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2018年1月15日 (月)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(10)

第4章 直観の発見

1.科学論と直観説

13世紀後半の中世は、科学の規範はアリストテレスの科学だったと言われています。そこで、科学は「知性の抽象」を通じたもので、アリストテレスによれば、抽象とその吟味によって、はじめて人間知性はイデア世界(知の世界)に通じることができる。

彼の「質料形相論」はつぎのようなものです。アリストテレスは形相(イデア性)は質料に内在すると見ていました。そして、感覚は質料を直接対象としがちで、そのため感覚は偶然的真理しか捉えることができず、知性はそれに対して、質料のうちから形相を取り出す、つまり抽象する力を備えているという理論です。これによって知性は感覚との関係を密接にとりながら、イデアが存在する知的世界を渉猟できると説明しました。

その結果、ヨーロッパ中世の認識では、人間知性はもっぱら抽象を行うものであって直観をはたらかせるものではありませんでした。また、直観をもつ必要もなかったのです。もし、知性が直観をもつなら同じものを抽象で知る必要がないはずだからです。この場合、直観とは、知性がイデア界に存在する事物の本質を、抽象を経ずに直接みることです。その場合、知性は真理を知るために感覚を必要としません。

2.スコトゥスにおける二種類の直観と一種類の抽象

一般に、時間をかけて推理ないし思索を深めていく認識を人間理性は持っています。それとの対比で一瞬のうちに何かをひらめいたり、何かを認識する認識を直観と呼ぶことがあります。しかし、スコトゥスにおいては、抽象と直観の区別は即時的(一瞬)かどうかの区別ではありません。

スコトゥスの直観と抽象の区別はつぎのようなことです。直観はひとつには、「対象が実存する限りでの認識」であり、ひとつには、実存する限りで「現前することに即した認識」であり、他方、抽象は、「対象が実存するかどうか無関係に対象をとらえる認識」です。つまり、抽象は一種類ですが、直観には二種類あると言っています。その二種類を、前者「対象が実存するかぎりでの認識」を本質直観、後者「実存するかぎりで現前することに即した認識」を現前直観と区別します。対象の全体を、実存するかぎりですべてを完全に認識するなら、それを個別的に存在する本質(全体性)を捉える認識になります。これはまさに対象の本質を捉える認識です。「本質直観」であり、神や天使がもちうる直観と言えます。一方、実存することのうちで現前することに即している認識は、実存するなかで、個別感覚への現前の範囲の認識に留まります。つまり個別の本質までは捉えることはできないが、対象が現前して実存していることを認識できる、という知性の直観です。

これらをまとめると、第一に「実存するかぎりで」という言葉がつくのが直観であり、他方、「実存するかどうかは無関係」である認識が抽象ということになります。言い換えると事物が現実に存在するときにだけもっている様々な個別的条件を、はずさずに受け取る認識が直観であり、はずすことで一般化し受け取るのが抽象ということになります。事物の個別的条件とは、時間的空間的位置の特定性、つまり「いま、ここ」あるいは「一時間前のどこどこ」という条件であり、また事物自身がそのときその場所でもっていた個別性、具体性、属性等です。いずれにしろ「ことば」は、抽象されたもの(共通性・一般性)を指すことを本質としているので、ことばでひょうげんされるとき、すでに何らかのス形で抽象があるといえます。直観そのものを表現することは、ことばの性質上、実際には困難です。

3.直観と抽象の区別

我々は、自分の中で実行される「直観」と「抽象」を、その仕方(その認識自体がもっている様式)の違いから区別することはできないとスコトゥスはいいます。というのも、通常の人間には自己直観はないからです。自分がいまもっている認識が直観か、抽象か、それを判然と区別するためには、自己のはたらきを、それ自体として個別的に認識する直観が必要です。しかし、スコトゥスによれば、人間には自己直観はない(自分が何であるかつねに明白にわかっている、とう人はいない)

それゆえ、現実に直観と抽象を区別して考察するためには、個別的条件を勘案して、対象のもつ性質の違いによって考察しなければなりません。ところで、人間に本質直観はないので、考察すべき区別は現前直観と抽象の間です。したがって、直観と中小の区別は、認識の仕方の違いということができます。しかし、そのはたらきを直観する能力を持ち合わせていない我々は、その違いを、そのはたらきの結果生じてくる「像」によって区別する他はありません。したがって直観と抽象の区別は、それぞれがどのような「像」を捉える認識か、という点で理解する他はありません。

4.認識対象の像

実存するかしないかに関わりなく見える対象(抽象の対象)というのは、心の中に現れた普遍的な「像」です。

天使が本質直観の対象とする本質も「像」です。それは本質といっても個別的本質であり、個別的な像です。他方、人間的知性の抽象はその像を普遍的性格においてしか捉えられることはできませんこれに対して、実存するかぎりで現前して見える対象は、個々の視覚に典型的に見られるような個別的「像」をもちます。しかしこの像は、ことばにされくいもの、としか言いようがありません。否定しかいえない理由は、もともとことばが指示できるのは共通のものであり、それは一般性だからです。つまり抽象にんしはされるもののみが言葉によって指示できるのです。したがって、直観について指示できることは、具体性、個別性に属するものの、そのときどきに違ってくる可能性をもつものということです。他方、抽象によって得られる「像」は、一定程度であるにしても、反対に不変で普遍の性質を持つものです。一般的には、自然本性とか、あるいは簡単に本性とか本質と、呼ばれるものです。

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