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2018年1月20日 (土)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(14)

第6章 科学と心のはたらき

1.精妙な秩序の感覚

第4章ではスコトゥスの「現前直観」を説明した。我々がふだん感覚のはたらきとして受けとめているはたらきの裏に、実際に感じ取ることはできないが、よく似た知性のはたらきがある。つまり、個別感覚のはたらきの裏に、知性の現前直観のはたらきあり、感覚表象のはたらきの裏に、知性の抽象のはたらきがある。つまり、五感が感じているとき、同時に知性もそれを受け止めているし、感覚が表象をもつとき、同時に知性は概念をもち、さらにそれに対応する「ことば」をもつ、ということです。

それは同時に、個別感覚なければ知性の直観はないし、感覚表象がなければ知性の抽象はないということも意味していました。過去の認識を思い出す局面で、感覚のなかの記憶なしに知性の記憶も働かない、とスコトゥスは主張しています。これは感覚部位のはたらきなしに知的な部位のはたらきはないと言っているのと等しいことになります。

しかし、スコトゥスは感覚の直観なしには知性の直観ないことを主張していますが、それは知性が感覚に依存することを意味しているわけではありません。ただ、人間は身体器官をもつことで知性の感覚器官を認識の入り口としていることを意味しています。スコトゥスは感覚と知性の関係をこのように見ることによって、感覚と知性は明確な秩序、すなわち、同類の認識能力としてより不完全(感覚)とより完全(知性)、という秩序を保ちつつ、そのはたらき、直観と抽象において、同様に比例的な類似性を持つことを明らかにしました。

このことによって、゜かガクは感覚の所有物ではなく、知性の独占的所有てせあることは従来と変わらないことになります。したがって科学の優位性は揺るぐことはありません。そして同じく、感覚が身体の特定の部位にあり、知性は身体の特定の部位から逃れていると見なすことも変わりません。すなわち知性(精神)と身体の離在可能性も従来と変わらないということです。これによてキリスト教の教義に反することにはなりません。

しかし、スコトゥスは、感覚経験は知的レベルをもつと評価しました。科学的経験はかつては知性にしか認められないものでしたが、この説明によって、感覚が認識するデータが十分に科学性を持つと納得できるようになったわけです。このことによって十分に吟味された実験データが、科学の発見として評価されることになりました。これが科学の進歩の可能性を開くことになりました。

2.個別経験の重視

スコトゥスには特異な想起についての考察があります。

彼によれば、「わたし」あっての想起であり、そこてせ想起されることは「わたし」の経験した個別の経験です。何かを思い出すということは、もっぱら自分の経験であって、他者の経験ではないという考え方です。私たちは、ふだん一般的知識の記憶と、個人の記憶を区別しないで考えています。これに対して、スコトゥスは、「わたし」を通じた想起のみを真の想起と考えています。したがって、スコトゥスは、ふだん私たちが使う想起という概念とは異なることを考えていたと言えます。

我々の常識では、他者の経験は一般化することによって、一般的な事柄として学び知ることができるとしています。私たちが親や学校から教えられることは、まさにこういうことです。それを学んでいるのは「わたし」であり、だからこそ「わたし」のなかに記憶として残ります。しかし学んだ「わたし」は記憶する当人であっても、記憶する対象内容からは消えています。学び、記憶する対象は一般的な事柄だからです。そこには「わたし」という個別の実体はありません。他方、自分の経験は、他者が知らない秘密をともなった個別の経験です。その内容から「わたし」の独自性、つまり「わたしのもの」であることは消えようがありません。このように、私たちは記憶する対象の内容で二つの場合を区別しています。これに対してスコトゥスは、一般的知識に対しても、記憶は「わたし」が聞くというような個人的体験に基づいているかぎりで思い出すことができるものだ、考えているようです。

例えば、スコトゥスは、過去を思い出すというときに、思い出すものは、過去にあったすべてではないことを指摘します。本人が知らないことは思い出しようがないわけです。さらに、たとえ本人のしたことであっても、本人が自覚できない事柄には、実質的に本人が知らないことですから、思い出すことはない。したがって、思い出されるのは、本人が自覚できた事柄、つまり、本人の理性と意志で行なわれた行為です。これを「人間的行為」と呼びます。自分の個体実体に基点をもつことを自覚できる事柄・はたらき・行為、それだけがスコトゥスの言う思い出すことのできるものです。

そして、自分の誕生や、世界の誕生について知っていることは、「知っている」のであって「思い出している」のではありませんし、通常、私たちは思い出すとは言いません。スコトゥスは「想起とは、想起するもの自身の過去の何らかの行為についての認識である」と定義しています。スコトゥスは、自分自身が自覚的なはたらきにおいて関わった過去の事柄でなければ。「思い出す」ことはないと言います。

例えば、学生が試験中に昨夜に一夜漬けで覚えたはずのことを「思い出せない」、あるいは「思い出した」というのは、ここで定義された「想起」には入りません。それは、知識を持つことができたかどうかは、知識を知識として理解できたかどうかであるからです。一般的に理解して、その理解を刻印した知性の中の像は、「想起」の対象ではなく、知ることの対象だからです。この場合、一夜漬けしたことを「思い出せなかった」学生は、昨晩、それを賢明に自分が覚えようととしたことは「思い出した」けれど、一般的に理解していたのではないから、知ることの対象である像は彼の知性のうちになかったのです。したがって、試験中に、彼は理解を得ることはできなかった。他方、「思い出した」場合については、昨晩の勉強で何らかの理解を得て、試験中に再度、理解を持つことができた。そこで一度理解が得られたなら、知性の内に一旦は像が出来うあがります。それはある種の習慣づけのようなもので、知性は、再度その理解を必要としたときには、一度得た理解をもう一度持つことが容易に出来るようになる。私たちは、これを試験に出ることを覚えたとか、「思い出した」と言います。スコトゥスに言わせれば、それは単純に覚えたのではなく、理解したのであり、思い出したというより、後で繰り返し理解する癖がついたことだと言います。理解したことでも、そのとき自分が理解したということで、そのような理解は本人の自覚的行為であるから、スコトゥスの言う思い出すとか想起の対象になります。自分が理解したことは思い出せるが、自分が理解していないことは思い出せない、これは当然のことで、理解する内容は一般的なことであっても、理解するかしないかの主体は私だからです。

スコトゥスは「想起の対象」として、理解の対象となるものを「離れた対象」と呼び、自分自身の個別の経験のほうは「近接対象」と呼んで区別します。

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