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2018年1月27日 (土)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(21)

3.存在の一義性

まず、この存在の一義性で言っている存在という概念は、これまで述べられてきた存在とは違います。後者はラテン語でエッセ(ease、英語でto be)といい現に在るという意味の不定詞で、前者はラテン語でエンス(ens、英語でbeing)といい存在しているものを意味する分詞です。前節の議論を土台にすると、エッセは被造物の本質の外に根拠をもつが、エンスは本質を基体とするものを指しています。そのため、エッスはエンスの一面を取り出した現実存在であり、他方、エンスは神も含めてすべてのものについて言われる存在ということができます。スコトゥスが、ここで議論しているのはエンスの方です。

まず、エンスが多義的、類比的であるということについて。「神は創造者である」あるいは「カラスは黒い」という二つの文では、エンスは多義的です。それは、述語が明らかに異なるからです。他方で、「神は大いなるものである」と「彼の父は大いなるものである」と言うとき、主語は異なりますが、述語は同じです。ところでエンスが指しているのは、述語「大いなるもの」です。命題文の違いは主語の違いです。一方は「神」、もう一方は「彼の父」です。この場合、主語の違いに応じて考えるなら、述語「大いなるもの」の意味は、前者は自分の命を捧げてもいいほど信仰の対象についての述語で、後者では、やはり犠牲になってもやぶさかではない、と思う偉い人です。しかし、後者には、神に比べれば、人間としての限界があります。この違いに着目すれば、エンスは類比的だと言われます。つまり、似たような意味があると同時に、見方によっては意味の違いがあるエンスを含む文の全体から読み取ることができます。

次に一義性について。主語の違いにもかかわらず、述語の概念は、その述語が意味する内容、つまり最小限の意味を常に指している、と判断すること判断することを一義性と言います。言い換えると、主語の違いを述語の中に読み取ることをしない、という判断です。例えば「神は存在しているものである」と「この石は存在しているものである」という二つの文において述語は、同じ「存在している」です。主語の違いをこの同じ述語のなかに読み取れば、述語は一義的ではなくなります。しかし、主語の違い読み取らなければ、述語にある「存在しているもの」は相違がないののであるから、一義的であるということになります。

端的に言えば、スコトゥスの存在の一義性の主張は述語のうちに主語の違いを読み取ることをやめる、という主張です。

4.存在の一義性の本義

このスコトゥスの、主語の違いを述語の中に読み取らないという立場は、論理性の重視、ひいては科学性の重視によるものです。「神は存在するものである」という一文を置くとき、もしも主語である「神」について意味されるものを、述語である「存在しているもの」のうちに読み込むならば、述語の意味が人によって異なる可能性が生じるからです。

「神は第一の存在するものである」、「第一の存在するものは、存在することが必然的である」、「したがって神は必然的に存在する」という三段論法が組み立てられたとき、「存在するもの」と「存在する」の両者が一義的でなければ、この三段論法は科学的正確性を持たないことになります。ここで、「存在するもの」=エンスという概念が一義的であるかどうかが重要となってきます。

スコトゥスは、「神は無限な存在者である」という命題を神学の命題として提出しています。自分たちが信じる神の存在について、スコトゥスはコレが最も適当である、と判断しました。そして宇宙の中には本質が相互に持つ先後の秩序を見て、その第一のもの、第一の原因の存在を、必然的に「在る」と結論した上で、それが「無限な存在」であることを証明しています。

これに対してトマスは、神を「存在そのもの」と定義します。「存在すること」すなわち、エッセは、直観による認識と言えるので、一義的に受け取ることができます。一義的ではあるので、たしかに科学的論証の対象になりますが、「存在することは存在するか」は同語反復になってまうので、論証の組立ができません。そのため、トマスは、神の存在証明に際しては別の概念の秩序を持ち出します。「動かすもの」、「より完全なもの」等々の秩序をもとにして、その秩序は無限に遡ることはできないから、第一のものがその始まりにならなけれはならない、という証明をして、その第一のものが、「私たちが神と呼んでいるもの」である、と証明しています。

つまり、スコトゥスはトマスの神の定義を間違っていると排除しているわけではないのです。トマスの類比説に反対しているわけではないのです。

5.神学における人間

6.スコトゥスにおける「人間」「質料と形相」

スコトゥスによれば、「存在しているもの」の概念は一義的に受け取ることができるわけです。それは、異なる秩序にある異なるものは、それぞれ主語の違いであって、その違いを述語のうちに読み取らなければ、述語は一義的ということになります。これと同様に、さまざまな本質も、実存する多数の個物に共通に一義的に受け取られることになります。そしてアリストテレスの質料形相論が適用されて、それぞれの本質は、形相と質料の複合として説明されます。これは現代的概念を用いれば、人間の本質がDNAの数と配列と、ひれを内に含む細胞質の複合によって生じている、と説明するようなものです。

実際に、本質は形相のみによっても説明できてしまうものです。形相という言語によって明瞭に指示できるものを言うからです。しかし現実に存在し生きている本質は、質料抜きには存在しない、というのが質料形相論です。質料の部分とは、人間の理性、ことばによって明瞭化することができすせにいる何かです。それゆえ、アリストテレスにしたがって本質のうちに質料を複合の一方として認めることは、現実に存在しているものの本質のうちに「分からないもの」の存在を認めることを意味します。

つまり一方に、人間理性に明瞭化できる「ことば」が形作る形相があり、他方に、明瞭化できない何かが質料と呼ばれてあり、その複合として、事物の本質が実際に存在する。ちょうど人間のDNAが、塩基の名前と配列と数については「言語化」できますが、生きている人間の身体に必要なそれ以外のことについては、言語化が難しいように。

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