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2018年2月

2018年2月26日 (月)

高山真「羽生結弦は助走をしない」

 高山真「羽生結弦は助走をしない」を読んだ。
 フィギアスケートのフィギアとは人形ではなく、図形のことで、このスポーツはもともと氷の上に図形を描くもの。私の年齢であれば、カルガリーオリンピックのころまではコンパルソリーといって、正確にスケートの軌跡で図形を描くプログラムがあったのを覚えている人も多いと思う。従って基本はスケートの薄い刃を自在に操って美しいトレースを正確に描くの。したがって注目されるジャンプ以外の、例えばスーと伸びていくトレース、上半身の振り付けと密接に絡み合っているようなエッジワーク、そのスピード、そして振り付けとエッジワークの融合から生まれる音楽との一体感。それらすべてのトータルパッケージがフィギアスケートの魅力だという。そして、羽生結弦というスケーターは、そのトータルパッケージで抜きんでている。それを例えば、テレビ中継の解説やスポーツ新聞の応援記事や人情ストーリーでは説明してくれない具体的な解説をしてくれる。例えば、羽生が4回転ジャンプの前後にどんなステップやターンを入れてエッジワークでつないでいくかをひとつひとつ説明していくが、その密度の濃さの異常なほど突出している。それを可能にする羽生のスケーティング、下半身の蹴る力によって推進力を得るのではなく、厳密な体重移動により、瞬間的に適切なエッジに乗る。いわば、体重移動だけで滑ってしまう技術だという。
 スタートのひと漕ぎの後、左足のフォアインサイドから、一瞬のターンでバックアウトサイドにエッジが替わるところ。このターンの滑らかさと、バックアウトに替わってからの、糸を引くような迷いのないトレースが見事。
 コンビネーションジャンプのための助走にあたる漕ぎから、すでに曲の音符と足さばきがピッタリ一致している。助走に続くコネクティングステップは、エッジを動かすことで成り立つステップに対してはピアノの短い音、エッジを動かさないからこそ成立するイーグルに対しては長めに伸びる音を合わせている。単に曲のイメージだけではなく音符やリズムにまで厳密にエッジワークを合わせている。これが、この曲を選んだ必然性やこの曲で滑る意味を、非常にクリアに主張している。
 単独の4回転サルコーを着氷し、そのスムーズなトレースの延長線上に、パーフェクトにフリーレッグを置いていき、アウトサイドのイーグル。そしてエッジを替えて、インサイドのイーグルへと移行する。ここまでが4回転ジャンプのトランジション。インサイドのイーグルになってから、キュッとスピードが上がっているのは、非常に正確なエッジに乗っているから。その時のインサイドのイーグルの際の背中のアーチが素晴らしい。こんなイーグルを4回転ジャンプ着氷後にいれることは常識では考えられない異常なことで、羽生にしかできない。
 こういう解説の仕方がある。一見マニアックな専門用語の羅列にようだけど、これを映像を見ながら読むと、いかに羽生が演技しているのか、他のスケーターと違うのか分かる。そして、これがテクニカルエレメンツの加算点(出来栄え)の理由であり、プログラムコンポーネンツつまり表現力の点数になるというわけ。これをアピールするようにやっているのが女子のメドベージュワで、この人のパフォーマンスは、いかにもゴテゴテに飾り立てた感じがする。
 これを読むと、実際、先日のオリンピックの羽生の滑りで、最初の4回転ジャンプをとぶ前に、いかに多くのことをやっているか、例えば、左右両足のエッジワークと音楽のリズムが一致している(ネイサン・チャンなどはジャンプをとぶために歩数を揃えることに集中して、羽生のような配慮をする余裕はない)ことなどを気づいてしまう。これを読んで、はじめて、同じジャンプをとんでいるのに点数がなぜ違ってくるのかの理由が分かった。

2018年2月20日 (火)

小津安二郎監督『晩春』の感想

Late_spring_japanese_poster  1949年公開のいわゆる小津スタイルの最初の作品。笠智衆演じる初老の父親が原節子演じる婚期の遅れた娘を嫁にやる騒動とその後の悲哀という内容。鉄道の風景の静止したようなカットをまるで脈絡のないように続け、次第に風景から家、室内へ、そして人物へと滑らかにカットが切り替わっていく冒頭は、「東京物語」では抒情性を生み、東山千栄子の演じる老母の死の哀しみをシンボリックにする伏線にもなる手法に発展していく原点にもなっている。しかし、そのようないわゆる小津スタイルに収まりきれないシーンも数多くある。例えば、父娘が鎌倉から東京に出かけるために電車に乗るシークエンス。このダイナックな映像はアクション映画の類型的な列車のシーンに比べてはるかに躍動感に満ちている。他にも原節子が街路を歩くのを後ろから移動で追いかけるシーンのサスペンス溢れる映像とか。ここには小津スタイルの完成形ともいえる「東京物語」の統一感はない。ここにはスタイリストには程遠い小津がいて、その統一感のなさに小津の迷いが感じられる。思うに、小津は手探りで制作を始めたのではないか。映画史では前作「風の中の牝雞」の失敗の後の起死回生ということになっている。それは、結果としてのことではないか。例えば、父娘が京都に旅行にでかけ、旅館で並んで寝るシーンの室内灯に移る二人の脂ぎったような顔は、近親相姦と見紛うばかりだし、能を見た後で娘が父を難詰し逃げるように駆け出していくのは不自然なほどの激しさだし、さらにそれを後ろからの移動撮影で追いかけるのはフィルムノワールのようでもある。それは空回りと言えなくもないが、そこに小津の焦りとも表現衝動を抑えきれないとも、を感じ取らされてしまう。
 しかし、この作品が小津の他のどの作品にもない感動をもたらすのは、そのようにあがきながら、小津が、ここで何かを見つけ掴んだことを作品のなかで感じ取れることだ。例えば、原節子演じる娘が駆け出すシーンは数回あり、それをカメラが後ろから追いかけるが、その場合は彼女が哀しみなどの強い感情にとらわれた時で、その思いをつのらせるのは、実はそれを映像として表わしているのは彼女の演技ではなくて、その後にでてくる部屋の廊下のシーンだ。小津スタイルの特徴である定点観測のような固定ショット。それはモンタージュではない、二つのシーンをつなげ方で、日常の坦々とした些細なことをつなげていくことが、人生の真実そのものにつながっていくことではないかということだ。それに気づかされれると、一見破綻にちかいような脱線が、実は些細な日常と、結果として関係づけられてしまうという力技に気づかされてしまう。最初、淡々として人形のように見える役者の動きが、最後にはこれ以外にないと感情移入してしまうように見方が変わって行ってしまうのも、そのせいだ。
 だから、この作品の最後は、娘が結婚してメデタシでもなく、愛する娘が去ってサビシイでもなく、その一日が終わり、また、明日がくるという淡々とした終わり方になる。そこに名場面も名せりふのない。そういう一日の終わりが実は、真実を映し出し、見る者の感情をえぐってしまうことになってしまう作品になっている。

