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2018年1月18日 (木)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(13)

10.知性直観を想定する哲学的理由(1)

この現前直観について、スコトゥスは、死後、人間の霊魂は身体から離れるが、そのときに霊魂はむすびついていたときのことを思い出すかどうか、ということを課題として考えます。

「私は今見ている」とか「私は今聞いている」といった自分自身の行為についての認識は、自明な命題、原理です。この確実性については、原理についての認識が確実であるのと同様に自分の行為についての認識は確実であると判断することができます。当時の権威であったアリストテレスによれば根拠を求めて遡っていくことになるが、ある命題が原理であるということは、その命題が究極の根拠、つまり遡った始源であることを意味しています。そして、この始源の原理は自明であって、それ自身以外の根拠を必要としていません。

スコトゥスは、「私は今見ている」とか「私は今聞いている」といった自分自身の行為は、この自明な原理と同じように自明であると言います。なぜなら、自分の行為は、自分自身に対してもっとも手前にあるものであり、自分の行為を通じて、対象が知られるのであるから、自分の行為は、明らかに認識の「始め」です。したがって、始源の原理と同じように自明である、とスコトゥスは主張します。

さらに、スコトゥスは、この先はアリストテレスの権威を離れて独自の考えを展開させますが、自分の行為が必然ではなく、偶然であることは、それが自明であることの妨げにはならない、つまり、自分の行為が必然であろうが偶然のものであろうが、自明であるとスコトゥスは言います。スコトゥスによれば、人間の諸々の行為はその人の意志によるものであるから、原因からして必然ではない。スコトゥスによれば、人間の意志は自由であり、偶然に作用する。したがって意志による行為は偶然のものです。偶然からは偶然しか生じないし、必然からは必然しか生じません。とはいえ、必然にも偶然にも先後の関係があって、無限に遡れるわけでもなく、必ず始源があります。神学においては、通常、この始源は神です。世界の始源は神であって、けっして人間のなかの自分ではありません。

しかし、スコトゥスは自分の行為も始源のものであると言います。スコトゥスは自由意志のはたらきを理性認識と同等かそれ以上に重視します。ちなみに、ヨーロッパでは古代ギリシャ以来、自由が最高の価値と見なされていましたが、その自由が意志によって生じるか、理性によって生じるかによって、主意主義と主知主義に大別されていました。意志は理性的能力のうちにある欲求に分類されるものなので、理性による対象の認知が意志の働きよりも時間的に先にあることは大前提として主意主義も主知主義も共通していました。だから、両者の違いは、対象についての理性の判断が意志の自由の根拠であるか、それとも意志は先行する理性の判断がどうであるかにかかわらず、あるものを欲求するしないについて自由であるか、の違いということになります。

スコトゥスは主意主義の立場に立っています。スコトゥスは認識についても、最初の認識は理性の受動であることは前提の通りで、意志とは関係なく目を開ければ自然に見るという認識が始まり、その認識は見えてくる対象に心を動かされて起こります。だから受動的です。そして、それに促されて意志(欲求)が動き始めるとすれば、今度は意志によって特定の対象に向けて理性のはたらきが起こることになります。例えば、視野の遠くに狩りの獲物の影を見た時に、目を凝らして、そこに焦点を合わせて見ようとする。そのとき、認識は意志のはたらきの延長線上にあることになるので、認識であっても能動的と言え、一種の行為とみなしてもよいものです。

11.知性直観を想定する哲学的理由(2)

「私は今見ている」とか「私は今聞いている」といった個別知覚の確実性、つまり、自分が見ているかどうか、聞いているかどうか、ということです。その確実性の判断は知性が担っています。すなわち、スコトゥスがことばで論じている論理の局面は、知性の局面です。「私が見ている」ことに確実性がある、と彼が言っているのは、「私が見ている」をとらえているもの自身が、それが確実であるかどうかを論じている知性であることを、明らかにしているということです。

私が「私が見ている」という個別感覚を、知性で捉えていることがなければ、私は、その事態が確実であるかどうか検討するために、多くの場合を集め、知性がもっている自明な命題を通して、感覚経験を確実な知に変換することはしないだろう。なぜなら、感覚は、自分の認識が確実であるかどうかを心配したりしないから。ましてや個別感覚の経験を科学へ進めることなどと考えないでしょう。それやえ、知性は個別感覚が捉えている個別の感覚を捉えている。それゆえに、知性にも個別感覚がとらえるものをとらえる直観がある、と言わざるを得ません。

12.知性直観を想定する哲学的理由(3)

スコトゥスは認識対象の内容(感覚が認識するもの)と、認識作用(感覚作用)を通じて、その両方について知性が直観をもっていると考えます。例えば、「私が見ている」とき、知性は、その作用状態を直観しているし、視覚を通して「私が見ている」ものを、視覚が捉えていると同時に、知性は、その対象を直観している、ということです。

つまり、感覚の働き(感覚作用と認識内容)は、そのすべてについて、知性が背景にいて認知している、ということです。それゆえに知性は、十分な権利をもって感覚経験から命題を形成し、推論して結論を得ることができる、スコトゥスは、そう論じています。

このスコトゥスの認識論は、感覚経験から知性が扱う命題を形成できる根拠を作ったものです。これ以前の認識論では、個々の感覚経験は知性の扱う確実な命題形成に参与することができないとみなされていました。実際、古代のアリストテレスなどの権威の知性の吟味に耐えた過去の経験だけが、知性の扱う命題として論じられました。過去に吟味されたものだけが知識として吟味される視覚をもっていたのです。しかし、スコトゥスによって、普通の人間の新たな感覚経験が、本人が知性の中に持っている自明な命題を通して、確実な命題(知識)として成立する可能性が証明されたわけです。アリストテレスが知らなかった新たな科学命題が生まれる可能性が示されたわけです。

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