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2018年1月 9日 (火)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(5)

5.経験していない事実を真実と思わせる力

人間の自然的能力は、共通に各人に付与された能力なので、各人において類似の働きをするものです。白いものを資格が捉え、そこから白いものの表象が心の中に生まれ、それを能動知性が抽象して一般化を行うと、「白」の概念が、その「白」ということばとちょうど同じような普遍的な意味合い(理解)をどのちせいにも、もたらすことになります。

知性は、ことばが人々の間でもっている共通的基盤にあるものです。そのため、ことばとなっている概念については、それが自身の直接経験由来かどうか知るためには、知性は感覚表象に立ち戻ってみる(反省)ことが必要になる。つまり、白を見たのはどの時点のことか、思い起こしそれが明らかなとき、その概念の由来は自己の直接経験と判明します。あるいは、その反対に、自分が行ったことがない、つまり記憶にない景色を他者から伝え聞くとき、個々のことばについて自分のもつイメージを当てはめて自分の中で構成することはできます。しかしそれは本当に自分が見た景色ではないわけです。

しかし、自分が直接に経験してそれが本当だと信じきれることがらと、そうでない(自分の力では本当か判断できない)ことが区別できたとしても、知性の判断を「真である」という判断に傾かせる力がふたつあります。ひとつは「多数」であり、もうひとつは「権威」です。自分が直接にそうであることを知らない事実であっても、多数の人が「事実である」と発言しているのを聞けば、なおかつ、それが信頼できる人たちであるならば、人は「事実であろう」と判断します。また、その方面では知られた権威が、それは事実であると公言しているのであれば、人は「事実であろう」と判断します。実際、私たちはその出来事の大半を、直接に経験しているのではありません。これは、もともと「ことば」が公共的なものであるゆえに、そして知性というものが、自分が感じて生きる世界に限定されたものではなく、それを超えて広く世界を「ことば」を通じて捉える能力である故に、自然な傾向と言えます。

一方、啓示された事実は、中世ヨーロッパでは、多数の人々に知られた事実であったし、教会という権威が真実と判断している事実でした。したがって、そうした世界に取り囲まれているなら、知性がそれを「事実」と判断するのは当然と言えます。しかし、啓示は、どの時代の誰でも現実に追体験できるものではありません。追体験とは科学であれば追試、つまり他者による検証です。ある事実を発見した実験を、他の人も同じように、そのことに辿りつくことができれば、誰でも分かることになります。それによって一般性が確認されるわけです。ところが歴史の事実は原理的に追試はふかのうです。現場にいた人でしか体験できなかった事実だからです。スコトゥスは、このような点で啓示は自然的(科学的)でなく超自然的だと言います。スコトゥスによれば、信仰は「特別な経験」の伝承であり、その伝承の共有なのです。

つまり、神についての信仰される事実は自然的ではありません。しかし、それを事実として信じる傾向は、ことばを共有している人間知性にとっては自然的と言えます。

6.哲学者と神学者の区別

哲学は、世界や人間についての問い、世界はいかに在るか、人間はいかにいきるべきか(倫理的道徳的問題)、人間とは何か、人生の目的とは何か、など、直接目に見えないことがも含めた総合的視野を収めた原理的な問いに答えを見出すべく、批判的吟味を行う学問です。これに対して、神学は、さらに神に告げられたと信じられている命題について信仰まで総合的視野のうちに収めて、哲学の問いにも、また神についての問いにも答えるべく、批判的吟味を行う学問です。神学は、神に告げられたとされる事実を、人間一般が自然に経験できる事実を超えて視野に収めるために、哲学とはことなるといいます。しかし、その視野のうちで、人間にとって原理的な問いに答えるために徹底して批判的吟味を行うので、哲学との共通性をもっています。

実際には、スコトゥスの神学の中で、個別化の原理を扱っている論は、信仰の事実が本質的視野のうちにない。それゆえに、それを哲学的部分としてスコトゥスの神学から取り出すことは可能です。しかし、その議論の結論は、神学的問題において一貫して用いられる。つまりそういう部分も、それ以外の部分と緊密に一体化して、スコトゥス神学の体系の一部になっている。したがって、その区分は見分けなくくなっているのです。

しかし、スコトゥスは主著のプロローグの最初の問いにおいて、区別を果たすための視点を明確にする議論をしています。そこから考えると、スコトゥスにとって神学と哲学の区別は、ひたすらに神学は信仰の事実を事実として受け止めるということが必要ないし必然であるであるということ、そして哲学にはそれがない、いうことに限られることになります。

つまり、スコトゥスによれば、啓示がなければ導き出されない命題のすべてが信仰の事実から生まれた事実であり、自然的理性の事実ではない。そして信仰から導き出される命題が入った論は神学であって、哲学ではない。ところで信仰内容の命題は、かならずしも聖書の文言のかたちのままで神学的議論に取り入れられているのではないため、ある命題が神学的か哲学的かを見分けるためには、ある検討が必要になるといいます。

たとえば「神は存在者である」という命題は特別啓示の必要ある命題とは見えないかもしれませんが、スコトゥスによれば、神は自然的理性によって認識される存在ではない。すなわち、神は感覚表象からの抽象で認識できるものではない。したがってこの命題は啓示を必要としている命題です。このように啓示を通して直接に知られること(聖書の文句)だけでなく、そこから推論できることがらの全部が信仰内容ということになります。したがって、スコトゥスの論考の中で、どの論が神学的であるのかは一見しただけでは分かりません。前提となっている命題が推論される範囲にないかどうかを見極めて判断することが必要となります。

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