2018年2月17日 (土)

『資本の世界史』を読んだ。

 『資本の世界史』を読んだ。
 著者はドイツの経済ジャーナリスト。資本主義を資本を投入することで将来のより多くの資本を手に入れる、つまり利益を上げるのを目的とする、要するに指数関数的な成長を生むプロセスだという。この資本というものが近代に生まれたという。資本とお金とは違う。お金は交換手段であるのに対して、生産を効率化するプロセスに伴うのだという。それは18世紀のイギリスで紡績工場主が織機や紡績を機械化したときに始まった。いわゆる産業革命だ。史上初めて人間の労働力が技術によって代用され、それに伴って富が生まれた。ここでつかわれたのが資本。そして、これを境に指数関数的な経済成長が始まった。
それがイギリスの北西部で生まれたのはなぜか。機械は昔からあったし、蒸気機関という動力も以前から知られていた。まして、イギリスは技術の先進地域ではなかった。著者は、その理由をイギリスの賃金が当時の世界で一番高く、そのために人間の労働力を機械で代用することで初めて利潤があがったこと、かつ、労働者の賃金が高くなったので購買力が高まり市場が拡大したことを指摘する。つまり、フランスなどの大陸諸国は利潤を上げるために賃金のダンピングをして、生産力を高め、効率を高めることを考えなかった。
このことは、資本主義経済に不可欠な市場競争というのは近代になって人為的に作られたもので、決して自然にあったものではない。その維持のためには不断の努力、つまり適切なコントロールが不可欠だという。
 著者の言う経済学というのは、自然科学ではなく、歴史学のような事実から特定の意味を引き出すということは、語る(書く)という営みと重なるもものだということになる。
これを具体的な事例分析を進めていくと、従来とは違った地平が広がってくる。それは面白いのだ。
 経済活動というのは、ふつう、儲け即ち利潤を求めるもの。利潤は、単純化すれば、収入と支出の差。ここでちょっと立ち止まって考える。ある企業が儲けるということは売上という収入が仕入という支出より多かったということ。かりに市場にAとBの2社しかないとしよう。A社が儲けたということは、その分だけお金をガメたことになる。市場内のABの関係はAが買ったより売った方が多いので、Bはその逆ということになる。これはゼロサムゲーム、即ち限られたパイの奪い合い。Aが利益を出すことは経済成長に結びつかない。これがヨーロッパで近代を迎える前の経済。
 近代の資本主義経済は、A社が儲けた利潤を、将来に向けて生産規模を拡大しようと考え、将来の拡大する売上のための仕入れや設備を買うことになったという点で、以前とは一線を画す。これをA社とB社だけの市場で考えると、A社が儲けたといっても、A社は儲けた分でB社から買い物をする。そうすると、B社の売上が増えて、B社も儲けることができることになる。このとき、A社が儲けてガメた金は、将来のために使った。それは将来への投資となって、使ったお金は資本ということになる。また、B社も儲けを、将来もっと儲けるために設備や仕入れに投資する。そうすると、儲けの分は市場で売り買いされる量が増えることになる。それは市場規模が大きくなっていく、つまり成長することになる。それが経済成長ということだろう。せっかく苦労して儲けたのを、本当のところ先がわからない未来に向けて投資するという発想の転換。それが資本主義の始まり。それがあったからこそ、18世紀イギリスの産業革命において機械化という挑戦的な投資を実行することにつながった。
 1929年の大恐慌について著者は言う。1920年ころからの技術革新と飛躍的な生産効率化で生産が拡大し、企業の利益が爆発的に増えた。この拡大した生産によって溢れた商品を購入できるように労働者の賃金が相応に上がるべきだったが、経営者は増大した利益を賃金に分配せず自らの懐に入れた。結果として売上は不振になった。利益を懐に入れた一部の裕福な人たちが贅沢をするくらいでは全体の消費は増えないから。需要が増えないので事業投資は滞った。その先にあったのが投機というわけで、投機で儲かれば、労働者を雇ったり機械を買ったりして生産するより効率よく儲かるし、儲けを独占できる。というわけで、ますます投機がエスカレートした。何か、これって、今の日本の政権が賃上げを経済政策として求めている理屈とそっくりではないか。
 これを世界恐慌に拡大したのはヨーロッパに波及したためで、の大きな原因はドイツの事情に在ったという。ドイツは第1次世界大戦に負けて莫大な賠償金を課せられた。ドイツが賠償金を払うためには輸出をして外貨を稼ぐしかなかった。しかし、英仏はドイツから大量の商品が輸入されると自国の雇用が脅かされるため規制した。そのため、ドイツは支払いのために大量に国債を発行した。しかも、信用が低いから利息を高くしないといけない。それに飛びついたのがアメリカの投機家たち。つまり、アメリカは自国への賠償金を間接的に自分で払っていたことになる。それが株価の暴落で資金ショートを恐れた投機家たちが、一斉にドイツの国債や投資を引き上げ始めて、ドイツ経済はあっと言う間に崩壊し、英仏の投資家もドイツに多額の投資をしていたことから欧州全土に波及。何かこれって、最近のギリシャに端を発したユーロ危機と同じではないか。
 その後、各国の財務当局は緊縮策をとったので、経済は収縮の方向に雪崩をうったため、立ち直りの機会を失い、不況は長期化してしまった。結局、アメリカが実質的に不況を脱するのは第2次世界大戦の戦時増産を待たねばならなかったという。

