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2018年1月16日 (火)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(11)

5.感覚の直観と抽象、知性の直観と抽象の相似形

スコトゥスは、人間のもつ感覚と知性をアリストテレスにしたがって区別します。しかし、感覚と知性にそれぞれ直観と抽象を振り分けるのではなく、感覚と知性のそれぞれに直観と抽象の両者がある、と見ます。

例えば、誰かと握手をしている場面。相手を人間の感覚像として認識しているのは、感覚の中の「抽象的な」表象です。知性は即時的にこの表象の像から「抽象」を起こして知性のうちに抽象された像を得ます。そしてそれに「人間」という「ことば」を当てます。このように、我々は反省的に、直観と抽象の仕方を区別することができないように、感覚のうちにある表象の像(可感的形象)と、知性のなかにある像(可知的形象)を見分けることはできません。そもそも知性のうちには具体性がないので、その点で実際には全く視覚像としてでしかないのです。

他方、具体的に手の平に感じている触覚は、触覚という感覚器官による「直観」です。またにこやかな笑顔も視覚がとらえる「直観」です。しかしその笑顔の微妙な違いから直観的に相手の心のメッセージを読み取るのは、知性の認識であり、抽象にもとづく即時的推論です。

一方、感覚のうちの抽象、すなわち、表象は、個別感覚をまとめるもの、と言われます。個別の感覚器官が捉えるものは、ばらばらの認識です。触覚からの情報内容と視覚からの情報内容は質的に異なります。しかしそれを同じ一個の実体から受けている情報としてまとめるはたらきが、感覚表象もっている一種の抽象なのです。例えば、ある人との握手の場面は、「その人」の視覚映像として記憶にとどめられ、同時に、触覚、におい、などがばらばらに記憶のうちにあります。これは異なる個別的な感化器官からの情報である以上、ばらばらなのは必然です。しかし同時にそのばらばらの情報は、視覚像が持っている「その人」と結び付けられます。つまり視覚が捉えられている位置に手の感触があり、においの来る方向があります。このように視覚像と触覚が結びつくのです。この結びつれるはたらきが、五感とは区別された感覚表象のはたらきです。

知性のうちの直観と抽象は、これと相似であると考えられます。ただし、知性が扱うものは「ことば」になるもの、何らかの「共通的なもの」です。それはまた、抽象された「像」です。そして「ことば」になるものとは、「論理化されるもの」でもあります。論理化されるはたらきは、知性のなかで最も知性的なはたらきです。ところが直観は、個別的であって共通的でないのだから、「そういうものではない」ということだけが特徴です。それゆえ、たとえ知性のうちにそれがっても、知性には見えない、と言わざるを得ません。つまり知性の直観内容は「ことば」にしにくいという点で、感覚の直観や即時的な感覚表象の像とう、わかりやすい像の裏に隠れてしまう性質のものです。

6.特定しにくい(感覚のうらに隠れる)知性の直観

表記する「ことば」は、知性のもった「概念」に対応しているのであって、感覚や直観に対応しているわけではありません。例えば視覚がとらうえる「白」であつても、その「白」ということばは、概念化されたものを指示していて、具体的な「この白いもの」は、誰かの指を使って指差されなければならない対象です。「ことば」が対応していない直観内容は、実際には、知性には視覚のように「見える」ということがない対象です。しかし「ことば」に対応していないからといって知性の直観を否定して、個々のものは「感覚するだけのもの」と言うならば、それはスコトゥス自身の説に反対していることにしかなりません。スコトゥスは、個々のものを直観するはたらきを、経験している中から析出しようとしたからです。

しかしながら、知性に直観を想定しても、事実上、それを指示することはできません。それが在る、とスコトゥスが主張することには、それ相応の特別な理由があったと考えなければなりません。スコトゥスが、この実際上は見分けがつかない知性の直観を、見分けなければならない、と考えた理由を、こでは考えてゆきます。

7.知性と感覚がもつ認識には相似がある

知性は概念化した後、この概念と、あの概念にと、それぞれの別の語を用いることで、それぞれを区別して認識することができます。しかし、知性は感覚とは違っているので、その像の違いを見るというような感覚しているのではありません。他方、個別の感覚、例えば視覚は、これとあれをを別のものとして見ていますし、触覚は触っていますし、嗅覚は嗅ぎ分けています。しかしそれについて各々を区別するだけの語はありません。そして表象像のほうは、視覚像を基盤にして結合するなかで、違いを感覚的に分けている(見分けている)。

知性は自分の対象を見ていないのであるから、頼りにするのは種々の語です。異なる語を足がかりに知性は思考を歩ませます。そして直観については、知性は対象を見ていないことになります。また、直観には、抽象がもつ種々の語もないので、知性のもつ直観は客観的に兆表となるものが何もないということになります。

スコトゥスは感覚と知性の能力を持ち出して、知性ののなかにある明白な「抽象」を、感覚のなかの「表象」に対応させ、そこから知性のなかの「直観」を、感覚のなかの「個別感覚」に対応させます。スコトゥスによれば、被造物のなかには広く相似性が見出される、という原則がある。少なくとも、相似性を仮定できる、ということを示すことで、スコトゥスは直観があるということについて合理性をもつことを証明できると考えていたようです。

つまり、スコトゥスによれば、感覚と知性は、認識能力という同類のもののうちのふたつであり、完全性において優劣があることになります。より完全な認識能力という点で。したがって、感覚のなかにある「直観」と「表象」のうち、「表象」が知性の「抽象」の不完全な形であるとすれば、感覚の中の「直観」は、より完全なかたちで知性うちに存在すると考えられます。

知性の抽象がことばによってしか分からない、というのに対して、感覚の表象は、像が見えることによって違いが見分けられることになります。言い換えると、知性の抽象でさえ、端的に言えば、見えないものであり、表象の像を借りて、見えるかのように、ことばにして語られるのです。それゆえ、知性の直観があってもそれと気づかず、個別感覚のうらに隠れて見えない状態にあっても、少しもおかしくないと言います。

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