べているのに対して、スコトゥスが「このもの性」という形相性を主張した点にあります。

形相性とは、アリストテレスの質料形相論にもとづく用語で、形相ほど独立性はなく、実在的に他の要素と区別できるにもかかわらず、それだけで独立に実在することはできないものを指している。つまり形相のなかの一構成要素とも言うべきものです。したがって、スコトゥスの個別化の原理は、形相をこの形相に規定する力をもちながら、形相のうちにだけ存在することができる。あるいは、形相を前提にしてはじめて存在できるのだ、ということになります。

結論として、それは質料とも形相とも言えず、質料を「この質料」となし、形相を「この形相」とする存在性である、という落ち着きの悪い結論となります。これは、感覚的に自明な個別存在の領域を、質料形相論は明確に示すことができないとして、アリストテレスの質料形相論の限界を明らかにすることとなりました。このことは、個を重視する近代がアリストテレスの抽象論から離れていく契機のひとつとなりました。

2.人間は自己の本質、人生の目的をしることができない

スコトゥスによれば、人類にとって啓示ないしは聖書が必要であることは自然的には証明できない。彼は神学者として聖書の教えの必要性を主張するために、信仰命題を前提にする神学の立場で証明しようとします。(「信仰をもって説得する」)

スコトゥスによれば、人間は自然理性では、自分の本質が何であるか、どんなに論議してもわからないことになりす。言い換えると、人間は自己の本質を見る自己直観を持っていないことになります。同時に、自分の生きる目的が何であるかについても、わからない、つまり、自然的に知ることができないのです。このことは個別化の原理が何であるか結論できないことと合致していると言えます。なぜなら、個別の人間にとっての個別化の原理とは、その人の自己存在をきていしているものだからです。そして、この個別化の原理がしられていないゆえに、この原理によって特殊に規定された本質(神との個別的関係をもつ自己の本質)も、自然的には人に知りえない。

この意味で、人間は自己の本質を知りえない。それだからこそ、神が人間の必要をに応じて啓示を通してそれを明らかにしてくれた、とスコトゥスは言います。ここで、スコトゥスは、人間知性が自己の本質直観できることを否定し、人間の本質は、神が私たちに教えてくれてはじめて明らかになった、と言います。

スコトゥスは、また、私たちの知的能力は、特殊で固有の個別的概念を持っていないと指摘します。その概念とは、それを根拠にして「自分自身が何者なのか」、「自分は何のために行き行くべきなのか」などといったことを知ることができる概念です。それは人間個人の個別的本質概念です。そして、スコトゥスは、それを受け取ることができるのは、信仰を通してのみだ、と主張するのです。

4.自然的認識と超自然的認識の分別

信仰によれば、その内容はある預言者が神から受け取ったものです。預言者はそれを通常の「単語が組み合わされたことば」にすることで、他の人々に伝えられ、それが文字に写されて残され、伝えられてきた。人々がその文字を読むとき、文字によって「ことば」が思い起こされ、ことばは、ある事態やある理解を知性に引き起こす。このようにして、一般に、人は信仰をもつ、というわけです。

これに対して、一般に、人々は様々な経験とともに「ことば」を知ります。経験は感覚を動かし、知性を動かします。ことばは自分の経験と重なり合わさり、知性のなかに共通のイメージが「ことば」によって裁断されつつ、また経験によってつなぎあわされつつ、存在するようになります。すると、自分の経験が作り出したイメージをもとに、他者の経験が他者の言葉を通じて、自分のものになる可能性が生じます。

具体的には、自分の経験をもとにして、人はことばを通じて他者の経験を自分経験へと変えることができます。それゆえ、人は自分が直接経験できない多くのことがらほを学ぶことができます。この、他者の経験を自分の経験にする場面を通じて、自分の経験と他者の経験という、別々の経験の違い、由来の違いは、あやふやになっていきます。自分が経験して学んだことと他者のことばから学んだことの違いが失われていくのです。

