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2018年2月13日 (火)

『この世界の片隅に』を見た。

 この作品は、戦時下の普通の人々の生活の視点から、徹底した時代考証の正確さと当時を生きた人々に対するリスペクトの姿勢で、戦争のリアルな姿を描いたといったことを言われる。しかし、多分、こんな見方をする人は少ないと思う。それは、一番最初のところ主人公が海苔を町に届けにいって途中で道に迷っているところを、屑拾い大男に拾われて、背負っている籠に放り込まれ、そこで未来の伴侶となる男性と出会う。この大男が山坊主のようだし、海苔から月や星形を切り抜いて望遠鏡に貼って、それを大男に見せたら夜になったと勘違いして眠った隙に逃げ出した。何か荒唐無稽なと思っていたら、主人公のすずが妹に絵を描きながらお話しを作っていたという落ちで結ばれる。ここが、私には、このアニメ作品の基本構造とか話の中心になっていて、戦争云々というのは、そのための題材と思えた。
 では、私の思った、この作品の基本構造とは、主人公のすずという人は、ずっと絵を描き続ける人で、日常の見たこと、経験したこと、あるいは料理のレシピのようなメモまで描いていた。しかも、その描いた絵が、この作品のアニメの絵柄と同じだということだ。アニメだから、そんなものだという意見もあるかもしれないが。そのことは、主人公の描いたものが、このアニメ作品の風景と一致するということは、このアニメの世界は主人公が描いたもの、という。その主人公は描きながら、その世界にいる。だからこそ、この作品はすずのモノローグで進行するし、すずの視点で、この人の周囲の風景や人々の行いを映し出していく。それが、シンボリックに提示されたのが、さきに述べた最初のシーン。だから、すずは語る人であって、行動する人ではない。この作品の中で、モノローグでは雄弁なのに、生活の場面では自分の意思を表すことはおろか、言葉も少ない。行動も受け身に終始する。それが、空襲で右の掌を失うと、絵を描くことができなってしまう。その後、すずは、次第に家族や人々に対して言葉を発し、主体的な行動するようになっていく。この作品が感動的なのは、それでもすずがモノローグをやめないということにあると私は思う。描くという手段を奪われながらも、すずがそれ以降も語ることを続けているのは、以前と違って意識的に敢えて語っているということで、そこに彼女の決然として、語るということを選択したことが表れている。この作品のドラマは、私にはそこにあって、それにはリアリティーと共感を誘う強い説得力があると思った。それは、この物語を、しかも、アニメという表現媒体でなければできない物語だった。まったくジャンルは違うけれど、スティーブン・キングの「スタンド・バイ・ミー」(小説の方)の感動に通じるものを感じた。語るということをめぐってのメタ・ストーリーという意味では、今、この作品を見ることの切実さは十分あると思う。

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