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2018年1月28日 (日)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(22)

7.個別化の原理

事物の本質は、多数の個別的存在に普遍的であり、共通的です。したがって、それを説明する質料と形相も普遍的、共通的です。つまり同じ本質は、同じ形相と質料の複合として説明されます。したがって、スコトゥスによれば、それらのものが個別的に在ることを説明するものではありません。

このことについて、トマス、「ことば」はそれがもつ共通性によって使用されるものでかるから、言葉によって明瞭化される側面を形相と呼ぶのであるから、形相が普遍的でしかないことは明らかです。他方、質料のほうは、明瞭化されない側面を含みます。個別性は、普遍を一般に指示する言葉によって明瞭化できないものですが、それゆえに、質料の側にある、とトマスは主張します。

しかしながら、スコトゥスは、質料が普遍的本質を説明する原理の一方であることは、質料形相論として外すことはできないと言います。だから、トマスの言うような、質料のうちに普遍と対立する個別化の原因性がある認めることはできない。スコトゥスによれば、質料も形相も個別化の原理ではありえない。

スコトゥスは現実に存在することと個別化を分けて、別のものだといいます。現実に存在することは、本質の秩序を横並びに示す「範疇の並列秩序」内のものではなく、その外に位置付けられると言います。範疇の並列秩序は、被造物の存在を区分する範疇であるので、現実に存在することは、範疇を超えて、神にも述語されるからです。これに対して、個別化は被造物の本質の個別化であるため範疇の並列秩序のうちにあるのてなければなりません。つまり、範疇のうちの「白」を個別化して「この白」とする原理は、その範疇のうちにあるのでなければならない、と言います。たしかに現実存在を経験するのは個物に出会う場面です。そのため現実存在は個体性と結び付けられ易いかもしれません。しかしスコトゥスは、現実存在は、いま、ここに在る個体性を通して在るのではなく、本質を通して在ると主張しているからです。というのも現実存在は何よりも第一原理である神において本質を通して在るからです。

それゆえ、スコトゥスによれば、質料によっても形相によっても、存在することによっても、分量によっても、個別化は成り立たないことになります。では、個別化するのは何か、と言えば、何か究極のポジティヴな存在、というほかない。スコトゥスによれば、それ以上の名前は見つけることができないのです。

8.普遍的本質と個別化の存在

もともとアリストテレスは、普遍的知識を追求する科学の世界で、個物はそのデータになる質料にすぎず抽象や帰納によって普遍的本質が見出されれば、その本質に属する個体は区別してひとつひとつを取り出す理由もなかった。つまり、アリストテレスにとって説明されるべきは普遍的本質ないしは真理であって、個別の存在が説明されるべきであるという理由はなかったのです。

ところがスコトゥス神学は、人間は個人として、信仰において正しかったり不正であったりする存在です。あるいは、救世主キリストは神であると同時に個人でもありました。また、直観によって存在するままに受け取られるのもの、個別のものです。そのため、スコトゥスにおいては、現実に存在した、あるいは現実に存在する個別のものが、言葉が表示する普遍的本質によって説明されるべきであり、それが神学と呼ばれる科学なのです。それゆえに、ものが個物として存在する根拠を問うことが課題となってくるのです。

そして、その反対の極がでてくることになります。つまり個体こそが現実に存在すると言うのなら、普遍が現実に存在するという身とは、何を根拠にして言うことができるのか、という問いです。なぜなら、普遍は言葉になっているだけで、直観によって捉えられることはないからです。すなわち、この問いが持つ困難は、個体は見えるが、普遍はただ理性によって触れられるだけであり、論理的な証明しかできないということにあるからです。

スコトゥスは、アヴィセンナに基づいて、実在する自然本性について、次のように解いてゆきます。「馬」の本性を例にとってみましょう。この本性自体には、「存在する」が付帯していない。しかし「存在する」が付帯することによって実在する本性ということになります。これが実在可能な本性です。この意味で本性は実在的と言うことができます。他方、この「本性」に個別化の原理が加われば、「この本性」という個体が生じることになります。したがって、実在するこの馬は、馬の自然本性に、個別化の原理と存在することが付帯して生じていることになります。そしてその一方で、実在するこの馬は、人間の感覚に受け取られ、表象に受け取られ、同時に知性の直観と抽象に受け取られます。そこで、表象に受け取られ、知性の抽象にうと取られた「馬」は、知性のうちで「馬の像」となります。この像は、「馬であること」以上のものを含んでいるわけではありません。つまり個別性も存在性も抽象によって捨てられています。その像に残っているのは、元の「馬であること」のみです。しかし抽象された像は、つぎに普遍を示す「ことば」に置き換えられます。ことばはどれも複数の人々の間で共有されるものですから。このときに、ことばの持つ論理性によって普遍性が「馬」に付帯します。こうして、「普遍的な馬」の概念が生まれます。ただし、ことばの持つ論理性抜きに、その意味(内実)だけを取り上げるならば、それは形而上学者が取り上げる本性ないし本質の概念ということになります。そして、これこそがその本質の第一の概念です。すなわち、個別か普遍かに無差別的で、なおかつ、存在するか存在しないかに無差別的な「本性の概念」です。そしてそれは、実在上も、個別的であることにも存在することにも、先立っている本性です。そして、この本性は、神が宇宙を創るときに最初に知性のうちで考えた本性です。

なお、スコトゥスは本性にも一性が見出されると言います。現実に存在する個体の一性は、その個体の数を数えるときの一ですが、本性の一性は、種の数としての一です。つまり、馬の本性も、人間の本性も、馬と呼ばれ、人間と呼ばれる多数の個体に共通である仕方で、それぞれがひとつです。そしてこの一は、個体の一と比べて、より小さな一であるとスコトゥスは言います。おそらく、個体の一性は、個別化の原理によって他の個体から区別されて明確に作られる一ですが、本性のほうは、それが他の本性とは違う存在として独立に在る、という存在の性格によってのみ、ひとつであるにすぎないからだと推測できるものです。しかしスコトゥスは、この一も、種の本性それ自体の内にあるのではなく、その本性に固有の属性として付帯するものだと言います。

スコトゥスがこのように本性を、その固有の属性から切り離してそれ自体として捉えるのは、形而上学で用いる本性を、正確に神にも一義的に述語できる本性であることを理由づけるためでした。なぜなら、形而上学で用いる本性の概念が、固有の属性としての一も含まないことによって、本性の他は真に何もないものが本性自体の概念であることを確かめ、そのうえで本性を神に適用する、という手法が可能になるからです。つまり、「神は、第一義的に神の本性である」ということが言えるし、その後、本性である故に、その存在にしたがって、固有の属性として、神が第一であり、真であり、善であることを言うことができる。すなわち、神がひとつであるのは、神の本性が本性としての固有の属性としてひとつであるからであって、被造物において、同じ本性を共有する個体がそうであるように、個別化の原理によってひとつではないことを、明確にするためです。

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