それは、経験は、当初は自分の直接経験だけですが、「ことば」は他者から学んだものです。「ことば」を知ることは、他者がことばを学んだという経験を自身の経験に重ねて学ぶことです。実際、信仰もまた「ことば」を通じてもつ知性の共通世界にあります。この点では科学と同じです。そこで、スコトゥスは信仰の由来を超自然と呼ぶことによって、あえて自然的認識との違いを分別しようとします。

2018年1月 7日 (日)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(3)

8.哲学による「存在の一義性」の否定

スコトゥスは、哲学と神学のそれぞれの立場、立脚点の違いを明確にした区別を示しています。

この違いを哲学的に明らかにするために、「存在」の視点を持ち込まなければならないとしました。何であれ、どんなものも、何らかのしかたで存在するので、もっとも大きな述語の領域として「存在」を考えることができる。たとえば赤いものは赤の色をまとって存在するし、理性は理性のはたらきをもつ能力として存在します。いずれの場合も「存在する」という述語になります。

信仰においては、「存在」は何よりも「神」について述べられます。そのあと二義的に、私たちの周囲に見られるものについて「存在である」と述べられます。他方、信仰を抜きにすれば、まずは「感覚されるもの」について「存在である」と述べられます。この区別から、神学と哲学の両方を見てみると、信仰においては、神も被造物も、ともに「存在」ですが、信仰がなければ、感覚されるものから言える範囲、知性がそこからの抽象において認識できる範囲のものまでしか、「存在」ではない。したがって、信仰を持たない者にとっては、その範囲を超えた神は「存在」ではない。信仰を原理のうちに取り込んでいるのが神学であり、取り込まないのが哲学なので、「存在」として認知できる範囲の違いが両者の違いです。

スコトゥスは哲学の立場に立ち、「存在の一義性」は哲学の立場で言えることではないと主張します。感覚されるものと、されないものについて無差別的な存在である一義的存在。これは神学の命題であって、哲学の命題ではないといいます。ストトゥ巣は、信仰を前提にした神学と、それを前提にしない哲学を截然と区別しています。啓示の必要は神学者にとっては絶対のものであるのに、哲学は感覚からの抽象に頼るので、理解の外ということになります。したがって、神について神学者が何を言おうと、哲学者の耳は閉ざされています。哲学者にとっては自然のみで完全なのであり、自然を超えたものは存在しないのです。他方、神学者は、自然だけでは不足で不完全であり、自然を超えたものが必要であるという立場に立っています。したがって「存在の一義性」は哲学ではなく神学の学説なのです。

9.神学上の真理とされるもの

啓示された真理を受け取っている神学自体が自然的真理ではないと言うことになります。スコトゥスが述べている神学の実践性も、神学上の真理であり、存在の一義性も神学上の真理てあって哲学上の真理でないということになります。神の存在についても、一見、哲学的な論証が提出されているように見えますが、スコトゥスの神学において神存在の論証の土台となっているのは「存在の一義性」なので、神の存在証明が本質的に神学的な論証ということになります。つまり、スコトゥスにとっては、神の存在も哲学的には論証できないのです。

『神と世界の秩序についての論考』においてスコトゥスは、神の存在をきわめて精密に論証しています。それはまるで、神の存在証明は神学的ではなくて哲学的であるかのように見えます。しか、スコトゥスの議論がそういう印象を与えてしまうのは、彼が神学を科学(学問)としてしっかり立てるために、論議を通じて結論を得る作業(哲学の作業)をきっちりとしているからです。神が存在することは信仰によって決まっていることです。神学の使命は、哲学に通じる言語・論理によって、信仰の真理を「学問の真理」に近づけ、学問的に(言い換えると科学的に)明らかな真理の資格を信仰内容に与えることです。それが成功すれば、神の存在は「学問上の真理」という資格を得ることになります。それがなければ神の存在はたんなる信仰の真理に留まるだけで、スコトゥスは神の存在を、信仰の真理から学問上の真理とするために、神の存在証明を示していると言えます。

