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2018年1月21日 (日)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(15)

3.個別経験と信仰

スコトゥスの、この主張は「思い出す」ことの意味の範囲を明らかにするだけでなく、知識と信仰の区別を厳密に基礎付けるものとなります。なぜなら、自分自身に実際に関係したことしか「思い出さない」ということは、自分自身が見聞きしたことしか本当は知らないということを意味することになるからです。スコトゥスは幾何学的真理でさえも、それを自分が理解することが出来なければ、その知性は信じているだけであり、それは信仰だと言います。

自分の個体的実体において経験する事柄の自明性において幾何学の公理が理解され、その公理の組合せ(証明の過程)の理解を通じて、例えば三角形の内角の和はニ直角、という真理が理解されるとき、そのとき初めてそれについての知識(科学)が成立する。もしも自分の経験における自明性抜きに、教えられた証明を覚えただけだとすれば、それは知識ではなく、たんなる信仰である、とスコトゥスは言います。知っているということは、思い出すことが真にできる点や線についての直接経験に依拠して理解ができているときだけです。それゆえに、信仰でしか持たなかった幾何学の知識は、本人に幾何学の理解をもたらすことはなく、一夜漬けで公式を覚えただけの思い出は、幾何学の理解には役に立ちません。

4.「近接するもの」と「離れたもの」

スコトゥスは、記憶のうちに、一般的知識を「離れたもの」として入れている。そして本来的に思い出すことができる自分の経験を「近接したもの」と呼んでいる。「離れたもの」も、「近接したもの」によって思い出されるし、理解される、と考えている。

5.信仰と科学

キリスト教の信仰の要諦となる『新約聖書』には、ある特殊な空気が漂っていると著者は言います。それはキリストを「近くに」経験し、思い出していた信徒という人々の持った思いが信仰として、キリストの教えと共に保存して行こうという空気です。キリスト教文化の外にいる我々は、その教えが自分をどれだけ苦悩から救ってくれるか、ということがキリスト教の信仰の要諦であると考えてしまいます。しかし、『新約聖書』の半分は、自分たちの思い出を語る使徒たちの私信なのです。こんなものは、仏教にはありません。

キリストという人物が十字架で苦しみ、殺された事実を自分の経験として持った使徒たちのショックは、計り知れないものがあった。それがその使徒たちの私信の姿で聖書の中にあります。この人たちの思いは我々の理解を超えたものであり、理解できないものは、それを近くで経験していない人に口で伝えても、中途半端な知識としてしか伝わらないものです。それをふつうなら諦めるところを、使徒たちは諦めることができなかった。だから、キリスト教の信仰というのは、この無理を通そうとする熱情が貫いている、そういう特異さがあると著者は言います。しかし、スコトゥスも認めているように、キリストの存在を後の人は誰も思い出すことはできません。それは誰にとっても「遠く離れた」事実なのです。その「遠い」事実を、「近い」経験に基づいて、理解に近づける努力をする、つまり、「遠い」対象を、現在の自分がもつ自明的経験によって、理解の対象に近づけるのが神学なのだ、と言います。

信仰は科学ではありえず、神学もそうです、そのことをきはっきりさせるのが、自分が思い出すことのできる範囲に信仰があるのではない、という事実です。神が世界を創造した事実も、キリストの出現も、その十字架も、私は思い出すことができません。それゆえ、それは科学にはならないわけです。ただ、生きたキリストを思い出した使徒たちのことばを、信者は信じ、その記憶を懸命に伝えるだけなのです。

しかし、この信じていることがらは、ことばにされたものであり、ことばは抽象された世界にあって、論理をもっています。そして、信仰箇条は、カトリック教会の信者によって、広く普遍的に、事実として信じられている事柄です。それゆえにそれは知の吟味を受けるだけの普遍性を持っています。それの知的な吟味をしてきたのが神学といえるので、その点では科学に属するのです。

6.三様の「思い出されるもの」

「思い出す」と述べられて事柄について整理してみましょう。

第一は、「理解したことがら」を「思い出す」ことです。これは、事柄を覚えた、ということではなく、自分の中でいったん理解したこと、真の知識としたことを、後になって再度繰り返して得るということです。

第二は、「自分の行為、あるいは自分の直接の経験から覚えたもの」を「思い出す」ことです。経験があり、自覚があるのだけれど、理解には達していないので、思い出す内容は、理解ではなく、理解のもとになる事実(直接の感覚認識、それを裏で捉えた知性の直観認識)です。

第三は、「聞き覚えたこと」を「思い出す」ことです。これは自分の経験ではなく、ただ他者から聞いたことを思い出すこと、記憶の伝承と言えます。他人の書いた本で読んだこと、マスコミの情報で知ったことなどです。キリスト教信仰は使徒の信仰を正確に伝えるものですから、この部類に属します。

スコトゥスは信仰内容は第三の思い出に属し、自分の経験をもたないゆえに神学を科学として形而上学の上にあるものではないと言います。むしろ端的に科学からは見えないところに神学があると言います。

他方で神学は信仰のみで成り立つものではなく、信仰であれ、他の知識との関連において信仰内容が様々に解釈されるところで、新工にも真偽の疑いが生ずるからです。そこに知性による批判や吟味が入る余地が生じます。例えば、神の三位一体に誤りがなくても、それを人間的経験に基づいて云々するときに誤りが生ずるものです。そこで誤りをおそれて解釈しなければ信仰は実際生活に応用されず、神が人に求めている信仰の意義を失うことになります。つまり信仰は、実際生活に生かすことなく唱えているだけでは済まされない事柄であることを認めるならば、知の吟味は必要不可欠ということになります。

このときの人間の経験の土台は何かというとき、スコトゥスは従来の慣例を捨てて、いま現在生きているわたしの個別経験、すなわち、個別感覚に生じた自己の個別的経験=思い出せることを、自然的理性の科学の土台に据えたのです。それがアリストテレス以来の伝統から離れるということで、この点で自然的理性の科学は信仰と峻別されるのです。

信者の誰も、聖書に伝えられている事実を、生きている私の体験として思い出すことはありません。一方、自然的理性の科学の場合は、つねにどの個人であれ、一定の条件さえあれば、その科学を形成する土台となる経験を個別感覚において、見る、聞く、嗅ぐことができます。つまり実験と観察が近代科学の土台です。そしてその経験をひとたび得たなら、それを思い出すことができます。スコトゥスによれば、その内容だけが、自然的理性の諸科学、倫理学、自然科学、政治学、形而上学を成立させるのです。

スコトゥスはこの明白な事実によって自然的理性の科学を、信仰から、また信仰に基づく神学から明確に区別することができのです。

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