2018年2月13日 (火)

『この世界の片隅に』を見た。

 この作品は、戦時下の普通の人々の生活の視点から、徹底した時代考証の正確さと当時を生きた人々に対するリスペクトの姿勢で、戦争のリアルな姿を描いたといったことを言われる。しかし、多分、こんな見方をする人は少ないと思う。それは、一番最初のところ主人公が海苔を町に届けにいって途中で道に迷っているところを、屑拾い大男に拾われて、背負っている籠に放り込まれ、そこで未来の伴侶となる男性と出会う。この大男が山坊主のようだし、海苔から月や星形を切り抜いて望遠鏡に貼って、それを大男に見せたら夜になったと勘違いして眠った隙に逃げ出した。何か荒唐無稽なと思っていたら、主人公のすずが妹に絵を描きながらお話しを作っていたという落ちで結ばれる。ここが、私には、このアニメ作品の基本構造とか話の中心になっていて、戦争云々というのは、そのための題材と思えた。
 では、私の思った、この作品の基本構造とは、主人公のすずという人は、ずっと絵を描き続ける人で、日常の見たこと、経験したこと、あるいは料理のレシピのようなメモまで描いていた。しかも、その描いた絵が、この作品のアニメの絵柄と同じだということだ。アニメだから、そんなものだという意見もあるかもしれないが。そのことは、主人公の描いたものが、このアニメ作品の風景と一致するということは、このアニメの世界は主人公が描いたもの、という。その主人公は描きながら、その世界にいる。だからこそ、この作品はすずのモノローグで進行するし、すずの視点で、この人の周囲の風景や人々の行いを映し出していく。それが、シンボリックに提示されたのが、さきに述べた最初のシーン。だから、すずは語る人であって、行動する人ではない。この作品の中で、モノローグでは雄弁なのに、生活の場面では自分の意思を表すことはおろか、言葉も少ない。行動も受け身に終始する。それが、空襲で右の掌を失うと、絵を描くことができなってしまう。その後、すずは、次第に家族や人々に対して言葉を発し、主体的な行動するようになっていく。この作品が感動的なのは、それでもすずがモノローグをやめないということにあると私は思う。描くという手段を奪われながらも、すずがそれ以降も語ることを続けているのは、以前と違って意識的に敢えて語っているということで、そこに彼女の決然として、語るということを選択したことが表れている。この作品のドラマは、私にはそこにあって、それにはリアリティーと共感を誘う強い説得力があると思った。それは、この物語を、しかも、アニメという表現媒体でなければできない物語だった。まったくジャンルは違うけれど、スティーブン・キングの「スタンド・バイ・ミー」(小説の方)の感動に通じるものを感じた。語るということをめぐってのメタ・ストーリーという意味では、今、この作品を見ることの切実さは十分あると思う。

2018年2月11日 (日)

