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2018年1月 7日 (日)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(3)

8.哲学による「存在の一義性」の否定

スコトゥスは、哲学と神学のそれぞれの立場、立脚点の違いを明確にした区別を示しています。

この違いを哲学的に明らかにするために、「存在」の視点を持ち込まなければならないとしました。何であれ、どんなものも、何らかのしかたで存在するので、もっとも大きな述語の領域として「存在」を考えることができる。たとえば赤いものは赤の色をまとって存在するし、理性は理性のはたらきをもつ能力として存在します。いずれの場合も「存在する」という述語になります。

信仰においては、「存在」は何よりも「神」について述べられます。そのあと二義的に、私たちの周囲に見られるものについて「存在である」と述べられます。他方、信仰を抜きにすれば、まずは「感覚されるもの」について「存在である」と述べられます。この区別から、神学と哲学の両方を見てみると、信仰においては、神も被造物も、ともに「存在」ですが、信仰がなければ、感覚されるものから言える範囲、知性がそこからの抽象において認識できる範囲のものまでしか、「存在」ではない。したがって、信仰を持たない者にとっては、その範囲を超えた神は「存在」ではない。信仰を原理のうちに取り込んでいるのが神学であり、取り込まないのが哲学なので、「存在」として認知できる範囲の違いが両者の違いです。

スコトゥスは哲学の立場に立ち、「存在の一義性」は哲学の立場で言えることではないと主張します。感覚されるものと、されないものについて無差別的な存在である一義的存在。これは神学の命題であって、哲学の命題ではないといいます。ストトゥ巣は、信仰を前提にした神学と、それを前提にしない哲学を截然と区別しています。啓示の必要は神学者にとっては絶対のものであるのに、哲学は感覚からの抽象に頼るので、理解の外ということになります。したがって、神について神学者が何を言おうと、哲学者の耳は閉ざされています。哲学者にとっては自然のみで完全なのであり、自然を超えたものは存在しないのです。他方、神学者は、自然だけでは不足で不完全であり、自然を超えたものが必要であるという立場に立っています。したがって「存在の一義性」は哲学ではなく神学の学説なのです。

9.神学上の真理とされるもの

啓示された真理を受け取っている神学自体が自然的真理ではないと言うことになります。スコトゥスが述べている神学の実践性も、神学上の真理であり、存在の一義性も神学上の真理てあって哲学上の真理でないということになります。神の存在についても、一見、哲学的な論証が提出されているように見えますが、スコトゥスの神学において神存在の論証の土台となっているのは「存在の一義性」なので、神の存在証明が本質的に神学的な論証ということになります。つまり、スコトゥスにとっては、神の存在も哲学的には論証できないのです。

『神と世界の秩序についての論考』においてスコトゥスは、神の存在をきわめて精密に論証しています。それはまるで、神の存在証明は神学的ではなくて哲学的であるかのように見えます。しか、スコトゥスの議論がそういう印象を与えてしまうのは、彼が神学を科学(学問)としてしっかり立てるために、論議を通じて結論を得る作業(哲学の作業)をきっちりとしているからです。神が存在することは信仰によって決まっていることです。神学の使命は、哲学に通じる言語・論理によって、信仰の真理を「学問の真理」に近づけ、学問的に(言い換えると科学的に)明らかな真理の資格を信仰内容に与えることです。それが成功すれば、神の存在は「学問上の真理」という資格を得ることになります。それがなければ神の存在はたんなる信仰の真理に留まるだけで、スコトゥスは神の存在を、信仰の真理から学問上の真理とするために、神の存在証明を示していると言えます。

神学がそのようなことをするのは、信仰の真理が教会の世界を超えるものではないからです。神学によって神の存在が学問上の真理となれば、それは信仰の世界を超えて、宗教上の枠組みを超えて、国家においても一定の位置を得ることができる。国家の行政は法律の根拠を学問の権威から得ているからです。ヨーロッパにおいて中世後期の国家、あるいは近代国家の時代から、学問の権威は行政官によって権威をもって国家行政が実施されるためになくてはならぬものになっていました。したがって、神の存在が神学の研究によって学問的真理と認められることになれば、神の存在を国家の法律の背後に君臨させることができる。国家は法律によって運営の柱を得るのであるから、神の存在が学問的真理であると証明されるなら、神の存在を前提にした国家運営が可能になる。つまり神学はキリスト教国家の運営における思想的バックボーンとなりうる。それゆえ、神学の研究は国家に対して支配的権威であろうとする教会にとって、きわめて現実的な重要性を持ったものだったのです。

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