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2018年2月 5日 (月)

ジャコメッティ展(5)~4.群像

 このようなジャコメッティの小手先のセンスが発揮されたのが群像です。
Giacomettiseven  「森、広場、7人の人物とひとつの頭部」という作品です。人物の群像であれば、各人物の個性を顔や表情に作り分けるのが一番手っ取り早いのですが、それをせずに、おなじようなプロポーションのパターンを一見同じようにつくっています。奥の頭部は別にしてですが、この違いの組合せ型によって無限のパターンをつくり出すことができることになると思います。ここでの、それぞれの人物は、独自の個性を与えられず、隣との差異で見分けられるものなります。ここでは個人の個性、つまりは人格というようなことは無視されて、ゲームのコマのような操作可能の部品のようなものとして存在しています。細部に神が宿るといいますが、その細部を切り捨てたことによって、細部の際によって生じる意味、その意味の蓄積が人格個性と言ったことになると思いますが、そういったものを切り捨てているわけです。「引き算の美学」という形容が前にありましたが、もしそうやって切り捨てていったという視点でみれば、ここに残されているのは、その残骸の虚無のような世界ということになります。そう、この作品の人体彫刻の間には隙間風が吹いて流れるような薄ら寒い光景ということです。
Giacomettithree  「3人の男のグループ(3人の歩く男たち)」という作品では、ほとんど同じように3体の人体彫刻をつくって、手作業で作ったことから生まれる差異を3体の違いとして並べているというように見えます。これらを見ていると、作者がどのように考えていたかは別にして(「引き算」とかんがえていくと、この作品も虚無的な作品に見えてきます)、ジャコメッティの対象を凝視して、それを制作していくというのは、見る者が人物彫刻であることが分かるということのために機能していることではないかと思えてきます。この作品を見ていると、ジャコメッティが制作しているのは、かたちを想像して、それを手でつくって現実にしていく作業のように見えてきます。頭の中のイメージですから、細部までリアルであるわけではなく、その茫洋としたものを、そのまま現実に存在させる、その道具として人体という題目が見る側に必要だったというように。ジャコメッティの側としては、線がのびるということが形になって、見る者に何らかのイメージを喚起させるプロセスだったのではないか、と思えるのです。それは、展示されていた、彼のスケッチがモデルを長時間ポーズをとらせて描いている割には、線が少ないことからも言えるのではないか。彼は、その長い時間、モデルを凝視していて、鉛筆をはしらせるのではなくて、頭の中でその紙に定着させる画像をつくってはこわしを繰り返していたのではないか。そして、そのイメージができたところで、さっと鉛筆をはしらせて紙の上に実現させた。そこに細部の入り込む余地はありません。それと同じ作り方が、彼の彫刻作品では、もっと洗練されて実行されたのではないか。つまり、制作の作業そのものは刹那的といえるようなものではないか。その刹那が作品としてまとまる前提として、決まったパターンの土台が必要だった。極言すれば、ワンパターンを繰り返して作品を量産し続け、目先を変えて、見る人の興味を繋ぎ続けるマンネリの芸にジャコメッティの芸術というのは収斂するのではないか。

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