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2018年1月 8日 (月)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(4)

第2章 スコトゥス神学の中の哲学

1.個別化の原理の哲学性

スコトゥスの特徴とされる学説には、「存在の一義性」と並んで、「個別化の原理」があります。後者について、スコトゥスは啓示的真理を持ち出しません。それゆえ、「存在の一義性」は神学説であるのに対して、「個別化の原理」は哲学(自然理性)の論です。

スコトゥスの「個別化の原理」の特徴は、トマス・アクィナスが個別化の原理を質料(指示された質料)であると述べているのに対して、スコトゥスが「このもの性」という形相性を主張した点にあります。

形相性とは、アリストテレスの質料形相論にもとづく用語で、形相ほど独立性はなく、実在的に他の要素と区別できるにもかかわらず、それだけで独立に実在することはできないものを指している。つまり形相のなかの一構成要素とも言うべきものです。したがって、スコトゥスの個別化の原理は、形相をこの形相に規定する力をもちながら、形相のうちにだけ存在することができる。あるいは、形相を前提にしてはじめて存在できるのだ、ということになります。

結論として、それは質料とも形相とも言えず、質料を「この質料」となし、形相を「この形相」とする存在性である、という落ち着きの悪い結論となります。これは、感覚的に自明な個別存在の領域を、質料形相論は明確に示すことができないとして、アリストテレスの質料形相論の限界を明らかにすることとなりました。このことは、個を重視する近代がアリストテレスの抽象論から離れていく契機のひとつとなりました。

2.人間は自己の本質、人生の目的をしることができない

スコトゥスによれば、人類にとって啓示ないしは聖書が必要であることは自然的には証明できない。彼は神学者として聖書の教えの必要性を主張するために、信仰命題を前提にする神学の立場で証明しようとします。(「信仰をもって説得する」)

スコトゥスによれば、人間は自然理性では、自分の本質が何であるか、どんなに論議してもわからないことになりす。言い換えると、人間は自己の本質を見る自己直観を持っていないことになります。同時に、自分の生きる目的が何であるかについても、わからない、つまり、自然的に知ることができないのです。このことは個別化の原理が何であるか結論できないことと合致していると言えます。なぜなら、個別の人間にとっての個別化の原理とは、その人の自己存在をきていしているものだからです。そして、この個別化の原理がしられていないゆえに、この原理によって特殊に規定された本質(神との個別的関係をもつ自己の本質)も、自然的には人に知りえない。

この意味で、人間は自己の本質を知りえない。それだからこそ、神が人間の必要をに応じて啓示を通してそれを明らかにしてくれた、とスコトゥスは言います。ここで、スコトゥスは、人間知性が自己の本質直観できることを否定し、人間の本質は、神が私たちに教えてくれてはじめて明らかになった、と言います。

スコトゥスは、また、私たちの知的能力は、特殊で固有の個別的概念を持っていないと指摘します。その概念とは、それを根拠にして「自分自身が何者なのか」、「自分は何のために行き行くべきなのか」などといったことを知ることができる概念です。それは人間個人の個別的本質概念です。そして、スコトゥスは、それを受け取ることができるのは、信仰を通してのみだ、と主張するのです。

4.自然的認識と超自然的認識の分別

信仰によれば、その内容はある預言者が神から受け取ったものです。預言者はそれを通常の「単語が組み合わされたことば」にすることで、他の人々に伝えられ、それが文字に写されて残され、伝えられてきた。人々がその文字を読むとき、文字によって「ことば」が思い起こされ、ことばは、ある事態やある理解を知性に引き起こす。このようにして、一般に、人は信仰をもつ、というわけです。

これに対して、一般に、人々は様々な経験とともに「ことば」を知ります。経験は感覚を動かし、知性を動かします。ことばは自分の経験と重なり合わさり、知性のなかに共通のイメージが「ことば」によって裁断されつつ、また経験によってつなぎあわされつつ、存在するようになります。すると、自分の経験が作り出したイメージをもとに、他者の経験が他者の言葉を通じて、自分のものになる可能性が生じます。

具体的には、自分の経験をもとにして、人はことばを通じて他者の経験を自分経験へと変えることができます。それゆえ、人は自分が直接経験できない多くのことがらほを学ぶことができます。この、他者の経験を自分の経験にする場面を通じて、自分の経験と他者の経験という、別々の経験の違い、由来の違いは、あやふやになっていきます。自分が経験して学んだことと他者のことばから学んだことの違いが失われていくのです。

それは、経験は、当初は自分の直接経験だけですが、「ことば」は他者から学んだものです。「ことば」を知ることは、他者がことばを学んだという経験を自身の経験に重ねて学ぶことです。実際、信仰もまた「ことば」を通じてもつ知性の共通世界にあります。この点では科学と同じです。そこで、スコトゥスは信仰の由来を超自然と呼ぶことによって、あえて自然的認識との違いを分別しようとします。

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