神学がそのようなことをするのは、信仰の真理が教会の世界を超えるものではないからです。神学によって神の存在が学問上の真理となれば、それは信仰の世界を超えて、宗教上の枠組みを超えて、国家においても一定の位置を得ることができる。国家の行政は法律の根拠を学問の権威から得ているからです。ヨーロッパにおいて中世後期の国家、あるいは近代国家の時代から、学問の権威は行政官によって権威をもって国家行政が実施されるためになくてはならぬものになっていました。したがって、神の存在が神学の研究によって学問的真理と認められることになれば、神の存在を国家の法律の背後に君臨させることができる。国家は法律によって運営の柱を得るのであるから、神の存在が学問的真理であると証明されるなら、神の存在を前提にした国家運営が可能になる。つまり神学はキリスト教国家の運営における思想的バックボーンとなりうる。それゆえ、神学の研究は国家に対して支配的権威であろうとする教会にとって、きわめて現実的な重要性を持ったものだったのです。

2018年1月 6日 (土)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(2)

5.信仰ないし聖書の必要性

生きる状況の違いを人類の歴史として見るキリスト教神学は、まず神やキリストの存在を証明し、キリスト教の儀礼を説明する他に、これらの状況の違いを超えて人間がいかに存在するか、いかに存在すべきかを一般的に説明しなくてはなりません。

スコトゥスも自分の著作でこの大きな課題に向かっています。その最初の問題で、人間は現今の状況下において、ギリシャから伝わる哲学以外に聖書は普遍的人間に必要なものであるか、と問うています。この問題は、現今の状況下における人間を考えるとき、罪に堕ちて生まれつきもっている自然本性を一方に見て、他方に、神からの啓示を伝える聖書を見る問いです。つまり人間自身の罪によって暗い淵に堕ちた人間の自然本性がもつ哲学と、聖書があって、そのふたつの関係は、どのような関係か、ということです。

聖書とは、直接には人類のごく一部に、ある時点で示されただけであって、すべての人に、どの時代の人にも示されたものではありません。それにもかかわらず、それは果たして、人類すべてに必要なものであると言えるかどうか。

スコトゥスは、新興の必要は信仰によってしか明らかにならない、と言い切ります。つまり、聖書の必要性は、人類に普遍的な哲学、あるいは理性の力で照明できるものではない、と明確に言います。言い換えると、キリスト教徒は自分たちがもつ信仰は人間であればだれにとっても必要であると信じているし、その信仰に基づけは、その通り、それが正しいと信じていい。しかしその正しさは、人類普遍の理性、すなわち、自然に受け取られている理性ないし哲学によって証明することはできない、と言います。

スコトゥスは自分が信じていることの限界を見定めていると言います。

6.トマスとスコトゥスの信仰と理性

トマス=アクィナスは啓示とは、神が無学な民衆にも神に至る道を教えるために示してくれたものだと理解していました。言い換えると、聖書は一般民衆に対する神の愛から出たもので、真に学のあるものは、自分の理性の力で聖書の自室内容にある程度迫ることができると考えていました。これはアリストテレスの倫理学など、人間の生きる道が信仰抜きに見事に論じられているのを知ってかんがえられたことでしょう。トマスの頃は、アリストテレスの形而上学を自然神学という名で呼んでいました。アリストテレスが神と呼ぶ浮動の動者を、神と考えることをトマスは否定していません。トマスにとっても第一動者だからです。したがって聖書を前提とした啓示神学と形而上学ないし自然神学の区別を判然とさせることは、難しくなっていました。

一方、スコトゥスの方は、形而上学を自然神学の名で呼ぶことはありません。また倫理学をアリストテレスに頼っていません。倫理学については、ストア哲学の考察を応用しています。トマスが学のある人間なら聖書がなくとも十分に倫理的な人間の生き方を見出すことができる、と考えたのに対して、スコトゥスはむしろ啓示の由来にとらえがたい神の無限意志をうけとめています。つまり哲学者たちの見出す教え以外に超自然的な教えが必要であるかという問いに対して、必要であるが、必要であることの根拠は神のみぞ知る、という立場なのです。

