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2018年1月26日 (金)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(20)

第8章 存在と本質

1.存在論

キリスト教は、世界の創造は神によるものとみなしています。つまり、神は世界の第一原因であり、現実存在(在る)に関する原因ということになっています。これに対して古代の哲学では、現実存在は、個々の事物の偶然的存在として取り上げられました。そのため現実存在は哲学の対象に入りませんでした。なぜなら、科学は必然的かつ普遍的なものについて論じるものだからです。それゆえ古代の哲学は本質をテーマとしました。中世に入って、アリストテレスの哲学がアラビアで解釈されると、世界の創造者である神について論じるようになります。そこで、現実存在についても、第一原因との関係での必然性、普遍性が論じられることになりました。中世の各種の神の存在証明は、この必然性・普遍性に基づく証明です。このようにして中世では神の存在が第一の現実存在であり、神から現実存在を得ることで被造物が在ると見なされました。したがって中世哲学特有のテーマは何よりも現実存在です。

2.スコトゥスにおける存在と本質

存在と本質の区別において言われる存在とは、一般に、ものが現実に在るということで表現される事態を指しています。、これに対して本質はそこに在るものを指して、何であるかという問いに答えられる内容を広く一般に指しています。つまり何かが在ると見出され、次にそれは何か、と見れば「栗毛の馬である」という順です。言うまでもなく、栗毛の方は、狭い意味での本質ではなく、属性と言われるカテゴリーに入りますが、存在という大きな枠では、実体本質も属性本質も、「何であるか」に答えられるものであり、広い意味で、まず存在が見出され、次に本質が見出されるということになります。とはいえ、知性による理解としては、先に本質が理解され、次にそれが在ることが確かめられる。いずれにせよ、知性のうちで本質と現実存在は区別して理解されています。このことは、それぞれの根拠ないし概念が区別されて理解されているということです。

スコトゥスは、本質は現実存在に対して可能態にあるといいます。なぜなら現実存在こそがまず在ると言えるものであり、それと比較するなら、本質はまず考えられるもの、つまり知性の対象であって、二義的に在ると言えるものだからです。神学では、神がその知性において考えたものが、次の神の自由意志のもとに、神の外に創られて在るからです。

ここで、スコトゥスは可能態について、現実態に対する可能という意味ではないと言います。スコトゥスが出している例では、人間性が一性に対していわば可能態にある、といっていますが、ここでは人間性が先立って在って、その後で一性が現実態として人間性に加わってひとつの人間性が在る。つまり属性としての一性が人間性を規定して一なる人間性が理解される。というもの。スコトゥスは、それと同じような意味で、本質は存在に対して可能態にあるのではない、といいます。むしろ本質は存在するときも存在しないときもある、という意味でスコトゥスは、本質は現実存在に対して可能態にあると言います。他方、人間性と一性の関係で言えば、むしろ人間のほうが、その属性である一性の必然的原因であるということになります。つまり、スコトゥスは、人間性がなければ一性はありえない、という意味で、人間性は一性の必然的原因だ、ということになります。しかし本質と存在の関係はそれし同じではない。つまり、もし本質と存在の関係が人間性と一性の関係と同じであったなら、まず一定の本質が考えられなければ、その存在はありえない、という意味でり、本質は存在の必然的原因であるという結論に導かれるというわけです。しかしこの結論は誤りです。

現実存在は事物に生起する、とスコトゥスは言います。スコトゥスは存在と本質の区別を、神の事物創造の時において説明します。神が事物を実際に創造する前に、事物の本質が神の知性のうちで考えられる。このとき事物は実際には非存在です。ただ存在する可能性がまったくないかと言えば、そうではなく、神の知性のうちで考えられたとき、それは存在可能ということになります。つまり、存在可能で、なおかつ、実際には非存在ということです。そして、それは次に神の意志がそうであれば、現実存在が与えられて、実際に存在するということになります。したがって存在以前の本質にとっては、現実存在からあとに生起する(付帯する)ことになります。それが現実存在は事物に生起するということだとスコトゥスは説明します。

ところで、この現実存在を与える神は、存在そのものです。したがって、その神がある種の必然存在を与えるなら、それを受け取った本質は、そのことから、必然存在ないし永遠存在となります。とはいえ、存在そのものではないので、神の意志にしたがって限定的に永遠であるにすぎません。したがって永遠存在とか、必然存在であると言っても、その様態は完全な永遠存在の神とはことなるものです。そして創造されたものである限り、現実存在はその本質に生起しないのであって、それ自身から現実存在というわけでは在りません。このように被造物は本質的に、はかない存在なのです。

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