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2018年1月24日 (水)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(18)

8.享受と使用

知性し行動に関わる判断、例えば「盗んではならない」といった実践的命題をもって行動を判断するはたらきです。この知性の働きは、知性自身の欲求、すなわち意志とつながっています。

一方、意志は、知性が持つ(知性のはたらきかけから生まれる)欲求なのであるから、知性の実践的判断を内包することができる欲求です。つまり意志は、個々の感覚能力が持つ欲求のように単純な相を欲求ではなく、多様な相手をもつ欲求なのです。

その場合、意志という欲求がただの欲求ではなく、知性の判断を取り入れた欲求だとすれば、意志がはたらくときに関わる徳という側面を視野に入れなければならなくなります。つまり、正しい、あるいは、良い意志とは美徳(欲求)をもった意志であるし、反対に不正な、悪い意志とは悪徳を持った意志(欲求)ということになります。スコトゥスは、そのような徳の側面を見ていくために、アンセルムスが行った意志の分析を参考に、その用語を導入します。

その前に、アウグスティヌスは享受と使用という対比的な用い方をしました。それは、一方に欲求の真の目的があり、それを受け取って欲求がその目的を満たすもの、それを享受の対象とします。他方で、その目的を達成するための道具があって、それを使用する。このとき目的と手段を取り違えないということ、この態度が秩序を持った正しい生き方であり、良い意志がもつ徳であると言います。これに対して、道具に執着して、本来の目的を道具のようにみなしてしまうと、悪い、転倒した意志ということになります。例えば、金銭は交換の道具に過ぎないものですが、それを集めることを目的としてしまうのであれば、その意志(欲求)は、「享受すべきものを使用し、使用すべきものを享受する」という、転倒した意志、すなわち悪徳を持つ意志ということになります。

9.友愛と肉欲のごとき欲求

この享受と使用の対比は、目的と手段のようなものです。そして、アンセルムスには欲求の働きに関する対比があります。「友愛の欲求」と「肉欲のごとき欲求」です。全社は目的に対する愛であるのに対して、後者は手段に対する愛という区別です。

スコトゥスは、この「友愛に対する欲求」を、「わたしが愛するものに善を求めるとき、私はその対象を友愛の欲求で愛している」と言います。つまり、相手の幸せ(相手が良ければ、それだけでよい)を純粋に求める、というのが友愛の愛(欲求)です。他方、「わたしが別の愛されるもののためにある対象を求めるとき、わたしはその対象を肉欲のごとき欲求で愛している」と説明します。人は本来愛すべき対象を表向き愛する仕方で、他のものを本当は愛して、愛すべき対象をそのための道具とするとき、愛すべき対象を二義的な愛の対象にとしめている。このとき、人はその相手を「肉欲に似た愛で愛している」といいます。この肉欲に似た愛は、真の愛ではなく、見掛け倒しの悪い愛といえます。ただし、この「肉欲」は身体を土台にした欲求を意味するのではなくて、知性が持つ欲求であるということです。

つまり、知性にとっての目的は、精神的目的であり、高位の事柄です。それに対して、その目的への手段や道具は下位のものということになります。したがって精神的なもののなかでも下位のものは、上位のものから見て、物体のごときものと見なされます。それに準じて、上位のものについての愛から見れば、下位のものへの愛は、肉欲のごとき愛と言えるわけです。スコトゥスは「肉欲」とは言わず「肉欲のごとき」と言っているのは、そのためです。

したがって、精神的な欲求が、肉欲のごとき欲求と見なされることが起きるとしても、おなじものが、つねに肉欲に似たものと見なされるかといえば、そういうことではないのです。たとえば、知識欲は精神的な欲求ですが、最上位の神について、様々なことを知ることによって神に向かうなら、知識欲は目的に役立つ位置にあり、その愛は友愛の愛です。ところが、知識欲によって知識を得た結果、人は傲慢になることがあります。そのような愛は知的であっても下位のものに向かうかぎり肉欲に似た愛ということになります。名誉欲や支配欲も、この種のものと理解していいと思います。

10.正義を求める愛と便益を求める欲求

医師が求める徳についての理解を進めるものとして、さらにもうひとつの区別がアンセルムスにしたがって導入されています。それは「正義を求める思い」と「便益を求める思い」です。この区別も「友愛の欲求」と「肉欲のごとき欲求」の区別に似ています。とはいえ、必ずしも目的と手段の対比ではありません。「正義を求める思い」は、公的に正義の規範を保とうとする思いのことであり、「便益を求める思い」は、便利さや利益を求める思いだからです。したがって、この対比は相対的順位の対比ではなく、絶対的な区別です。正義は徳の根本だと見なされていますし、他方で、便益は自己の利益であるために、美徳とは言えず、正義の規範を超えて考慮されるべきではありません

スコトゥスは至福を求めることは、それ自体は肉欲のごとき欲求であって、友愛の愛ではないと言います。友愛の愛のみが真の目的を享受する愛です。したがって、肉欲のごとき欲求は享受する愛ではない。それゆえ、詩服を求めることはすべての人にあるとしても、だれであれ、その欲求に身を任せることらなれば、肉欲に似た愛しかもつことができなくなる、というわけです。

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