7.自然理性の哲学と超自然の神学の区別

哲学は自然的理性によると言います。この自然的理性とは、理性において自然的であるということ、つまり、理性が自然に知られることがらのみを用いて働くことです。どの時代の誰もが持つことのできる直接経験の積み重ね、反省、思索、批判的吟味、これらのみを理性が使うとき、理性は自然的と言われます。つまりそれ以外の特殊な経験は、自然なものとはみとめられないこと、そして自然なものだけで理性が働くことを、自然理性の働きと言います。

それに対して信仰は、ある特別の時代に、ある特別の人に聞かされたり、見せられたりしたことがらがあり、しかもそれは神を源とする、という伝道者のことばを信じることを含めて、生じたものです。そのことばはある地域、民族の歴史のなかで書物となり、キリストのはたらきを通じて人類共通の契約へと広く一般に開示されたと見られています。それが超自然的と呼ばれるものです。

ギリシャ哲学は人間を社会的動物であり、理性的動物であると定義します。これはだれにでも通じる普遍的な人間の定義です。他方、キリスト教信仰は、神から聞き伝えられたこととして、人間は神に似た姿につくられたものだと述べます。信者はそれを信じています。

また哲学は各人が相互に正義を論じ、国家を論じて個人を一般的に律する法律を形成します。キリスト教信者は、聖書とその解釈者に神の正義を訊ね、神の権威のもとに個人を一般的に律する道徳を陳べます。いずれも人間について、その根幹ともいえる事柄について、一家言をもち、権威をもつ。つまり人間とは何か、人生の目標とは何か、という問いに立ち向かい、それに対する答えを、哲学も信仰も、別々に用意しています。哲学者は論議し、神の信者は父祖からの教えを忠実にうけとります。では信仰を持っている神学者は、学者としては哲学者のように論議し、その一方で、信仰の真理を自然理性を超えた真理として受け取る。つまり神学者は、論議する姿は哲学者でありながら、その論議する内容や、結論する命題は哲学の扱う範囲を大きく超え出ているわけです。では哲学と神学は、どこで区別されるのでしょうか。

2018年1月 5日 (金)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(1)

第1章 『神と世界の秩序ついての論考』のプロローグ

1.作品と著者

この時代、「秩序」は哲学が一般に探求する「真理」と同義である。神が世界に与えた秩序が世界の真理だからである。つまり神によって創られた秩序が世界の真理だからです。つまり神によって作られた世界は、神とともに秩序をもっているけれど、人が真理と呼ぶのは、神が世界に与えた秩序のことです。したがって、哲学が求めるものは知識であり真理ですが、それは彼の神学では秩序に他ならないのです。つまり、この書は「秩序についての論考」ですが、「真理についての論考」と考えてよいのです。

ヒュームは、高尚な知性の認識と考えられていたものを引き下ろして、感覚的な性格のものとする認識論を唱えました。これに対してスコトゥスの方は、逆に、すべての感覚認識のうしろに知性を控えさせ、感覚認識に知性の力の保証を与えることで、感覚認識といえども正常な認識は知的認識と変わらない高度の信頼性を持つことを唱えました。この側面では、たしかに二人は対比的に意見を異にしています。しかし、全体として安定した秩序世界を求める傾向は共通しています。

ヨーロッパの古代中世の精神世界は、精神の届く限りのはるか上方から下界に至るまで、上下に秩序を固めている世界でした。平等の世界ではありません。近代以降のヨーロッパから発信され、現代の私たちが日常的に聞かされている民主主義の平等の理想によってヨーロッパを理解しようとすることは、中世を理解する上では全くの見当違いで、邪魔になります。神から下って被造物の天使、星空の天界に至り、そのあとは、月下の地上の世界の人間、動物、植物、物体へと、厳格な上下があって、どんなものでもこの秩序を超えることはできないと考えられていました。そして、れはある程度人間社会の秩序の見方にも影響を与えていました。そのため、民衆が騎士階級との間にある壁を超えることなども想像できない、と見られていたし、教会は、騎士階級に対して、教会が上位にあることを機会あるごとに示していました。

