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2018年1月11日 (木)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(7)

第3章 近代科学の曙光

1.近代科学以前

中世は近代を産み落とした母でもあります。

科学が発見と進歩のイメージで迎えられるようになったのは、近代以降のことです。近代以前の古代においても、中世においても、科学は発見によって変化するものではなく、むしろ科学を研究していたのは哲学者であり、哲学者は、世界の本質は変わらないものであると考えていました。したがって哲学者は、本質的に変わらない世界を性格に説明する永遠不変の科学を追究していました。

中世を見ていてわかることは、発見が科学の発展に結びつくためには、じつは「発見が科学を変える可能性」をもつことを知らなければならなかった、ということです。

2.科学と哲学

古代中世のカテゴリーでは哲学が最高の学問で、知恵の学とも呼ばれ、専門諸科学は、その下に位置付けられました。その理由は哲学によって個別科学が用いる概念が吟味されてはじめて個別科学の知識が十分な厳密性を得ると考えられていたからです。現代では、数学と比べれば哲学が厳密な知識をもつとは考えられないと思いますが、古代中世では、数値的ないし比例的確実さより、宇宙的秩序において高度な概念を用いてその他の概念を説明する概念的組立のほうが確実視されていました。

現代では数量的な確実さがないと非科学的とされ、哲学は科学ではないと考えられています。しかし、古代中世では、科学の概念が異なるものであったので、哲学は最高の科学でした。神を最高の存在とする思想は、数学的確実性を絶対視するのではなく、神をもっとも近く語ることができる哲学・形而上学こそが最高の学問・科学と考えることに傾いていました。

一方で、これは論争によって知性か鍛えられ、精神が高められて人間は神により近い偉大なものとなる、と考える文化の伝統がありました。したがって、論争に用いられることばの論理がヨーロッパの知性のベースとなっています。同様に、科学の真理とは、論争する知性を納得させるもの、つまり、概念が明瞭かどうか、ということを基準として判断されていました。

このように西洋的理性は論争的理性という性格をもっています。したがって真理の基準は、それが論争に勝てる力、冷静に判断して人を納得させる力を持つ文(命題)であるかどうか、ということなのです。真理ということと、それを聞いた誰もが納得できるということは同じことなのです。古代中世では数量が論理の根拠になる事はなかった。絶対視されて居たのはことばです。聖書には「ことばは神であった」と宣言されていました。論争に勝ち残るのは数字による説得ではなく、一般的思い込みを含んだ当時の人々の日常の経験なのでした。

他方、個別の特殊な経験による発見(例外)が科学に影響を与えることはありませんでした。個別の発見は、それそれ自体としてみれば日常的一般性をもたないからです。当時の人々が普通に真実だと思っていたことが日常的一般です。一般の人々は数学的に見ていなかったので、数学的照明の信頼度は低かったと言えます。当時の科学の理論はも一般的に日常経験を説明しているもので、それに合わない事実の発見は、奇妙なことと見られるだけだった。当時の世界では、神によって起こる奇跡は当然あるべきことでしたし、悪魔も天使も本当にいると信じられていました。かれらはみな人間にはできないことをしでかすので、不思議なことがあっても、それを科学を進展させる動機にはならなかったのです。

3.神の存在証明の歴史から─アンセルムスの場合

カンタベリーのアンセルムスは『プロスロギオン』で神の存在証明を行いました。アンセルムスは神の概念から出発して、神が存在しなければならない、と証明しています。この証明は、一般には概念から存在の結論を導いたことで有名なもので、近代にカントが証明になっていないと否定したものです。

しかし、スコトゥスの基準で、この証明が神学的か哲学的かといえば、明らかに哲学的(自然理性的)と言えます。つまり、この証明には啓示が関わっていないからです。まず、アンセルムスは神を「それより大いなるものが考えられないもの」と定義します。の定義は彼の独創ではなく、古代ローマのストア哲学者セネカによるものです。したがって、自然学の概念ということになり、ここにキリスト教の信仰は入り込んでいません。

