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2018年2月 2日 (金)

ジャコメッティ展(2)~1.初期・キュビスム・シュルレアリスム

 ジャコメッティが独特の人物像を作り始めるのは1947年ころからということで、その前が、彼の習作時代ということになるのでしょうか。
Giacometticubu  「キュビスム的コンポジョン─男」という1926年の作品です。まるで、ブラックあたりキュビスム絵画をそのまま三次元化したような作品です。しかし、変ではありませんか。もともと、キュビスムというのは立体を平面に映すときに、遠近法のようなごまかしではない方法でやろうとしたことで、立体を立体のまま作品にするなら、その理念に従えば、平面に映すさいの変形操作は無用のはずです。それを、平面に映した画像というフィルターを通して作品を作っています。主催者のあいさつにあるように、ジャコメッティが見たままを作品にしようとした人であるならば、何もこんなフィルターを通すのはおかしいはずです。これは、初期の修行時代の試行錯誤で、失敗した例ということなのでしょうか。私には、そうは見えないのです。だって、残されているんですから。破棄されないで。ということは、ジャコメッティは見るということについて、独特の考え方を持っていたのではないかと思うのです。
 「横たわる女」という1929年の作品です。横たわった女性のS字形の身体曲線が単純化されて、まるでスプーンのような形に擬せられています。この単純化と、言葉であれば駄洒落のような連想で何かのものに擬せられるというのはシュルレアリスムでよく使われる手法です。このような形の表層を単純化してパロディのように使いまわすのはマグリットのようでもあります。それは、制作年代かずれますが「横たわる裸婦」というスケッチと見比べてもらうと、女性の曲線的な身体を形態のブロックの接続のように捉えていて、それを立体化すると、この彫刻のようになるのが想像できます。
Giacomettilay  この二つの作品に共通していることは、ジャコメッティは対象を虚心坦懐に見てはいないということです。何らかの予断をもって、視覚以外の情報によって特定のフィルターやバイアスをかけて、視覚情報をできるだけ絞り込んで取り込んで、それをもとに作品を構成しているということです。主催者があいさつの中で「虚飾を取り去った人間の本質」と言っていますが、その絞られた視覚情報のことを言っているのではないかと思います。しかし、これらの作品をみると、そう思えますか。ジャコメッティの彫刻について語られたものを読むと、このあいさつのように本質に迫るということが言われても、その本質がどのようなものかを説明されることは皆無です。それは見れば分かるということなのか、それとも、そうは言ったものの説明できないということではないかと思います。つまり、この語っている人は、説明できない(分からない)本質を見ているのです。分からないのに、それを本質であると言えるのは、矛盾した態度です。それができてしまうのは、それは本質であると漠然と思える、つまり、そういう気分になっているからです。それは格好いい言葉で飾れば直観ということでしょうか。そういう視点でジャコメッティの、この時期の作品を見ると、そのような本質が掴めていない模索の時期ということになります。しかし、そんな本質なんて、もともとないのではないかと考えると、この時期の作品の意味は変わってくると思います。むしろ、ジャコメッティらしさという点では、彼のブランドとなっているパターンと、それほど変わらないと。
Giacomettilay2  「鼻」という作品は1947年の作で、あとの時期の作品のはずですが、なぜか、このコーナーに展示されています。けっこう有名な作品なので、意外な感じがします。何となく分かるのは、この作品は細長い人体のパターンから外れているということです。このことから、ジャコメッティの作品を見る人は細長い人体というパターンを人間の本質的なものとして見るという限られた見方に囚われているということ、それは展示する人も避けられないという、一つの例ではないかと思ったりします。それだけ、ジャコメッティの作品のパターンというのが呪縛力があるということの裏返しのあらわれと見ることもできるでしょう。この作品は、ジャコメッティの作品に珍しく顔があります。眼が窪み、口の開いたところまでは分かりますが、そこに表情を読むことはできません。この前にみた作品などから考えると、ジャコメッティは人間の形態、プロポーションに何らかのフィルターをかけることに興味が集中していて、人間の表情とか、色彩とか陰影といった細かいことには二の次だったのではないかと思います。そして、そこにあそびの要素があったと思います。それは、この「鼻」という作品の鼻を長く伸ばしたということ(作品を吊っている台の枠を越えて鼻が伸びている)や、それを吊り下げるという展示方法、そのために首を錘にしないとバランスよく水平に安定しないので、そのために形をつくっているところなどに表われています。開いた口の形とユーモラスです。同じ時期の細長い立像が「限りなく内側へ向かっていく縮み志向であって、同時に限りなく消していく引き算の美学」というような説明をされているのに対して、この「鼻」のバランスを欠くほど異常に長く引き伸ばされた姿は引き算ではなく足し算、しかも過剰さがあります。つまり、この作品の長く伸びた鼻は、本質を抽出するために余分なものを削ぎ落としていった結果細長い人体の彫刻作品になったという説明パターンの反証になっていると思えるのです。逆に、人体の身長とか線のように伸びるという要素を過剰にした結果、細長い人体彫刻になったという足し算の発想という可能性を提示することもできるかもしれません。
Giacomettinoise

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