『メッセージ』の感想

Arrival2016  ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の映画『メッセージ』を見た。「突如地上に降り立った巨大な宇宙船。謎の知的生命体と意思の疎通をはかるため雇われた言語学者のルイーズは、物理学者イアンとともに“彼ら”が人類に何を伝えようとしているのかを探っていく。そしてその言語の謎が解けたとき、彼らが地球にやってきた驚くべき真相と、人類に向けたラストメッセージが明らかになる…。」という惹句のSF映画。テッド・チャンの『あなたの人生の物語』というSF小説を原作としている。この小説の題名は、「あなたの人生」の物語で、ふつう言い方であれば、私の人生だったり、彼女の人生ということになろう。主人公の言語学者は、その謎の知的生命体の言語とかコミュニケーションの手段を解明しようとする。“ヘプタポッド”と名づけられた知的生命体や、その言語のあり方の小説では想像するしかなかったのを映像化が見事で、いわゆる特撮映画とかスペースオペラとは一線を画した、SFのテイストを強く感じさせる映像を見ているだけでもうっとりするほど。“ヘプタポッド”が最後まで謎のままなのは、アーサー・C・クラークの『地球幼年期の終わり』のような宗教的SFを彷彿させる。しかも、映像として美しい。
 ただ、原作の小説の特徴的な要素、たとえば、時間をぶつ切りにした場面を並べ替えることで、物語が現在と過去と未来を縦横に行き交い、その境界が失せて、それらがおなじ画面にいっしょくたになってしまう。それが実は、この物語そのものである。それはまた、私とあなたの境界が消失し、それがひとつの場面にいっしょくたになる。「あなたの人生」は私の人生と重なり、“ヘプタポッド”の人生でもあるとなる。それをパフォーミングアートでもある映画にしようとするので、難解な印象になる。そのあらわれは、最初の主人公と娘との場面で、その娘の成長と死がフラッシュバックで描かれ、その後に巨大な宇宙船の場面となる。で、このふたつの場面が平行のまま映画は進む。“ヘプタポッド”との場面に、フラッシュバックがとこどころで挿入されるが、そのふたつの関係が分からず、映画のストーリーが細切れになってしまうようで、分かりにくいことこの上ない。しかし、このフラッシュバックは回想と思っていたら、それは未来の記憶ということで、それは最後ちかくなって主人公が中国の軍人の暴走を食い止めるところで明らかになる。主人公は“ヘプタポッド”の言語を分析しているうちに、その時間や空間の認識構造を身につけていた。つまり、主人公はフラッシュバックで明らかになっている娘を成長させて死なせてしまうことを記憶することになる。最後に、結婚して娘を生むことを決心する。その結末は、私は、映画を見終わってから分かった。それが、この映画のドラマをつくっていた骨格であって、それが感動を呼ぶものであったことを。だからというわけではないが、この映画は繰り返して見ると、面白くなってくる。

2018年2月 9日 (金)

ジャコメッティ展(9)~13.ヴェネツィアの女

 この間に矢内原伊作をモデルにしたスケッチや人物以外のスケッチその他が展示されていましたが、「マルグリット・マーグの肖像」を見てしまった私としては、ジャコメッティの研究をしているわけでもないし、そういう対象として以外は、とくに見るべき価値が分からないので素通りです。例えば、矢内原伊作とディエゴのスケッチを一目で見分けるのは、私には難しいし、どうでもいいことです。そこに、ジャコメッティの作品を楽しむことに関して意味があることとは思えません。展示方法に対するコメントになってしまいますが、矢内原伊作のスケッチだけを「モデルを前にした制作」のコーナーの一部でなくて、あえて独立させているのは、それなりの作品上の意味があったと思うのですが、それを明らかにするような作品が展示されていなかった。そういう、ちくはぐさが、この展覧会全体にあったように私は感じました。それで、いくらか興ざめしたことはなかったとは言えません。そこで、ヴェネツィアの女という、女性立像をまとめて展示しているところですが、これも、前の「女性立像」の展示と何が違うのか、会場の順路を戻って、違いを、自分の目で確かめようとしたのですが、あえて、これだけ取り上げて展示しなければならないような、作品の特徴てきな違いは見つけられませんでした。ジャコメッティの作品から話が離れてしまっていますが、あえていえば、ジャコメッティ自身は意図的にやっていたわけではないかもしれませんが、マンネリ芸のような彼の彫刻作品について、人々が飽きてしまうことがないように、新たに制作していく作品には従来の作品との差異を印象付けなければなりません。それは前の作品に比べて付加価値があるということを示せばよいことなので、しかし、彫刻作品そのものについては、たいして変わり映えするものではないので、付録を付けてあげれば良い、その付録はものがたりであったりイベントであったりといったことです。それが、ヴェネツィアのイベントで女性立像をあつめて見せるということで、そういうイベントをやったという物語を伝説として残して、それを消費の対象とすることです。とくに、そういう付録は、マスコミでは扱い易いので、大きく取り上げられば、情報が拡散し、作品の評判に尾鰭が付けられることになり、付加価値が高まることになります。ジャコメッティの周囲に、そういうブレーンがいたのか、彼自身にも、そういう人の忠告に従ったのであれば、そういうマーケティングのような才能があったのではないかと思います。これは、彼を誹謗しているのではなくて、私は、そういう才能を彼がもっていたのであれば、それはいいことだし、私にとって、彼の作品というのは、工芸的な要素が強く感じられたので、そういう側面は作品の価値とは切り離すことはできないと感じたということもあります。
 最後は広間のようなところで3点の彫刻がおいてあって、撮影OKとのことで、スマホで撮影している人がいっぱいいました。その人たちには、その程度のものなんですね。

2018年2月 8日 (木)

ジャコメッティ展(8)~7.マーグ家との交流

Giacomettimag  「マルグリット・マーグの肖像」という、ジャコメッティにしては珍しい油絵。これは、今回の収穫だったと思います。この作品を見ていると、ジャコメッティという人は色彩のセンスが全くなかった人であることが良く分かります。もしかしたら、独特のセンスの持ち主で、あまりに独特すぎて、誰にも理解できなかったのかもしれません。乱暴にグレーが塗りたくられたような背景に、女性の肖像が描かれていて、比較的大きなキャンバスの真ん中の女性の顔だけに描線や塗色があつまって、その他の部分はおざなりのようで、画面としてつくろうという気配が全くない。しかも、顔の部分はひとつの線を引くのにかなりの観察と考慮と決断に時間をかけているテンションの高さは何となくわかるのだけれど、この顔は人間の顔の形の要素は充たしているのだけれど、人の顔の形をした人でない異形に見えてくるのです。それは、人の存在が持っている本質的な不気味さとか、怖ろしさとかが普段は隠されているのを抉って見せたというのではなくて、そうであれば、そういうものを描こうとする意図が最初からジャコメッティが持っているはずなので、画面全体をそういう描き方で意図的にまとめていくはずです。そうではなくて、彼は顔を描いていくうちに、そうなってしまったという感じがします。譬えとして少しズレているかもしれませんが、目の前の対象を写生しようとして、鉛筆の線で描いていくうちに、なかなかキマらず、満足な線の描写を求めて線を重ねるように何本も線を引いているうちに、紙の上は線で真っ黒になってしまって、顔がその真っ黒の中に埋まってしまった。そんな感じが、この肖像の顔に感じられるのでした。この作品は放っておくと、そうなってしまうのを、時間切れか、周囲がやめさせたか何かで、突然、制作の途中で中断させられて、後は投げ出されたので、かろうじて人の顔の形の描線が残ったという気がします。それだけに、私には、ジャコメッティという人の、ある点では病的なところを、この作品で垣間見ることができたと思います。しかも、いかにも病的というものでなくて、さりげなく普通っぽく提示されているところに、彼の病気の底知れぬ不気味さを感じることのできるものです。
 私には、何点も展示されていた、ジャコメッティというブランドを示しているような独特の細長い彫刻よりも、この油絵一点が、もっとも強く印象に残りました。

