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2018年1月14日 (日)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(9)

6.自然的命題の真理の確実性

スコトゥスは科学の原理は真理の確実性を持たねばならないと主張します。それは人間が自然的に有している認識能力にみで達成できると主張します。当時は、ガンのヘンリクスは、アウグスティヌスの言葉から真理の確実な認識のためには神の援助が必要であると主張していました。人間が確実な真理を認識するとき、人間は持ち前の能力のみでは真理を確実に認識することはできず、神の援助が必要であり、その援助は目に見えない形で行われている。

これに対してスコトゥスは諸科学は認識の一種であり、認識の中で確実に真実であるであると主張できるものだけが科学を構成すると言います。したがって、人間の自然的認識が科学(真理認識)を確実にもつことができる。確実な真理認識のためには人間が持つ自然的能力のみで十分なのであって、神の援助を必要としない。

これは、科学認識の重要な基盤は個々の個別的事象の本質認識(抽象認識)にあるのではなく、それらをつないだ「命題」にある、ということです。個別的事象の抽象認識は、感覚表象からの抽象であるために、たしかに感覚の欺瞞性の影響を受けるおそれがあります。例えば「あそこに見慣れない影が見える、お化けかもしれない」という認識は個別事象の個別的状況下の認識です。スコトゥスはこのような認識は科学とは関係ないと見ます。科学の認識は「ふたつの異なる線の間にはただ一本の直線が引ける」という種類の認識です。つまり、スコトゥスは科学命題の真理性は、分を構成する複数の単語の組合せのレベルにあり、この組合せは知性によってのみ行われる作業だから、感覚の欺瞞性の影響を受けずにいられる、とみなします。

スコトゥスは、知性は感覚認識を「機会」として真理を認識するのであって、感覚が知性の真理認識の原因になっているのではない、という言い方をします。つまり真理を認識する必然的原因をもっているのは命題を把握する知性であり、感覚は真理をもたらす必然的原因ではなく、たんに知性が真理を把握する機会となっている、つまり、個々の感覚認識は知性の真理認識にとって偶発的契機であるにすぎないといいます。科学の真理は命題文にあって、個別の事象にはないといいます。

7.真理の明証性

スコトゥスは、真理の根本性格は知性に対する明瞭性とか明証性(英語で言えばエヴィデンシー)という立場に立ちます。明証といえばデカルトが方法的懐疑で求めたものです。スコトゥスは、人間的知性に対しては明証、天使の知性に対しては判明というように使い分けています。

スコトゥスは、ふたつの「白いもの」を同時に把握した知性はそに類似性の関係を必然的明証的に見る。それゆえに知性の中で一挙にひとつの命題が構成されます。「白いものと白いものは類似している」。この命題は「白いもの」という単語、「類似している」という単語の二種類の単語によって構成されています。この命題を複数の単語から組み合わせた知性は、自分が把握した単語自身から、この組合せの一致、つまり真理を明証的に把握している、と言います。知性が自分の中で明証的に真理を把握する、ということは、他者からの強制によるのではなく、自身でそのことを納得するほかない、という知性の状態です。

8.経験命題の真理の保証

我々個人が経験するものは、偶然的に出会う事象です。人ひとりが経験できる事象はすべてにはなりません。また常にということにもなりません。しかし真理とは、常にどの場合でも成立していなければなりません。それが普遍的命題です。しかし、有限の数の経験しか持てない人間は、どうやって普遍的認識を得ることができるのでしょうか。そこで、スコトゥスは個人が経験できる多数からすべてを帰納できると言います。

その根拠として「なんらかの自由でない原因によって多くの場合に起きていることは、何であれ、その原因の自然本性的(必然的)結果である」という命題です。この命題は自明すぎるので、自覚されず知性の中に眠っているといいます。この「自由でない原因」とは「意図をもたない原因」のことで、何ら意図をもって働くことがないものが、何らかの働きをしているとき、しかもそれがいつも同じような結果を引き起こしているのを経験したなら、そこには自然本性的原因があってその原因によってそれが普遍的に生じている、と結論することがゆるされる、とスコトゥスは言います。

例えば、ある病気にある植物が効くことが多数の経験で確認されて、その植物の何らかのものが病気を治す原因になることが普遍的に認識できることになるということです。しかし、そうであったとしても、なぜ効くのかということが原因などが人間知性にといって自明になっておらず、これでは明瞭さがない最低レベルの科学認識にとどまる。その原因が解明され自明な原理に到達したとき、スコトゥスは、はじめて真に科学認識が成立するといいます。

9.感覚認識の信頼性

古代以来、感覚認識に対する不信がもたれていました。感覚には錯覚というものがあるのは事実ですし、誤認が生ずる原因は感覚にある、と常識的に考えられていました。

スコトゥスは、感覚は一回限りであれば判断を誤り易いところがあるが、繰り返し確かめるなら、つまり多数の場合をつき合わせるならば、前述の「自由でない原因」の命題を根拠にして確実性を持つ知識をえることができる、とスコトゥスは言います。

10.知性に認められる「直観」の問題

以上のように、スコトゥスは感覚を科学の基盤として受け止める道を開こうとしています、しかし、それと同時に価格だけでは科学は成り立たないことも明らかにしています。すなわち、知性のうちに起こる自明な命題を科学はよりどころにしなければならない。しかし当時の感覚認識に対する不審は強かったため、知性がもつ自明な命題だけでは科学知識の命題の根拠としては不足でした。彼が知性の直観を持ち出すのは、そのことと関係があります。

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