『資本の世界史』を読んだ。
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「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 小松英雄「みそひと文字の抒情詩 古今和歌集の和歌表現を解きほぐす」(2021.01.13)
- 蓮實重彥「見るレッスン 映画史特別講義」(2020.12.31)
- 八木雄二「ソクラテスとイエス」(2020.12.25)
- 東浩紀「ゲンロン戦記」(2020.12.22)
- 酒井健「ロマネスクとは何か─石とぶどうの精神史」(2020.12.07)
英敬, 石田: 記号論講義 ――日常生活批判のためのレッスン (ちくま学芸文庫)
記号論は19世紀終わりから20世紀はじめの近代科学の実体的な認識から関係論的な認識の転換に伴って生まれてきたものだ、と著者は言う。それまでの常識は、実体を前提として、認識すべき実体が客観的に存在していて、それを意識をもった主体が認識するという、それを表わすのが言葉であり記号であるというもの。ところが、20世紀の転換は、認識の視点自体が主体と客体の関係を構成するという関係性の場をつくりだす。そこには意味づけがつねに為されることになる。つまり、客観的に存在する実体ではなくて、主体にとって、そこに存在することに意味があるから認識する。例えば、目の前に大きな石があれば、それはぶつかると危ないという意味がある。だから、その存在を認識し、主体はぶつからないように避けようとする。このとき、主体と客体である石はぶつかる危険をさけるという意味があって、石は、主体にとって存在している。そして、その意味付けという、関係を設定するときに重要な役目を果たすのが言葉とか記号である。これが記号論。
そうすると、私がいる空間とか時間というのは、私にとって意味がある、と意味づけされたもので、それは、私の時間や空間への関わり方によって、変わってくる。その関わり方をつくっていくのが、記号ということになる。とくに、現代では、そこにメディアというものが入り込み、記号が複雑になり、重要度が大きくなっている。それは現象学における意識の志向性と新カント派の主観性の説明も、これと共通するところがあると思った。それを具体的に紹介しているのが本書。ただし、本書は、私が書いているような抽象的な議論ではなく、具体的な実例をたくさん提示していて、容易に、どういうことかイメージできるようになっている。
(★★★★)
片山 杜秀: 皇国史観 (文春新書 1259)
「皇国史観」を辞書で繙けば、「国家神道に基づき、日本の歴史を万世一系の現人神である天皇が永遠に君臨する万邦無比の神国の歴史として描く歴史観」ということになる。著者は、これは近代の産物であることを強調する。明治以降、近代西洋的価値観が覇権を握る世界で日本なりの近代を創出し生き残りを図ろうとしていく中で、この国が選んだ枠組みがまさに天皇を中心とした国家で、それを思想として理論づける役割を担ったのが皇国史観だという。実際のところ、維新の元勲たちにとって下級武士だった彼らが、大名等の上級武士を通り越して権力を行使するためには天皇の意思を体現している存在と位置づけた。他方で、その天皇は君臨するだけで、意思を持たないほうが良かった。したがって、天皇の権威は、徳という人格とか力とか能力といったものではなく、ただ存在するということだけで正統性を主張するものが必要で、皇国史観はそういうニーズに応えるものだった。そこに天皇自身の意思はないし、必要ない。
こういう天皇のあり方を否定したのが、平成の天皇だという。彼は自身の退位の意向を自身の意思で公表し、その際、天皇はただ存在するだけでは象徴にはなり得ない。つまり、存在するだけで正統性があるという論理を否定した。ここで近代的な天皇を、天皇自身が否定の意思を示した。皇国史観が否定されたことになる。
そういう天皇に、むしろ国民の方が追いついていないで、取り残されつつあるように、私は思う。 (★★★)
蓮實 重彦: 帝国の陰謀 (ちくま学芸文庫)
(★★★★)
蓮實 重彦: 伯爵夫人 (新潮文庫)
(★★★)
小坂井 敏晶: 神の亡霊: 近代という物語
(★★★★)
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