2018年2月 7日 (水)

ジャコメッティ展(7)~6.モデルを前にした制作

Giacomettidiego2  「ディエゴ」という彼の弟をモデルにしたスケッチで、弟ということで長時間のモデルを強いることができたのでしょうか。それにしても、顔の細部や表情には手をつけられず、もっぱら頭の形状に関する線が引かれている。線を引くことによって、手に形状を覚えさせているかのようです。
 それが彫刻に仕上げられると「ディエゴの肖像」ということになると思います。彼の彫刻では珍しく、顔に目鼻が、それとわかるようにあって、ディエゴをモデルに制作したことが分かるものとなっています。このような個人であることがわかるような彫刻作品だから分かることなのでしょうが(他の彼の彫刻作品では、抽象度が高いので注意することがなく見てしまうとことになるので)、この顔はデスマスクのように見えてしまうのです。生きていないのです。生き生きとした生命感であるとか、人であれば誰でももっている表情といったことが全くない。また、ダイナミクス、つまり、動物であれば必ずある動きが感じられない。ここにあるのは、外形の形態のみということなのです。モデルが弟ということなのですが、ここには、ジャコメッティの弟への親しみとか何らかの感情は微塵もなく、敢えて言えば、冷徹さだけが際立ってくるのです。彼は、そうしなければ、自由な想像ということができなかったかもしれませんが、作品への感情移入とか共感というのは、この人の作品の場合には、極めて難しいということを、これらの作品を見ると、分かります。そのことが、見る者にとっては厳しさというイメージを持ちやすくなるということかもしれません。
Giacomettidiego1

2018年2月 6日 (火)

ジャコメッティ展(6)~5.書物のための下絵

Giacomettibook1  書物のための下絵として制作されたデッサンのうちの一部で、鉛筆で描かれたものだそうです。ジャコメッティはデッサンに時間をかけるといいます。モデルをスケッチする場合には、異常に長い時間がかかってしまうので、モデルを務める人が限定されてしまったということです。ここで展示されているのは、必ずしもモデルを描いたものとは限りませんが、デッサンをするからには、やり方は、そんなに違うことはないでしょう。時間をかけて描いているのではないか。しかし、見ていると時間をかけている割には手数が少ない。線の数が少なくて、あっさりとした印象です。(このデッサンはリトグラフ用の鉛筆という線を消し難い特殊な鉛筆とのことで、描いては消しを繰り返したものではないということです)ふつうデッサンに時間がかかるというのは、たくさんの線を引いて、そのことに時間がかかるのでしょうが、このジャコメッティのデッサンを見ると、そうではない。それでは何に時間をかけているのでしょうか。私の想像で、実際とは違うかもしれませんが、ジャコメッティは線を引くこの前段階に時間をかけているのではないか、と思うのです。つまり、対象を見るということと、それをどのように描くか、画面上の画像をイメージするということ、画面上のどこにどんな線を引くのかということを考えるといったことに、時間をかけていたのではないかと、ということです。それが、ジャコメッティという人にとって「見たままを描く」ということだったのではないか。つまり、彼にとって見るということは、イメージすることも含めていた、ということで、むしろ、イメージすることの比重が重かった。そして、実際に線を引く、手を動かすという作業は、手早く作業した。そんなことを、彼のデッサンを見ていると、想像してしまうのです。
Giacomettibook2  初期のデッサンを見ると、描く技術は、出来上がっていたのではないかと思います。したがって、ジャコメッティの苦心というのは、どのようにイメージするのかの一点にかかっていた。それは、彫刻などよりも、デッサンに直接表われているように見えます。

2018年2月 5日 (月)

