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2018年2月 1日 (木)

ジャコメッティ展(1)

 2017年8月 国立新美術館
Giacomettipos  天気予報では残暑がひと段落とのことだったけれど、8月前半とは打って変わった厳しい残暑の陽気となった。とくに、この美術館は地下鉄千代田線の乃木坂駅から直通といっても、特設のチケット売り場から玄関までの100メートルくらいがガラス屋根の下を歩くので、まるで温室の中のような灼熱地獄なのだ。月曜日に開館している美術館は、ここの他はサントリー美術館とBUNKAMURAザ・ミュージアムくらいしかなくて、閉館時間が18時までと、月曜の仕事終わりでも立ち寄ることができるという便利さゆえにくるけれど、逆に言うと、理由はそれだけということだ。ジャコメッティに興味がないわけではないけれど、万難を配しても見たいと思っているわけでもない。作品を見たければ、箱根の美術館に展示されているし、程度の認識しかなかった。
 いちおう、ジャコメッティという人について、主催者のあいさつを引用します。主催者は、この人をどのように評価し、どのような人として見せようとしているかが、そこに表われていると思います。
 スイスに生まれ、フランスで活躍したアルベルト・ジャコメッティ(1901~1966年)は、20世紀のヨーロッパにおける最も重要な彫刻家のひとりです。アフリカやオセアニアの彫刻やキュビスムへの傾倒、そして、1920年代の終わりから参加したシュルレアリスム運動など、同時代の先鋭的な動きを存分に吸収したジャコメッティは、1935年から、モデルに向き合いつつ独自のスタイルの創出へと歩み出しました。それは、身体を線のように長く引き伸ばした、まったく新たな彫刻でした。ジャコメッティは、見ることと造ることのあいだで葛藤しながら、虚飾を取り去った人間の本質に迫ろうとしたのです。その特異な造形が実存主義や現象学の文脈でも評価されたことは、彼の彫刻が同時代の精神に呼応した証だといえましょう。
 また、会期が終わり近くなって在庫に余りがあったのか、ジュニア向けのガイドを初老の私に渡してくれましたが、そのなかでジャコメッティの彫刻について、次のように説明されていました。
 ジャコメッティは、人間の姿を見えるとおり彫刻にしたいと考えていました。生きた人間が目の前にいるというあたりまえのことが、ジャコメッティにとっては驚くべきことだったのです。生きた人間から感じるおそろしさや美しさを表現するために、髪や服などよけいなものがだんだんそぎ落とされ、細長い彫刻が生まれました。
Giacomettireoni  つまり、ジャコメッティの彫刻というのは、彼の見たままの人間であるということで、それが身体を線のように長く引き伸ばした、彼独特の彫刻ということでしょうか。それにしては、「生きた人間から感じるおそろしさや美しさを表現するために、髪や服などよけいなものがだんだんそぎ落とされ、細長い彫刻が生まれました」の「生きた人間から感じるおそろしさや美しさ」というのが、ジャコメッティには具体的に見えていたということになって、矛盾しているように思います。このような矛盾した説明に表われているように、私に感じられるのは、ジャコメッティの彫刻というのは、ある種の傾向を(偏見といってもいいでしょう)もった人々に、そういう気分を起こさせることに効果的な機能を果たすように周到に作られているツールと言えるのではないかと思えました。そういう傾向をもった人々(つまり、彼の作品の消費者)にとっては、ジャコメッティは見えるとおりに制作したという説明は、とても心地よいもの(ある意味媚びるもの)として受け取られやすいものだった。そんな印象を持ちました。まるで、誹謗中傷しているように読まれてしまうのですが、言い方を変えると、ジャコメッティの彫刻については、形のヘンテコリンさを面白さとして笑って眺めるといった見方もあって、そっちの方が私には、親しみ易いのではないかと思えたのです。例えば、会場に入って主催者あいさつのパネルのすぐ後に「大きな像(女:レオーニ)」という、いかにもジャコメッティの彫刻の典型と、私のような通俗的な美術愛好者にも識別できるような作品が展示されています。ここには、一般的に女性像の美しさを表わす身体表現、例えば胸のふくらみや腰のくびれといった曲線や、その滑らかさのようなものは一切なくて、腰が心持ちくびれていますが、よく見ないと分かりません。また、表面はデコボコで粗く、滑らかさとはほど遠いものです。現在の一般的な視覚のものさしでみれば、女性像として美しいとは言えるものではないでしょう。しかし、こんなものを女性像として、人々に見てくださいと提示するのはジャコメッティくらしかいませんので、好き嫌いはべつにして、他の誰でもないジャコメッティの作品であるということは、区別がつきます。また、一度見たら忘れられないような特異性と、インパクトがあります。それも、言葉にしやすい(異常に細長いとか)ので、記録しやすい、ということは記憶にも残しやすい。つまり、人々に良い悪いは別にして、とにかく印象を残し記憶させるという点では、好都合の形になっていることは否定できません。あとは、それを好きになるか否かです。そして、このような独特に造形を、見る人は「何だこれは!」と拒絶するか「何でこんな形なのか?」と興味、あるいは好奇心を持つか。そのあたりは周到に考えられていて、人をみるときに私たちは、たいてい人の顔に注目します。ところが、ジャコメッティの人体像は顔が異常に小さくて、しかも表面が凸凹なので、顔がよくわかりません。しかし、顔らしい陰影があって、どうしても見る人をそこをよく見て、どうなっているのかを確認したくなります。そういうところから、この作品は見る人の好奇心を刺激し誘導するように作られている作品ではないかと思います。そして、あとは、それを、そういうものだと見る人に馴染ませる。そのためには大量に似たようなものをつくって、あそこでも見た、ここでも見たと慣れさせて、そうなれば人は、そういうものだといつの間にか納得してしまうようになる。そうなれば、ユニークなブランドとして業界のメインではないにしても、片隅に位置を確保できる。まるで、マーケティング戦略のような作られ方ではありませんか。それを具体的な作品を見ながら、順を追って述べていきたいと思います。

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