小津安二郎監督『晩春』の感想
1949年公開のいわゆる小津スタイルの最初の作品。笠智衆演じる初老の父親が原節子演じる婚期の遅れた娘を嫁にやる騒動とその後の悲哀という内容。鉄道の風景の静止したようなカットをまるで脈絡のないように続け、次第に風景から家、室内へ、そして人物へと滑らかにカットが切り替わっていく冒頭は、「東京物語」では抒情性を生み、東山千栄子の演じる老母の死の哀しみをシンボリックにする伏線にもなる手法に発展していく原点にもなっている。しかし、そのようないわゆる小津スタイルに収まりきれないシーンも数多くある。例えば、父娘が鎌倉から東京に出かけるために電車に乗るシークエンス。このダイナックな映像はアクション映画の類型的な列車のシーンに比べてはるかに躍動感に満ちている。他にも原節子が街路を歩くのを後ろから移動で追いかけるシーンのサスペンス溢れる映像とか。ここには小津スタイルの完成形ともいえる「東京物語」の統一感はない。ここにはスタイリストには程遠い小津がいて、その統一感のなさに小津の迷いが感じられる。思うに、小津は手探りで制作を始めたのではないか。映画史では前作「風の中の牝雞」の失敗の後の起死回生ということになっている。それは、結果としてのことではないか。例えば、父娘が京都に旅行にでかけ、旅館で並んで寝るシーンの室内灯に移る二人の脂ぎったような顔は、近親相姦と見紛うばかりだし、能を見た後で娘が父を難詰し逃げるように駆け出していくのは不自然なほどの激しさだし、さらにそれを後ろからの移動撮影で追いかけるのはフィルムノワールのようでもある。それは空回りと言えなくもないが、そこに小津の焦りとも表現衝動を抑えきれないとも、を感じ取らされてしまう。
しかし、この作品が小津の他のどの作品にもない感動をもたらすのは、そのようにあがきながら、小津が、ここで何かを見つけ掴んだことを作品のなかで感じ取れることだ。例えば、原節子演じる娘が駆け出すシーンは数回あり、それをカメラが後ろから追いかけるが、その場合は彼女が哀しみなどの強い感情にとらわれた時で、その思いをつのらせるのは、実はそれを映像として表わしているのは彼女の演技ではなくて、その後にでてくる部屋の廊下のシーンだ。小津スタイルの特徴である定点観測のような固定ショット。それはモンタージュではない、二つのシーンをつなげ方で、日常の坦々とした些細なことをつなげていくことが、人生の真実そのものにつながっていくことではないかということだ。それに気づかされれると、一見破綻にちかいような脱線が、実は些細な日常と、結果として関係づけられてしまうという力技に気づかされてしまう。最初、淡々として人形のように見える役者の動きが、最後にはこれ以外にないと感情移入してしまうように見方が変わって行ってしまうのも、そのせいだ。
だから、この作品の最後は、娘が結婚してメデタシでもなく、愛する娘が去ってサビシイでもなく、その一日が終わり、また、明日がくるという淡々とした終わり方になる。そこに名場面も名せりふのない。そういう一日の終わりが実は、真実を映し出し、見る者の感情をえぐってしまうことになってしまう作品になっている。
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