スコトゥスのこの著作のタイトルは、神が被造物に与えたその秩序の真の姿を正しく見極めようとすることを表わしています。ただし、だからといってスコトゥスは、人間社会がもっている階級秩序を絶対化する議論はしていません。人間は本来、無所有であった、というのが彼の立場だからです。そして現在のようになったのは、人類が罪を犯し、その原罪ゆえに所有が始まり、各自の所有のゆえに争いが生ずるのを抑えるために、人は法を定め、所有の権利が正義となったと見ています。要するに、現況の社会秩序は、歴史による真理と認めるのみである。したがってスコトゥスがこの著作で明らかにする秩序は、一部を歴史的真理(これも神が創ってきた)と認めつつ、世界に変わることなく普遍的に見出される真理や、秩序の頂点にある神の真理をもっぱら意味する。なぜなら、神がその自由な意志によって創ったのが、この世界だからです。

3.神学は総体としてあること

神学思想は、それが視野に収めている「総体」として成り立っています。人生の思想は、たとえば人間の生きた体が様々な部分の総体として成り立っているように、人間が生きていこうとするとき「自分自身と目前に広がる世界の全体」を相手にして、それを心のうちで受け止めるべく「ことばの世界」として自立していかなければなりません。したがって神学思想は、信仰をもって生きる人間がこれから自分の生きていく場の「全体」を視野に収めて現実の社会のさまざまな疑問に答えうるものでなければならない。それゆえ規模の大きなひとつの体系でなければならないということになります。

4.人間はどこから来てどこへ行くのか

スコトゥスの作品『神と世界の秩序についての論考』にはプロローグがあって、その最初に置かれている問題は、「現今の状況の人間には超自然的に啓示された教えが必要であるか」となっています。啓示された教えというのは、聖書の教えと、その教えを間違いなく理解するための教会の教義です。それゆえ、この問題は、言い換えれば、教会が教える聖書の教えは哲学とは別に人間の救いに必要か、という問題です。つまりスコトゥスの神学は、過去の哲学の歴史的検討から始まるのではなく、キリスト教の神の啓示をどのように見るか、から始まります。

この啓示の必要はキリスト教の信仰にとっては前提であり、きまりきったことですが、神学はそれをあらためて哲学的に問題にすることで、それを当時の科学の立場で学問的に明らかにする作業なのです。

この問題文の中には、「現今の状況」ということばがあります。キリスト教では、過去に人間が置かれてきた状況、未来に置かれるであろう状況に、いくつかの異なる状況があるといわれています。それ、聖書を通して知られるさまざまな状況です。

2018年1月 4日 (木)

