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2018年1月25日 (木)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(19)

11.意志の自由

アンセルムスは意志の自由を、「意志の正直を守る力」と定義したといい、それは有名なことらしい。罪を犯すような、身勝手なまでの自由を「自由」とは呼ばず、むしろ神に対する率直さが自由の根拠であると主張したのです。

この「自由」の概念は、外からの強制にひるまない気概、また誘惑に負けない自負の念と似たものです。実際において、人は何事かを選択するときに、様々な条件を考慮します。その際に、それ自身とは別の誰かの意見や力あるいは利益の誘惑に左右されていては真の自由とは言えません。したがって、何でもありというのが自由なのではなく、むしろ「課題について他からの強制や誘惑に左右されずに自分判断を下すことができる」ということが、自由であるためな必要なことだと言います。

さらに、判断を下すためには、強制や誘惑に左右されないということだけでなく、なんらかの判断基準、つまり真理の尺度が必要になると言います。身勝手な基準での判断は知性が目指す真理による判断ではないからです。例えば、人が人生の重要な場面で選択に迷うのは、人生の真理がはっきりと見えないからだと言います。

アンセルムスは、その真理を教えてくれるのが信仰であり、真理は神が教えてくれると言います。だから、その真理への忠誠心を守って判断することが、アンセルムスにとっては、自由に判断することになります。従って、アンセルムスによれば、神へと真っ直ぐに向かう思い、つまり信仰を失わないことが、意志の自由そのものである。アンセルムスは、これを「意志の正直」と呼びます。

スコトゥスは、第一の自由の根拠をアンセルムスの考えから受け取ってはいません。スコトゥスは第一の自由を意志自身の発動に帰しています。意欲は意志自身が起こしている、という意志の自己機動性が、意志の自由の根拠・原因であるとスコトゥスは見なします。そして、これに基づいて意志には「罪をなすことが起こる自由」があると言います。しかし他方で、完全な自由は、意志の正しさ、正義を求める思い(真理に従う)適合した意志であるという理解においてはアンセルムスと一致します。スコトゥスは原初の自由を意志が働く始点におけるものだと理解することで、アンセルムスを離れ、独自の道を行くことになります。

始点となるのは、始動状態にある意志が具体的なはたらき(欲したり、嫌ったりする)をはじめるところです。ここで発動というのは、そこがはたらきの究極の始点となっていることを意味します。自然な事柄の生起は偶然的であれ必然的であれ、無数の原因が連なる結果です。現実に起きている様々な事象の大部分は、人間が操作できる物ではありません。事象は複雑に影響しあって、偶然的に生起しています。それゆえ、どこにおいても新たな運動の視点があり得ます。とくに生物は、それぞれがある種の自発性を持っています。そういう中にあって、理性をもつ人間は特に他からの影響を必ずしも受けずに、独立して判断して行動する。それゆえ、個人は自分の行動の始点を自由な意志に持つ、と考えたのがスコトゥスです。意志は自身のはたらき(「好む」)と、その反対の「嫌う」というふたちのはたらきの始点を自分の意志自身のなかにもつゆえに自由を持つゆえに、自由を持つと考えたと言います。これが近代人の自由の観念を作っていくことになります。

12.罪が生ずる過程

スコトゥスによれば、自然的能力は一般にその能力に応じた欲求を持っています。その欲求は同時に「便益を求める思い」にもなります。これに対して、「正義を求める思いは」神からのみ得られるものだからです。つまり「正義を求める思い」は真理に従う信仰ということです。他方、自然的能力は神を知っているわけではありません。したがって、自然的能力は、ただ自分の能力に合ったものを求めます。ところで、神以外のものは、神を知るための道具、あるいは神に至るための過程の一部に過ぎない。それゆえ、スコトゥスによれば、「便益を求めるおもい」は便益を求めることであり、肉欲のごとき欲求です。

感覚が周囲のものを認識し、それを求め、知性がそれに従うなら、そこにあるものは「便益を求める思い」です。このような知性が持つ意志は、人生の究極目的を知らず、そのための規範(正義)を知らない意志であるから、過度に対象を求める運命にあります。この種の意志は、正義を求めないために、完全な自由はもちませんが、能力自身に与えられている発動から生じる自由はもっています。それによって罪をなすということが起こる可能性があるのです。

スコトゥスは、信仰を持つ良い意志は神の意志から啓示を受け取り、それを通して神の自由性を得て、それによって持ち前の能力から生まれる欲求を制御して常軌を逸することがないようにできる、と説明しています。ということは、人間には常軌を逸する可能性もあるということで、スコトゥスはその説明もしています。

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