無料ブログはココログ

最近読んだ本

« 八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(22) | トップページ | 八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(24) »

2018年1月29日 (月)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(23)

第9章 自己の存在とペルソナ

1.形而上学的概念と神学

もともと古代ギリシャ哲学においては「存在」ということばの適用範囲は条件付でした。善美は求められるのであっても存在ではなかった。実際、ものが存在するかしないかは偶然的です。真理探究においては、具体的な各々の心理は必然的な仕方で存在すると主張されることはあります。しかし、真理が吟味されるように、存在もまた吟味されることになります。したがって、心の中に存在しても、それが心の外なまで存在するかどうかは、吟味されなくてはならないことになります。心の外に在ることが明瞭なものとは。目に見えるものであり、目に見えるものを直接動かしているものです。

これに対して中世の形而上学は「在る」という主張が十分な吟味を受けたと見なされ、形相や神までも「存在」の領域に当然のごとく入れられるようになりました。アリストテレスでは「存在」の条件であった「質料」が存在の条件から外され、形相のみで存在とみなされ、むしろ質料の条件をもたない存在として形相や神が論じられました。そこには、新プラトン主義的に解釈されたアリストテレスの形而上学の概念がアラビアから伝わったことがベースになっていると考えられます。自然から受け取られた「本性」の概念について、抽象を通じて自然のうちに不完全性・質料性(個別性、偶然性、時間性、変化等々)を取り除けば、自然を超えた領域の存在に一義的に通用する形而上学的概念が得られることになります。それによって神学での神の本性の議論が可能になるというわけです。

そしてこのことは「存在」概念を、自然と超自然の間で一義であると主張することとなります。「存在するもの」すなわちエンスの概念も、抽象と形而上学の論理を通じて被造物の領域にある不完全性を除けば、被造物の限定性を超えて、神にも一義的に適用できる概念ということをスコトゥスは見出します。

同様に、被造物には固有の属性といわれる「一」「真」「善」があります。いかなる存在を取り上げても、「ひとつ」であり、それは何らかの「真」を含み、何らかの「善」を含むという中世では一般化していた説です。これらも「存在」に伴って神と被造物に一義的に述語されます。それ以外にも、端的な完全性と言われる正義や知恵なども、その形而上学的概念はスコトゥスの神学において神と被造物に一義的に述語されます。このような形而上学的概念は、神を科学的に語ることを可能にし、その結果、神学を科学として成立することを可能にしました。

2.神の本性とペルソナ

スコトゥスの神学における神とは何でしょうか。この問いは三位一体の神の本性についての問いということになります。ところで「本性」の概念とは、複数のものに共通に述語できる概念です。たとえば人間の本性は複数の人間に述語できるものです。この「本性」自体がもつ共通性は、まさに本性自体がもつ性格です。それは神の本性にもいえることで、唯一の神の本性であっても、それ自体が複数のものに共有される性格をもっている。それが神の本性が三つのペルソナに共有されて、父も子も聖霊も共通に神であるという述語とつながるわけです。

カトリック教会の三位一体論は、神に近づくことが十分にはできない人間の不完全さにおいて論じられる他ない論です。神の本性はそれ自体から「共有される」ものです。これに対して、ペルソナの特徴は、「共有されない」という性格にあります。ある性質がある複数のものに共有されれば、その複数のものは、同じ性質を有しています。それゆえ、多くのものが同じ名で呼ばれます。複数の個体が馬の本性を共有しているなら、それらは同じく馬と呼ばれるわけです。他方、共有されないものは、唯一それしかありえないということです。「アオ」と呼ばれた馬は、それ一頭のみです。その名で複数の馬が呼ばれることはありません。同様にペルソナのなかの父、子、聖霊は唯一の父であり、唯一の子であり、唯一の聖霊です。それぞれが別の名で呼ばれます。したがって、神の本性は唯一の本性ですが、共有されるものもあるので、父も子も、聖霊も、共通に「神」の名で呼ばれるわけです。それゆえ、イエスという一人の人間=神の子キリストの存在は、唯一の神の子のペルソナが多数のものも間で共通な人間の本性を受け取って、一個の人間イエスになったものと理解されます。つまり基盤となるのは子のペルソナであり、子のペルソナは神ですから、この基盤から見て、イエスは神であるということになります。他方、子のペルソナがそのとき受け取った本性は人間であるから、イエスは人間であるということになります。こうして神であり人である。このようにして神であり人である一個の存在が説明されます。

ちなみに、現代ヨーロッパの実存主義は、この中世のペルソナ思想の現代版と言えます実存主義の個人は「代替できない」と言われます。しかし、代替できない、というのは、「共通でない」ということと同じです。例えば、同じ能力で測られるものは、その能力に関して共通なので、取り替えができる。ある生産ラインのある箇所の作業ができる能力をもつ人間は多数いて、ひとりがだめになったら、他のひとりに取り替えることができる。反対に取り替えが利かないことがらもあります。例えば個人の特殊な能力については、他の人への取り替えが利きません。ところで、ペルソナは共有できないと言われます。これは、ペルソナは取り替えが利かないことを意味します。したがって、実存主義で言われる「代替できない個人」は、「共有できないペルソナ」の意味と同じです。

そしてまた、ペルソナとしての「わたし」とは、「他の誰でもない」という表現でしか言葉にできない何か、です。つまりネガティヴな表現でできないのは、人間がそれ自体を認識することができないからです。すなわち、わたしたちには自己直観(自己の本質を直観する)がない。自分のであれ、他者のであれ、ペルソナ自体の認識は、わたしたちにはない。そのために、「わたし」は「あなたではないもの」であり、「あなた」は「あなた以外のものではない」としか正確には言うことができません。ヨーロッパの個人主義は、神のペルソナの思想に依拠していて、仏教における「自我の無」と同様、こういう点では空虚です。

« 八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(22) | トップページ | 八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(24) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(22) | トップページ | 八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(24) »