ジャコメッティ展(5)~4.群像

 このようなジャコメッティの小手先のセンスが発揮されたのが群像です。
Giacomettiseven  「森、広場、7人の人物とひとつの頭部」という作品です。人物の群像であれば、各人物の個性を顔や表情に作り分けるのが一番手っ取り早いのですが、それをせずに、おなじようなプロポーションのパターンを一見同じようにつくっています。奥の頭部は別にしてですが、この違いの組合せ型によって無限のパターンをつくり出すことができることになると思います。ここでの、それぞれの人物は、独自の個性を与えられず、隣との差異で見分けられるものなります。ここでは個人の個性、つまりは人格というようなことは無視されて、ゲームのコマのような操作可能の部品のようなものとして存在しています。細部に神が宿るといいますが、その細部を切り捨てたことによって、細部の際によって生じる意味、その意味の蓄積が人格個性と言ったことになると思いますが、そういったものを切り捨てているわけです。「引き算の美学」という形容が前にありましたが、もしそうやって切り捨てていったという視点でみれば、ここに残されているのは、その残骸の虚無のような世界ということになります。そう、この作品の人体彫刻の間には隙間風が吹いて流れるような薄ら寒い光景ということです。
Giacomettithree  「3人の男のグループ(3人の歩く男たち)」という作品では、ほとんど同じように3体の人体彫刻をつくって、手作業で作ったことから生まれる差異を3体の違いとして並べているというように見えます。これらを見ていると、作者がどのように考えていたかは別にして(「引き算」とかんがえていくと、この作品も虚無的な作品に見えてきます)、ジャコメッティの対象を凝視して、それを制作していくというのは、見る者が人物彫刻であることが分かるということのために機能していることではないかと思えてきます。この作品を見ていると、ジャコメッティが制作しているのは、かたちを想像して、それを手でつくって現実にしていく作業のように見えてきます。頭の中のイメージですから、細部までリアルであるわけではなく、その茫洋としたものを、そのまま現実に存在させる、その道具として人体という題目が見る側に必要だったというように。ジャコメッティの側としては、線がのびるということが形になって、見る者に何らかのイメージを喚起させるプロセスだったのではないか、と思えるのです。それは、展示されていた、彼のスケッチがモデルを長時間ポーズをとらせて描いている割には、線が少ないことからも言えるのではないか。彼は、その長い時間、モデルを凝視していて、鉛筆をはしらせるのではなくて、頭の中でその紙に定着させる画像をつくってはこわしを繰り返していたのではないか。そして、そのイメージができたところで、さっと鉛筆をはしらせて紙の上に実現させた。そこに細部の入り込む余地はありません。それと同じ作り方が、彼の彫刻作品では、もっと洗練されて実行されたのではないか。つまり、制作の作業そのものは刹那的といえるようなものではないか。その刹那が作品としてまとまる前提として、決まったパターンの土台が必要だった。極言すれば、ワンパターンを繰り返して作品を量産し続け、目先を変えて、見る人の興味を繋ぎ続けるマンネリの芸にジャコメッティの芸術というのは収斂するのではないか。

2018年2月 4日 (日)

ジャコメッティ展(4)~3.女性立像

Giacomettiwoman  ここからは、カタログのようなジャコメッティのブランドのステロ・タイプのパターンが、並ぶことになります。このような見方は美術展や作家に対して失礼なのかもしれませんが、これからは、個々の作品をそれぞれに好き嫌いでみるというよりも、ジャコメッティのステロ・タイプのパターンである細長い人体彫刻を見て、ジャコメッティというブランドであると認め、それで安心してもったいぶって眺めることができます。まるで、現代のファッション・ブランドとそっくりです。ジャコメッティが、そういうことを意図的に行ったということではないかもしれませんが、結果として、そういう要素があったからこそ、広い指示を集めて、こんな国立の権威ある施設で大々的な回顧展を開いてもらうことができたと考えられると思います。もちろん、それだけではないでしょうが。ここに並んでいる作品をみていると、個々の作品に、他の作品ではない、この作品という個性が認めにくいのです。私の作品理解が浅いせいかもしれませんが、ジャコメッティの彫刻ということは分かります。そこで、その中から、ひとつの作品をピックアップして、その作品だけについて語ることは難しい。まず、その作品であるということが、分からないというのが正直なところです。しかし、並んでいる作品は、くらべれば違います。もとより、全く同じであれば、大量生産の工業製品です。作品ごとに、他の作品との間に差異を設けて、それぞれの作品の個別性を保障している。しかし、差異がありすぎるとジャコメッティの彫刻のイメージから外れてしまう。その差異のつくり加減というのが微妙で、言葉でうまく説明できない微妙なものであるけれど、見ればすぐそれと分かるものです。ここに、ジャコメッティという作家の小手先の器用さ、センスの良さを窺うことができます。私には、パターンを定着させた後のジャコメッティは、この小手先で作品を量産できたのではないかと思えるほどです。それは、家内制手工業の職人のようなのです。工芸品なんかに近いものです。

2018年2月 3日 (土)

ジャコメッティ展(3)~2.小像

Giacomettismoll  昨日の妄想仮説は、ここで展示されている小像によって、あっさり否定されてしまうことになりました。「見たものを記憶によって作ろうとすると、怖ろしいことに、彫刻は次第に小さくなった。それらは小さくなければ現実に似ないのだった。それでいて私はこの小ささに反抗した。倦むことなく私は何度も新たに始めたが、数か月後にはいつも同じ地点に達するのだった」と本人が言ったということですが、でも、リアリズムであっても対象と同じサイズに写すとは限らないはずです。だから、対象より小さく制作してしまうのは、わざわざ口にするのは、よほど意識していたからでしょう。
 実際のところ、わずか数センチの小ささで彫刻する苦労がたいへんだろうことは想像できます。そんな苦労をしてしまうことを、あえてやってしまっていることについて、ジャコメッティ自身の自覚はあったはずで、そのことは要因しているとは思います。どうして小さくなったのかは、私には想像がつきませんが、これだけ小さなサイズで彫刻をつくると、細かな細工はできなくなります。そこで重点を置くのは全体のプロポーションということになるでしょう。結果論になるのでしょうが、見る側もそうなると思います。そこで、ジャコメッティの彫刻について、作る側も見る側もパターンをつくったことになったのではないか。

2018年2月 2日 (金)

