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2018年1月31日 (水)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(25)

5.人間のペルソナ

キリスト教神学において、人間はたんる動物の一種ではなく特別の存在であり、人間にはペルソナがありますが、動物にはありません。三位一体であったように神にもペルソナはあります。神の場合本質は個別化されていません。神の本質はそれ自体から無限で唯一なので、個別化されません。それゆえ、神において、ペルソナは個別化の原理ではありません。同じように人間のペルソナも、人間の本質を個別化するものでは在りません。ひとりひとり、人間が個体で存在する究極の原理はペルソナではなく、「個別化の原理」です。

スコトゥスは、ペルソナについて、個別化の原理とは違って、ポジティヴな存在性ではない見ています。たとえば、人間知性は人間霊魂の形相というポジティヴな存在性によってあります。しかし、それがもつ個々のはたらき、つまり認識したり愛したりすることのうちには、本性的なはたらきと、自由な意志にもとづく偶然的な作用があります。本性的なはたらきは普遍性を持つので、アリストテレスの哲学においてポジティヴな存在ですが、偶然的な理解のはたらきや信仰のはたらきは、質料的なのでネガティヴです。

6.ペルソナと自己

スコトゥスによれば、神の中のペルソナどうしは、実体的な関係、あるいは、関係的実体です。つまり、ペルソナは複数の実体の間の関係において現われる実体のごときものと言うことができます。

人間においても、他者との関係において現われる実体性が、自己のペルソナであると言えます。実際、ヨーロッパの言語生活では、他者に向かって「わたし」を主張することは日常茶飯事です。つまり他者との関係のなかにある「わたし」です。言い換えると、ペルソナは関係を通じて実体化した「わたし」です。ただし、自己が実体であるためには、ヨーロッパの理解では、不変性、同一性が求められます。

しかし、キリスト教信仰においては、人間どうしの関係よりも神との関係が重要です。なぜなら人が神を信ずるとは、人が神の教えにならうことであり、それは人が、教える神(イエス)をまねることだからです。ところで、神の内で、子は父に対して従順です。子は父の仕組んだ十字架における死を従順に受け入れて死んだということになっています。ところで、人間は神をいわば父として信仰を持っています。それゆえ、信者は子の立場で、神に対して「わたし」であり、父である神に従順でなければなりません。それは同時に修道院の院長という立場に立つ指導者に対しても、従順でなければならないことを意味します。これがキリスト教信仰の従順です。

このような関係は存在上の依存関係としてみることができます。なぜなら、被造物は神に依存する関係を持っているからです。神に依存しなければ何ものも存在しないと考えられています。したがって、被造物のうちで精神をもつものは、この依存関係にもとづいて、神に対する関係として従順であるのが当然と見られるのです。

ペルソナは共有されない性格をもっています。しかし、依存関係は、何かの共有を含んでいます。なぜなら、何か(A)に依存するものは、その何か(A)から、何ものかを分け持っている、つまり共有している、ことによって、依存するからです。例えば、被造物は神から存在を分け持っています。それによって、在ることにおいて被造物は神に依存しています。あるいは神の知性のうちにある人間を分け持っています。それゆえ、人間は人間であることにおいて神に依存しています。その他の点でも同様です。被造物は何であれ、神から分け持った者において、神に依存しています。

他方、ペルソナは共有されないものです。言い換えれば、共有を止めるものです。一方、分割を止めるものが個別化原理です。両者は一見似ていますが、ペルソナは共有を止めるもので、その結果として依存を止めるものです。つまりペルソナは依存の否定を含んでいます。神のうちでも、子は父に従順でありながら、異なるペルソナであるという点では、子は父に依存しません。

被造物のペルソナは被造物であるかぎり、神に依存し、従順であるべきです。他方、ペルソナは、それを止めるはたらきを内包しています。それは存在上、神と必然の関係を持ちながら、他方で、ペルソナのはたらき、すなわち、意志をもつ精神のはたらきにおいて、依存関係を止めるというはたらきです。

依存を止めるなら、精神はそれだけ孤独になるわけです。相手は宇宙のすべてを創った神です。その神への関係を存在する上での必然は別にして、意志的な個々のはたらきにおいて失うなら、むその意志をもつひとりひとりの自分にとって、依存関係をもつことができるものは、宇宙の中に何もないことになります。この状態において現われてくる自分、絶対の孤独です。

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