その後、アンセルムスは、「概念ないし理解」と「実在」の区別を明確にします。アンセルムスは概念と実在の区別を利用して神の存在証明を導き出そうとします。それは、概念だけのものよりも、概念であると同時に実在でもあるもの、概念が実在するものが「より大きい」という比較を、アンセルムスは主張しました。現在の考え方では奇妙に映るかもしれませんが、概念をひとつと見なして、実在をそれとは区別されるひとつと見なしたときに、概念だけならひとつですが、概念と実在を合わせると、都合ふたつになります。ひとつよりふたつが大きいのは言うまでもありません。それゆえ、概念だけよりも、同時に実在もする概念の方が大きい。当時であれば合理的に結論です。概念があっても、対応する実在があるとは限りませんが、実在があれば、それに対応する概念がある。このように考えるならば、概念だけのものよりも、実在しているものの方が必ずより大きい、ということになります。なぜなら、実在しているものは、知性がそれをとらえれば、実在と同時に、概念、ももつからです。

ところで、神はを「それより大いなるものが考えられないもの」です。そこで、どんなに大きなものより大きいものは、「より大きい」部類に属するのが必然です。この、より大きい部類のものとは、概念だけの部類のものではないでしょう。あきらかに概念だけでなく実在ももっている部類に属するはずです。これは、すでに述べた理由から明らかです。定義によれば、神はどんなに大きなものよりも、さらに大きなものです。したがって、「それより大いなるものは考えられないもの」は、概念だけのものではない。すなわち、どれをとっても、それより大きいものは、概念だけのものではなく、実在していることが必然です。それゆえ、アンセルムスによれば、神は概念としてあるだけでなく、実在している、と結論されます。

この証明は、概念と実在が区別されながら、「大きさ」の尺度が両者に共通に当てられています。そのことは、現在から見ると、おかしい感じられるかもしれません。概念の大きさから実在の大きさにワープしてしまっているのです。数量で規定されるものの「大きさ」と、言葉でしか表現できないものの「偉大さ」とが、混同され、ひとつにされているのです。

ただし、この証明の中に超自然的内容は含まれていません。定義はストア哲学者セネカのもので、出自からして自然学的です。これ以外の概念としては、実在の概念しか証明では使われていません。個々にはキリスト教の啓示は関わっていないと言えます。したがって、ここで証明されている神はセネカ、つまりストア哲学の神ということになります。ストア哲学では、精神的なものと物質的なものは分化していません。したがって。セネカがより大きなものが考えられないのは、この宇宙のなかで最大の大きさということになります。目に見えている宇宙そりものが宇宙であると同時に、セネカの神です。セネカは現実に実在する宇宙を神と呼んでいればいいのです。だから、このような証明は必要でないのです。

これに対して、アンセルムスは目に見えないものの存在を主張します。アンセルムスにとっては、神は宇宙を超えた、目に見えない存在なのです。もし、アンセルムスの神の存在証明が、キリスト教の神の存在を証明しているつもりで、実は宇宙大の神というセネカの神の存在を証明しただけだったしたら、アンセルムスは神の存在を証明できていないことになります。これによってょ梅慰しているのは、宇宙という大きさの神であって、宇宙を超えた神ではないことになるからです。宇宙の存在は自明ですから、証明の必要はないということになるわけです。

では、アンセルムスの証明は無意味ということになるのでしょうか。宇宙が客観的に存在すると主張する立場では、たしかにそうなるでしょう。しかし、すべては人間の主観であるという立場においては、宇宙の存在も人間の主観の投影に過ぎないということになります。その立場には、この証明は有効な説得を含んでいます。主観と見られる概念とは別に存在を見出す経験を、絵を描くという事例としてアンセルムスは示しています。絵を描ことしている絵描きは概念をもっているが、まだ描いていない間は、絵は概念でしかない。そしてそれを描きあげたとき、絵ははじめて存在する。アンセルムスはこの経験を指揮して、概念と存在は区別できることを明らかにしています。この主が有効であるなら、アンセルムスの証明は意味があると言えるというわけです。

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