ジャコメッティ展(2)~1.初期・キュビスム・シュルレアリスム

 ジャコメッティが独特の人物像を作り始めるのは1947年ころからということで、その前が、彼の習作時代ということになるのでしょうか。
Giacometticubu  「キュビスム的コンポジョン─男」という1926年の作品です。まるで、ブラックあたりキュビスム絵画をそのまま三次元化したような作品です。しかし、変ではありませんか。もともと、キュビスムというのは立体を平面に映すときに、遠近法のようなごまかしではない方法でやろうとしたことで、立体を立体のまま作品にするなら、その理念に従えば、平面に映すさいの変形操作は無用のはずです。それを、平面に映した画像というフィルターを通して作品を作っています。主催者のあいさつにあるように、ジャコメッティが見たままを作品にしようとした人であるならば、何もこんなフィルターを通すのはおかしいはずです。これは、初期の修行時代の試行錯誤で、失敗した例ということなのでしょうか。私には、そうは見えないのです。だって、残されているんですから。破棄されないで。ということは、ジャコメッティは見るということについて、独特の考え方を持っていたのではないかと思うのです。
 「横たわる女」という1929年の作品です。横たわった女性のS字形の身体曲線が単純化されて、まるでスプーンのような形に擬せられています。この単純化と、言葉であれば駄洒落のような連想で何かのものに擬せられるというのはシュルレアリスムでよく使われる手法です。このような形の表層を単純化してパロディのように使いまわすのはマグリットのようでもあります。それは、制作年代かずれますが「横たわる裸婦」というスケッチと見比べてもらうと、女性の曲線的な身体を形態のブロックの接続のように捉えていて、それを立体化すると、この彫刻のようになるのが想像できます。
Giacomettilay  この二つの作品に共通していることは、ジャコメッティは対象を虚心坦懐に見てはいないということです。何らかの予断をもって、視覚以外の情報によって特定のフィルターやバイアスをかけて、視覚情報をできるだけ絞り込んで取り込んで、それをもとに作品を構成しているということです。主催者があいさつの中で「虚飾を取り去った人間の本質」と言っていますが、その絞られた視覚情報のことを言っているのではないかと思います。しかし、これらの作品をみると、そう思えますか。ジャコメッティの彫刻について語られたものを読むと、このあいさつのように本質に迫るということが言われても、その本質がどのようなものかを説明されることは皆無です。それは見れば分かるということなのか、それとも、そうは言ったものの説明できないということではないかと思います。つまり、この語っている人は、説明できない(分からない)本質を見ているのです。分からないのに、それを本質であると言えるのは、矛盾した態度です。それができてしまうのは、それは本質であると漠然と思える、つまり、そういう気分になっているからです。それは格好いい言葉で飾れば直観ということでしょうか。そういう視点でジャコメッティの、この時期の作品を見ると、そのような本質が掴めていない模索の時期ということになります。しかし、そんな本質なんて、もともとないのではないかと考えると、この時期の作品の意味は変わってくると思います。むしろ、ジャコメッティらしさという点では、彼のブランドとなっているパターンと、それほど変わらないと。
Giacomettilay2  「鼻」という作品は1947年の作で、あとの時期の作品のはずですが、なぜか、このコーナーに展示されています。けっこう有名な作品なので、意外な感じがします。何となく分かるのは、この作品は細長い人体のパターンから外れているということです。このことから、ジャコメッティの作品を見る人は細長い人体というパターンを人間の本質的なものとして見るという限られた見方に囚われているということ、それは展示する人も避けられないという、一つの例ではないかと思ったりします。それだけ、ジャコメッティの作品のパターンというのが呪縛力があるということの裏返しのあらわれと見ることもできるでしょう。この作品は、ジャコメッティの作品に珍しく顔があります。眼が窪み、口の開いたところまでは分かりますが、そこに表情を読むことはできません。この前にみた作品などから考えると、ジャコメッティは人間の形態、プロポーションに何らかのフィルターをかけることに興味が集中していて、人間の表情とか、色彩とか陰影といった細かいことには二の次だったのではないかと思います。そして、そこにあそびの要素があったと思います。それは、この「鼻」という作品の鼻を長く伸ばしたということ(作品を吊っている台の枠を越えて鼻が伸びている)や、それを吊り下げるという展示方法、そのために首を錘にしないとバランスよく水平に安定しないので、そのために形をつくっているところなどに表われています。開いた口の形とユーモラスです。同じ時期の細長い立像が「限りなく内側へ向かっていく縮み志向であって、同時に限りなく消していく引き算の美学」というような説明をされているのに対して、この「鼻」のバランスを欠くほど異常に長く引き伸ばされた姿は引き算ではなく足し算、しかも過剰さがあります。つまり、この作品の長く伸びた鼻は、本質を抽出するために余分なものを削ぎ落としていった結果細長い人体の彫刻作品になったという説明パターンの反証になっていると思えるのです。逆に、人体の身長とか線のように伸びるという要素を過剰にした結果、細長い人体彫刻になったという足し算の発想という可能性を提示することもできるかもしれません。
Giacomettinoise

2018年2月 1日 (木)

ジャコメッティ展(1)

