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2018年1月 6日 (土)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(2)

5.信仰ないし聖書の必要性

生きる状況の違いを人類の歴史として見るキリスト教神学は、まず神やキリストの存在を証明し、キリスト教の儀礼を説明する他に、これらの状況の違いを超えて人間がいかに存在するか、いかに存在すべきかを一般的に説明しなくてはなりません。

スコトゥスも自分の著作でこの大きな課題に向かっています。その最初の問題で、人間は現今の状況下において、ギリシャから伝わる哲学以外に聖書は普遍的人間に必要なものであるか、と問うています。この問題は、現今の状況下における人間を考えるとき、罪に堕ちて生まれつきもっている自然本性を一方に見て、他方に、神からの啓示を伝える聖書を見る問いです。つまり人間自身の罪によって暗い淵に堕ちた人間の自然本性がもつ哲学と、聖書があって、そのふたつの関係は、どのような関係か、ということです。

聖書とは、直接には人類のごく一部に、ある時点で示されただけであって、すべての人に、どの時代の人にも示されたものではありません。それにもかかわらず、それは果たして、人類すべてに必要なものであると言えるかどうか。

スコトゥスは、新興の必要は信仰によってしか明らかにならない、と言い切ります。つまり、聖書の必要性は、人類に普遍的な哲学、あるいは理性の力で照明できるものではない、と明確に言います。言い換えると、キリスト教徒は自分たちがもつ信仰は人間であればだれにとっても必要であると信じているし、その信仰に基づけは、その通り、それが正しいと信じていい。しかしその正しさは、人類普遍の理性、すなわち、自然に受け取られている理性ないし哲学によって証明することはできない、と言います。

スコトゥスは自分が信じていることの限界を見定めていると言います。

6.トマスとスコトゥスの信仰と理性

トマス=アクィナスは啓示とは、神が無学な民衆にも神に至る道を教えるために示してくれたものだと理解していました。言い換えると、聖書は一般民衆に対する神の愛から出たもので、真に学のあるものは、自分の理性の力で聖書の自室内容にある程度迫ることができると考えていました。これはアリストテレスの倫理学など、人間の生きる道が信仰抜きに見事に論じられているのを知ってかんがえられたことでしょう。トマスの頃は、アリストテレスの形而上学を自然神学という名で呼んでいました。アリストテレスが神と呼ぶ浮動の動者を、神と考えることをトマスは否定していません。トマスにとっても第一動者だからです。したがって聖書を前提とした啓示神学と形而上学ないし自然神学の区別を判然とさせることは、難しくなっていました。

一方、スコトゥスの方は、形而上学を自然神学の名で呼ぶことはありません。また倫理学をアリストテレスに頼っていません。倫理学については、ストア哲学の考察を応用しています。トマスが学のある人間なら聖書がなくとも十分に倫理的な人間の生き方を見出すことができる、と考えたのに対して、スコトゥスはむしろ啓示の由来にとらえがたい神の無限意志をうけとめています。つまり哲学者たちの見出す教え以外に超自然的な教えが必要であるかという問いに対して、必要であるが、必要であることの根拠は神のみぞ知る、という立場なのです。

7.自然理性の哲学と超自然の神学の区別

哲学は自然的理性によると言います。この自然的理性とは、理性において自然的であるということ、つまり、理性が自然に知られることがらのみを用いて働くことです。どの時代の誰もが持つことのできる直接経験の積み重ね、反省、思索、批判的吟味、これらのみを理性が使うとき、理性は自然的と言われます。つまりそれ以外の特殊な経験は、自然なものとはみとめられないこと、そして自然なものだけで理性が働くことを、自然理性の働きと言います。

それに対して信仰は、ある特別の時代に、ある特別の人に聞かされたり、見せられたりしたことがらがあり、しかもそれは神を源とする、という伝道者のことばを信じることを含めて、生じたものです。そのことばはある地域、民族の歴史のなかで書物となり、キリストのはたらきを通じて人類共通の契約へと広く一般に開示されたと見られています。それが超自然的と呼ばれるものです。

ギリシャ哲学は人間を社会的動物であり、理性的動物であると定義します。これはだれにでも通じる普遍的な人間の定義です。他方、キリスト教信仰は、神から聞き伝えられたこととして、人間は神に似た姿につくられたものだと述べます。信者はそれを信じています。

また哲学は各人が相互に正義を論じ、国家を論じて個人を一般的に律する法律を形成します。キリスト教信者は、聖書とその解釈者に神の正義を訊ね、神の権威のもとに個人を一般的に律する道徳を陳べます。いずれも人間について、その根幹ともいえる事柄について、一家言をもち、権威をもつ。つまり人間とは何か、人生の目標とは何か、という問いに立ち向かい、それに対する答えを、哲学も信仰も、別々に用意しています。哲学者は論議し、神の信者は父祖からの教えを忠実にうけとります。では信仰を持っている神学者は、学者としては哲学者のように論議し、その一方で、信仰の真理を自然理性を超えた真理として受け取る。つまり神学者は、論議する姿は哲学者でありながら、その論議する内容や、結論する命題は哲学の扱う範囲を大きく超え出ているわけです。では哲学と神学は、どこで区別されるのでしょうか。

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