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2018年1月22日 (月)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(16)

第7章 意志のはたらき

1.「感情」と「意志」という翻訳語

スコトゥスの哲学の全体を理解する上で必要なのは、人間精神がもっている「認識」と、行動を引き起こしている「欲求」をどう見ているかです。実際、私たちが「認識」を吟味し、正しく用いるならば、人間として最良の行動をとることができるはずで、このことにスコトゥスとの違いはないはずです。哲学と同様、神学もこの目的をもつゆえに神学者としてこの目的のために、認識と欲求の理解をもっているはずです。

そのために著者は重要な用語においてヨーロッパと日本の間に横たわっている見落としがちな溝を任しなければならないと言います。例えば「感情」とか「意志」という言葉について理解にずれがあるといいます。

アウグスティヌスの『神の国』では、恐れとか悲しみとか喜びとかいった「感情」は「意志」であると言っています。アウグスティヌスによれば、「欲望」も、「意志」であると言っています。その後、トマス・アクィナスの一般的な意志の定義は「理性的欲求」になっています。トマスの場合には肉欲や欲望は意志の概念から外れています。この両者の間に「意志(voluntas)」という言葉の理解の変化があったということになります。元々この言葉は英語のwantにあたるラテン語から派生した。つまり、「欲求」を単純に意味していた。それがアウグスティヌスの時代です。そこに理性的かどうかの区別はありません。これが13世紀ごろ、おそらく十字軍のよびかけにおいて「神の意志」がとくに語られる際に、この言葉が頻繁に使用されたため、神にあると認められるのは高度な意味で理性的なものだけ゛からです。

その後、スコトゥスの時代には、理性のはたらきが強く意識されるようになり、意志はつねに「理性の欲求」を意味することになりました。一方、voluntasは人間の「自由意志」を意味して使用されることになりました。これはスコトゥスの主意主義の影響と考えられます。スコトゥスの場合、「意志そのものの発動」が「自由の根拠」です。それゆえ、「意志」と「自由」を切り離すことができない一致として、近代以降「自由意志」として定着して行ったとおもわれるといいます。スコトゥスにおいて、「欲求」は、感覚的か理性的かの間で、使用する単語を区別して表現するようになったというわけです。

2.心が動かされること─感情

この理性のはたらき自体は肉眼で見ることはできません。それゆえ、欲求が理性的であるかどうかの区別は目に見えて明らかというわけではありません。つまり、欲求が「意志」なのか「欲望」なのかの苦へ津は明らかではないということになります。それについて述べられる言葉(論理)によってはじめて見分けられるものなのです。

他方、「感情」はどうでしょうか。アウグスティヌスに戻りましょう。『神の国』においては「感情」は、「動かされたもの」を意味するラテン語motusが用いられていて別のところでは「(何かのはたらきを受けて)できたもの」を意味するaffectusが用いられていました。この二つの言葉は同じような意味を持ち、一般に受動と訳されます。とにかく何かに動かされるとは、はたらきを受けて、心に生じるものを意味しています。

古代や中世では、「動かす・動かされる」、つまり、能動と受動という視点は、心のはたらきを含めて世界を理解するための視点として、最も無重要な視点でした。アリストテレスにおいて、第一に自然の運動を理解するときに持たれた視点なのです。しかも、ヨーロッパの言語の文法においても、能動と受動は動詞には必ず付いてまわるものです。ことば(ロゴス)が論理(ロジック)であることは、ヨーロッパではつねに真理です。そのため、あらゆる事柄て、動かすものと動かされるものを腑分けしようと論理のメスをふるいました。

3.心の能動と受動

同じようなことが心のはたらきにも言えるわけです。能動知性と、そのはたらきを受けて動くのが受動知性、あるいは可能知性と呼ばれた知性です。知性はひとつですが、それがはたらく段で、動かす知性と動かされる知性に分離するのです。知性のはたらきとは抽象作用です。そこで抽象作用を起こすのが能動知性で、その像を受け取るのが受動知性と解釈されました。

同様の区別は意志のうちにも考えられました。スコトゥスより前の時代、カンタベリーのアンセルムスは意志という能力の原初的状態を動かすものと動かされるものという関係で考えています。意志という能力は、それがまったく何の動きももっていないときは、何もないに等しい。それが動き始めるには、それを欲するように動き始めなければならない。つまり。特定の何を欲することができるようになるのは、そのような状態に自分を動かすことができるようになってからの段階である、と言います。

つまり、意志という能力も、それが単に在るだけの状態のなかで、意志はそもそも自分を動かすことができる状態になることが、恥目になっていなければならな。このような始動状態になってはじめて、意志は特定の何かを好む、あるいは嫌う、ということが可能になるということです。意志は自分で自分を動かすことができるようになるために、自分をまず動かすというのです。

知性のほうでも、能動知性の抽象作用は、感覚表象を対象にして能動知性が動くことで、それによって知性の内に受動知性が生じます。受動知性ができてはじめて知性は自分が抽象して得た認識を自分の中に受け取ることができることになります。つまりこれを準備段階として、知性の抽象作用が始まるわけです。それと同じように、意志の中でも自分を可動状態(理性認識を受けた後に一定方向へ動かすことができる状態)へ動かすことがまずあります。そして、始動した知性は、次に能動知性の抽象の結果に受動知性が動かされて、特定の何らかの認識(抽象認識)がおこるということ。それと同じように始動状態となった意志が、知性の認識を対象にして特定の何かに向かう意志のはたらき(欲求)を生ずる(発動する)というわけです。

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