 2017年8月 国立新美術館
Giacomettipos  天気予報では残暑がひと段落とのことだったけれど、8月前半とは打って変わった厳しい残暑の陽気となった。とくに、この美術館は地下鉄千代田線の乃木坂駅から直通といっても、特設のチケット売り場から玄関までの100メートルくらいがガラス屋根の下を歩くので、まるで温室の中のような灼熱地獄なのだ。月曜日に開館している美術館は、ここの他はサントリー美術館とBUNKAMURAザ・ミュージアムくらいしかなくて、閉館時間が18時までと、月曜の仕事終わりでも立ち寄ることができるという便利さゆえにくるけれど、逆に言うと、理由はそれだけということだ。ジャコメッティに興味がないわけではないけれど、万難を配しても見たいと思っているわけでもない。作品を見たければ、箱根の美術館に展示されているし、程度の認識しかなかった。
 いちおう、ジャコメッティという人について、主催者のあいさつを引用します。主催者は、この人をどのように評価し、どのような人として見せようとしているかが、そこに表われていると思います。
 スイスに生まれ、フランスで活躍したアルベルト・ジャコメッティ(1901~1966年)は、20世紀のヨーロッパにおける最も重要な彫刻家のひとりです。アフリカやオセアニアの彫刻やキュビスムへの傾倒、そして、1920年代の終わりから参加したシュルレアリスム運動など、同時代の先鋭的な動きを存分に吸収したジャコメッティは、1935年から、モデルに向き合いつつ独自のスタイルの創出へと歩み出しました。それは、身体を線のように長く引き伸ばした、まったく新たな彫刻でした。ジャコメッティは、見ることと造ることのあいだで葛藤しながら、虚飾を取り去った人間の本質に迫ろうとしたのです。その特異な造形が実存主義や現象学の文脈でも評価されたことは、彼の彫刻が同時代の精神に呼応した証だといえましょう。
 また、会期が終わり近くなって在庫に余りがあったのか、ジュニア向けのガイドを初老の私に渡してくれましたが、そのなかでジャコメッティの彫刻について、次のように説明されていました。
 ジャコメッティは、人間の姿を見えるとおり彫刻にしたいと考えていました。生きた人間が目の前にいるというあたりまえのことが、ジャコメッティにとっては驚くべきことだったのです。生きた人間から感じるおそろしさや美しさを表現するために、髪や服などよけいなものがだんだんそぎ落とされ、細長い彫刻が生まれました。
Giacomettireoni  つまり、ジャコメッティの彫刻というのは、彼の見たままの人間であるということで、それが身体を線のように長く引き伸ばした、彼独特の彫刻ということでしょうか。それにしては、「生きた人間から感じるおそろしさや美しさを表現するために、髪や服などよけいなものがだんだんそぎ落とされ、細長い彫刻が生まれました」の「生きた人間から感じるおそろしさや美しさ」というのが、ジャコメッティには具体的に見えていたということになって、矛盾しているように思います。このような矛盾した説明に表われているように、私に感じられるのは、ジャコメッティの彫刻というのは、ある種の傾向を(偏見といってもいいでしょう)もった人々に、そういう気分を起こさせることに効果的な機能を果たすように周到に作られているツールと言えるのではないかと思えました。そういう傾向をもった人々(つまり、彼の作品の消費者)にとっては、ジャコメッティは見えるとおりに制作したという説明は、とても心地よいもの(ある意味媚びるもの)として受け取られやすいものだった。そんな印象を持ちました。まるで、誹謗中傷しているように読まれてしまうのですが、言い方を変えると、ジャコメッティの彫刻については、形のヘンテコリンさを面白さとして笑って眺めるといった見方もあって、そっちの方が私には、親しみ易いのではないかと思えたのです。例えば、会場に入って主催者あいさつのパネルのすぐ後に「大きな像(女:レオーニ)」という、いかにもジャコメッティの彫刻の典型と、私のような通俗的な美術愛好者にも識別できるような作品が展示されています。ここには、一般的に女性像の美しさを表わす身体表現、例えば胸のふくらみや腰のくびれといった曲線や、その滑らかさのようなものは一切なくて、腰が心持ちくびれていますが、よく見ないと分かりません。また、表面はデコボコで粗く、滑らかさとはほど遠いものです。現在の一般的な視覚のものさしでみれば、女性像として美しいとは言えるものではないでしょう。しかし、こんなものを女性像として、人々に見てくださいと提示するのはジャコメッティくらしかいませんので、好き嫌いはべつにして、他の誰でもないジャコメッティの作品であるということは、区別がつきます。また、一度見たら忘れられないような特異性と、インパクトがあります。それも、言葉にしやすい(異常に細長いとか)ので、記録しやすい、ということは記憶にも残しやすい。つまり、人々に良い悪いは別にして、とにかく印象を残し記憶させるという点では、好都合の形になっていることは否定できません。あとは、それを好きになるか否かです。そして、このような独特に造形を、見る人は「何だこれは!」と拒絶するか「何でこんな形なのか?」と興味、あるいは好奇心を持つか。そのあたりは周到に考えられていて、人をみるときに私たちは、たいてい人の顔に注目します。ところが、ジャコメッティの人体像は顔が異常に小さくて、しかも表面が凸凹なので、顔がよくわかりません。しかし、顔らしい陰影があって、どうしても見る人をそこをよく見て、どうなっているのかを確認したくなります。そういうところから、この作品は見る人の好奇心を刺激し誘導するように作られている作品ではないかと思います。そして、あとは、それを、そういうものだと見る人に馴染ませる。そのためには大量に似たようなものをつくって、あそこでも見た、ここでも見たと慣れさせて、そうなれば人は、そういうものだといつの間にか納得してしまうようになる。そうなれば、ユニークなブランドとして業界のメインではないにしても、片隅に位置を確保できる。まるで、マーケティング戦略のような作られ方ではありませんか。それを具体的な作品を見ながら、順を追って述べていきたいと思います。

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