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2018年1月23日 (火)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(17)

4.動かす始点となる実体

このときも能動知性を動かすものは何かという問いは、究極の始源である神にまで行くか、そこまで行かないとあれば。能動知性の段階で、「それがそもそも知性を動かす」というところでとどめる、ところから始めることになります。同様に、意志も自分で自分を動かす、というところに始点を置くことになります。

さらにスコトゥスは、感覚についても能動的な「感覚作用」と、それを受けて生まれる受動的な「感覚」を区別しています。

このように動かすものと動かされるものを区別していくと、同一の実体の中に多数の実体があるような言い方になってしまいます。そうなると、一個人の人間的実体のうちに知性の実体が二つあるのか、そこでスコトゥスは、様々なレベルで「形相的区別」を考えています。しっだいとしては同一のもののうちに実在的な区別がそれで可能になると言います。

5.感情と意志かす始点となる実体

このようなヨーロッパの言葉に対して、日本語の場合はどうなのでしょうか。

例えば「感情」について、うれしいとか悲しいという感情は、何かを受けて、という場合が普通です。だから受動と考えてもいいでしょう。怒りも何かのせいで、ということになります。ところが愛とか憎しみは、受動的なところもあるでしょうが、同時に何かを愛するとか憎むというという能動性も持っています。実際のところ、愛する、憎む、嫌うなどは欲求のはたらきであると言われています。したがって、愛するよろこびや嫌われる悲しみは、受動的ではありますが、愛することや嫌うことは能動的なはたらきです。

で、前章までのヨーロッパの議論を思い出すと、このような受動である感情を動かしているものは何なのでしょうか。

まず自分が求めているものが感覚に現われれば(それが感覚を動かせば)うれしいという感情が心に現われます。しかし、この感情に知性の判断が関わるでしょうか。過去の経験を思い出して、「美しく良いものに見えても害を受けることがある」と判断したとき、不安や疑惑の感情を持つ経験は誰にでもあると思います。ヨーロッパの論理では、知性の判断が引き起こす感情は、感覚の受動ではなく知性の受動ということになります。そして知性ないし理性から心が動きを受けたときに生ずるものは、知的な受動であって、むしろ意志の欲求につながる受動です。すなわち、知性の判断を受けて起きた怒りは、感覚的刺激を受けた起きた怒りとは、動かすものが異なる受動として区別されるのです。したがって、怒りや喜びや疑惑を、一様に感情とすると食い違いがおこることになります。強いて言えば、心に起きる受動は、感情ではなく、心情とでも訳して区別しておくほうが、理解の誤差は相対的に少なくなると著者は言います。

すなわち、心を動かして心情を生ずるものに、知性(理性)と感覚がある。したがって、心情については、それを結束する理性と感覚が対比される。日本では理性と感情が対比されるが、ヨーロッパでは理性と対されるのは感覚です。では、このヨーロッパの理性と感覚の違いはどこなあるかというと、感覚には身体性があることで、感覚は身体的器官として考えられるのに対して、理性は特定の身体的器官にあるものとは考えられなかった点です。ちなみに、ヨーロッパの視点で感覚刺激に生まれる感情と対比されるのは、理性から生まれる意志ということになりそうです。しかし、一般的には意志と対比させるられのは感覚刺激で生まれる肉の欲求、すなわち欲望です。

6.理性的か感覚的か

感覚的欲求と意志的欲求は実際にうまくわけられるのか、と著者は問います。

これは、個別感覚と知的直観、感覚表象と知性の抽象の区別に似ています。例えば「愛」という心情や、そこから生じている欲求が、感覚的や肉欲的でないかどうか、理性的であるかどうか、あるいは神の愛や隣人愛かどうか、その違いは、そこから生じている行動、それについての説明、その他によってしか判断することはできません。まして、自分の中にあるものは、自分に都合の良い説明を与えがちなことから、ますます見分けにくくなります。

ここでは、理性と感覚のはたらきから生じる心情(こころが動かされて生まれる思い)の違いに着目すると、欲求は、感覚的なものと理性的なものが対比されていても、それは認識における感覚認識と知性認識の関係の類似に合わせて、理解しなければなりません。つまり、感覚と知性は、認識において協働しているということです。感覚が先に対象に接し、そこから知性認識が可能になります。欲求についても、感覚と理性が心情という欲求の基盤を生み出すことにおいて対比されても、両者から起こる欲求の間には、必ずしも相互に対抗性が見られるわけではなく、むしろつながっています。感覚認識は理性認識に先行するので、感覚的心情は理性的心情に先行し、その心情から生まれる欲求は、同じように、感覚的欲求が理性的欲求に先行している。逆に言えば、感覚的欲求の意識(自覚)なしには理性的欲求の意識(自覚)もないわけであるから、両者のつながりは密接で、論理的な地平・文脈でしか両者を引き離すことはできないと言います。

7.罪の発現

スコトゥスによれば、能力があれば、それに見合った欲求が生まれることになります。視覚能力には美しいものを見たい欲求があり、嗅覚能力にはよい匂いを嗅ぎたい欲求があり、触覚能力には心地よいものに触れたい欲求があるといいます。同じように知性には真理を知りたいという欲求があります。そして認識の側面では、感覚がもつ認識に知性が持つ認識が重なってその区別が見えづらいように、感覚がもつ欲求には、理性ないし知性の能力から生じる欲求(意志と呼ばれる)がつながっていて、それらは互いに見分け難くなっています。

知性が持つ欲求に対して対抗性をもたない場合には、つまり知性の規範がその欲求と共に感覚的欲求に対してある種の規範を与えることがない場合には、感覚的欲求のままに知性の欲求、すなわち意志も働くことになります。このとき、その意志は感覚的欲求と類似して低級なもので、地上的なものを求める欲求になります。そしてそれによって罪が生ずると考えられます。

スコトゥスによれば、知性の欲求(意志)であっても、それ自身だけでは感覚の欲求にひきずられて罪が生ずることを止めることができないといいます。それゆえ、欲求とは別に正義の尺度となるものが心のうちになければならないということです。正義の尺度に諫められて、はじめて意志も単純に感覚の欲求に傾くことを止めることができる、と考えます。正義の尺度とは、一般に道徳と言われるものです。

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