ベスト・セレクション再び

 今年最初の投稿は、このごろやっていなかった昨年のベストセレクションを、またやってみたいと思います。簡単に。昨年は、単行本では75冊ほど読みました。その内訳は、ビジネス書と、その関連の経済や社会をテーマとしたもの、趣味の音楽や映画の関係のもの、そしてそれらのベースとなるような思想・哲学に関係するものなどです。ここ何十年もその傾向は変わらないままで、偏りが固定化してしまっています。新刊書も購入していますが、この狭い範囲で新しく書かれたものを読んでいるだけで、旧弊の狭い範囲のなかで目新しいと目に映ったものに手を出している、というのが私の読書傾向です。そんな中で、最近大きな変化がありました。それは小説を読むことが、ほとんどなくなったことです。しかも読んだのは古典ばかりで、新作は、まったく読みませんでした。興味が失せてしまいました。
では、昨年読んだ中から、印象に残った数冊をセレクションしてみます。
「石油の呪い─国家の発展経路はいかに決定されるか」マイケル・ロス
 石油の存在がかえって経済成長を妨げるという、それは原油の輸出が通貨高をもたらし、その他の産業の競争力を削ぐからです。しかし、石油は、こうした経済的側面だけにとどまらず、政治的な側面にも負の影響を与えるのです。本書によれば、1980年以降、産油国は非産油国に比べて民主化が進展せず、より秘密主義的になっています。また、途上国の産油国に限れば、女性の雇用や政治的な進出が進まない傾向が見られ、暴力的な反乱に苦しむ傾向にあります。こうした石油のもたらす政治的な負の側面を、明らかにしたのがこの本です。
「男が痴漢になる理由」斉藤章佳
 全部と言いえないが、多くの痴漢は一種の依存症で、“いじめ”とよく似ている。痴漢をする人は、どこにでもいる普通の男性で、それは、きっかけがあれば、男性なら誰でも痴漢の常習者になるという衝撃的なところから始まります。そそのきっかけの多くはストレスで、ストレスを抱え込んで発散できず、自暴自棄に陥る。その時に、自分より弱い存在を支配したり、押さえつけたりすることで、自分を取り戻す。痴漢は、自分より弱い存在として女性を捉え、いやがることをして、追い詰め、傷つけ、征服し、その結果として優越感を得る。それでストレスは吹っ飛んでしまう。これは“いじめ”のおこる構造とそっくりだと著者はいいます。そのベースには社会的に女性を弱者の立場に抑え込んでいるという構造がある。つまり、社会や人の在り方の歪みが女性をはけ口にしてプレッシャーを及ぼしたあらわれが痴漢であることを明らかにしたのが、この本です。
「奉教人の死」芥川龍之介
 小説を、ひとつだけ取り上げましょう。古い作品です。その中の「おぎん」という短編です。あらすじをかいつまんでいうと、つぎのようです。おぎんという少女は、大阪から長崎へ両親とともに流れてきたけれど両親は死んでしまった。両親はおそらく仏教徒。そこで、おぎんはキリシタンの孫七の家に引き取られた。孫七はおぎんに洗礼を施して育てた。しかしクリスマスの日に、孫七一家は役人に捕えられてしまう。代官の家に引き立てられて、改宗しろと拷問を受ける。けれど一家は苦にもせずキリストのことを思えば自然と耐えていた。いっこうに宗旨替えする気がないのを見て、代官は三人を焼き殺す決断する。刑場に引き立てられてはりつけにされて、火あぶりとなる直前、度重なる拷問に耐えたおぎんは、「わたしはおん教えを捨てることにいたしました」と言う。本当の両親は地獄へ落ちているのに、自分だけ天国へ行くのは申し訳がたたないから自分は地獄へ行く、お父様お母様(孫七夫婦)はどうぞ天国へ行ってください。と
 この場合、救われるのは信仰を貫いた個人であって、おぎんはこのまま殉教すれば、天国に入れるわけです。しかし、彼女の両親はキリスト教を信仰していたわけではないから天国には行けません。それをおいて自分だけ天国には行けない。これは、最近映画になった遠藤周作の「沈黙」と似た問いを投げかけているものです。自分だけ救われようとするのは、実はエゴイズムではないのか。救われたい、天国へ行きたいということは、実は貪欲ではないのか。それは、人として倫理的なものなのか。おぎんは天国へ行けない人がいることを知っていて、罪深い人の側に敢えて立とうとしました。おぎんは転びバテレンとして汚名を受け、天国へは行けないことを自覚しながら生き永らえることになるのです。何が救いなのか、その問いが読み手にとって澱のように重苦しく内で残ります。小説は悪魔が高笑いするところで終わります。
 今回のセレクションは少ないのですが、こんなところで。今年も、本の感想や読書メモを投稿していきたいと思います。

« 2017年12月 | トップページ | 2018年2月 »